有栖川宮熾仁
ありすがわのみやたるひと

公家
 
天保6年2月19日、宮家の名門、有栖川宮家幟仁親王の第一王子として、京都に
 
生まれる。17才の時、仁孝天皇の第八皇女和宮親子と婚約していたが、和宮は
 
公武合体という政略のために婚約を解消し、十四代将軍徳川家茂に降嫁した。
 
安政5年、幕府が日米修好通商条約調印を奏請すると、有栖川宮は、反対す
 
る外交拒絶の建言書を提出したが、調印は成立してしまった。
 
また、元治元年5月、父幟仁親王と共に国事御用掛に任じられ朝政に参与す
 
るが、7月の禁門の変で長州と通じていたという理由で職を免じられている。
 
有栖川宮熾仁親王は急進的な攘夷論者であり、八.一八の政変のあとも特使
 
として江戸に行き、幕府に攘夷実行を迫っている。
 
徳川慶喜の母が父幟仁親王の叔母にあたり、親戚の中から朝敵を出したこと
 
の責任感から倒幕の意志を強めたとも考えられている。
 
明治元年、戊辰戦争がはじまると、東征大総督となり、江戸城を接収。大総
 
督府を置き、関東、東北を平定した。
 
維新後は、兵部卿、福岡藩知事、元老院議官、同議長を歴任し、明治10年、
 
西南戦争では、征討総督をつとめ、その功により、陸軍大将となる。
 
明治15年には天皇の名代としてロシア皇帝の即位式に列席するなど、天皇
 
のあつい信頼を受けていた。
 
その後、参謀本部長、参謀総長など、主に軍事部門の最高職を歴任した。
 
日清戦争では、陸海全軍の総参謀長となったが、明治28年1月15日、終戦の
 
前に病没した。享年61才。
 
征東軍の軍歌で有名な「宮さん、宮さん、お馬の前に…」と言う歌の宮とは
 
有栖川宮熾仁親王のことである。
 
■ 御 家 紋 ■
 

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