有馬新七
ありま しんしち

薩摩藩士
 
文政8年、薩摩伊集院の郷士、坂木四郎兵衛の子として生まれる。武麿、
 
正義。号を植鈴子という。四郎兵衛は新七が幼少時に有馬家を継ぎ、城
 
下士となる。新七は元服の頃から新陰流の剣を学び、また、独学で山崎
 
闇斎派の朱子学である崎門学を学んだ。19歳で江戸に出て、崎門学の
 
泰斗といわれた山口菅山に入門し、翌年には士の代講をつとめるまでに
 
なり、安政3年には京都へ赴き、師の紹介で梅田雲浜とまじわる。
 
安政の大獄後一時帰藩、文久2年島津久光が兵を率いて上洛の際、有馬
 
は一足先に薩摩を出立し、久留米の真木和泉ら志士を集め、久光の到着を
 
待つ。この行動は討幕活動と解釈され、真木和泉門下の平野国臣や清河
 
八郎、久坂玄瑞、品川弥二郎、入江九一、山県有朋ら全国各地から三百
 
人もの志士が集まったといわれる。彼らは討幕挙兵の先方たらんとし、
 
伏見の寺田屋に集結し、京都所司代襲撃を図るが、決行直前これを知っ
 
た島津久光は、京都錦小路の藩邸から取り静めの使者兼刺客を送り込み
 
薩摩出身の参加者の鎮圧を行う。
 
刺客との斬りあいのさなか、有馬の刀が折れ組み合となる。そこで討手の
 
一人、道島五郎兵衛を壁に押さえつけ、助太刀にはいった橋口吉之丞に
 
「おいごと刺せ」と叫んだ壮烈な死様は有名である。
 
文久2年4月23日、当時有馬は38歳であった。
 
墓所は京都市伏見区大黒寺。
 
 
 

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