江川太郎左衛門 
 えがわ たろうざえもん 

伊豆韮山代官

  江川家歴代代官の中で最も有名な三十六代江川太郎左衛門英竜は  

  三十五代英毅の次男として、享和元年5月13日に、伊豆韮山の  

  代官屋敷に生まれた。幼名芳次郎、後に邦次郎。字は九淵、担庵  

  と号する。  

  幼い頃から武を好み、文政元年18歳の時に江戸の剣客岡田十松  

  の門に入り、また、市河米庵、谷文晁について書画を学んだ。  

  文政4年、兄英虎が病死したため嗣子となり、天保6年代官職を

  ついで、家例により歴代当主の名前江川太郎左衛門を称した。  

  その所管地ははじめ、武蔵、相模、伊豆、駿河四ヶ国合わせて五万  

  四千石であったが、のちに天保9年には甲斐の幕領を加え、十二  

  万石に及び、以後増地されて、安政元年には二十六万石に達した  

  といわれる。代官就任当時より民生に励み密かに管内の民情を視  

  察し、人材の登用を行い、また篤農家二宮尊徳の意見を入れて  

  施政の公正と人民の保護育成につとめた。そのため、世直し江川  

  大明神の異名で呼ばれた。  

  江川はその所轄地に、伊豆、相模の海岸のような海防の要所がある  

  ことから、早くから海防問題に注目していた。はじめ水戸藩お抱  

  え蘭学者幡崎鼎について西洋事情や砲術を学んだが、天保8年、  

  幡崎が罰せられると、次に田原藩士渡辺崋山に師事した。  

  江川は老中水野忠邦の信任厚く、天保9年正月抜擢されて、目付  

  鳥居耀蔵とともに、相模、安房、上総および伊豆海岸の巡視に赴  

  いた。そのときの海岸測量にあたり、洋学者の渡辺崋山らの援助  

  を得たことから鳥居の恨みを買い、蛮社の獄の際、容疑者の一人  

  にあげられたが、水野忠邦の配慮により危うく難を免れた。  

  アヘン戦争の際、幕府は兵制改革に関する高島秋帆の建議をいれ  

  て、同12年、高島を江戸に招き、その所持する西洋砲を購入す  

  るとともに、江川に門人第一号として西洋砲術の伝授を受けさせ、  

  西洋砲の借用を許した。そしてその翌年9月には江川に西洋砲術の  

  教授を許可した。入門するものは、幕臣川路聖謨、松代藩士佐久間  

  象山はじめ、約一ヶ月の間に百名近くにものぼった。また同じ頃  

  西洋砲の鋳造も許可されたため韮山に鋳造場を設け、幕府、諸藩  

  の需要に応じた。  

  天保13年、幕府が軍事計画を企てると、翌14年5月、江川は  

  鉄砲方兼帯を命ぜられ、幕府の軍事顧問として改革を推進し、幕兵  

  の装備を火砲中心に切り替えようとした。  

  しかし、同年閏9月、水野忠邦が失脚したため、この改革は中止と  

  なり、弘化元年、江川は鉄砲方兼帯を解任された。  

  これ以後は韮山において砲術の教授と大砲鋳造に専念していたが、  

  嘉永2年、英艦マリナー号が下田に入港した際、自ら同地に赴き、  

  応接にあたるとともに、幕府に下田警備策を建議し、管内に農兵  

  を設置して海防にあたらせるべきことを力説したが、許可されな  

  かった。  

  嘉永6年、米艦隊の渡来にあたり、江川は勘定吟味役格に上げられ  

  海防の議に参画した。  

  内海警備のため、品川沖の台場設置にあたり、自ら指揮監督して、  

  安政元年に六基を完成、また、湯島の鉄砲鋳造場及び韮山の鋳造場  

  で大砲の製作にあたった。さらに韮山郊外に反射炉を設けて、鉄砲  

  の鋳造に資した。  

  同年暮れ、幕命により病をおして出府したが、翌2年正月16日、  

  江戸本所の屋敷で没した。  

  享年55歳。聖地韮山の金谷本立寺に葬られる。  

  静岡県田方郡韮山高校前に銅像がある。  

■ 御 家 紋 ■




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