江 戸 基 礎 知 識 録

江戸城とお膝元
徳川家康が天正18年(1590)に豊臣秀吉の指示で本拠地とした頃の江戸は、それまでに 居城を築いた太田道灌が「我が庵(いお)は松原つづき海近く富士の高根を軒端にぞ見る」と 詠んだ通り、関東の片田舎でしかなかった。家康の着任後は江戸城の本格的な改修と城下町の 建設も進む。慶長5年(1600)に関ヶ原の戦いで家康が勝利をおさめ、同8年(1603)には 征夷大将軍となって徳川幕府が成立、江戸は一転して日本の首都となり、繁栄の道を歩み始め 「繁盛は月の入るべき草もなし」と詠まれるほどになっていったのである。
中心をなす江戸城は正式名称を舞鶴(ぶかく)城、または千代田城といい、江戸では普通、 「お城」と言った。現在の皇居内堀に囲まれた部分が本城で、総面積約30万坪。全国一の規模を 誇っていた。将軍家居城であると同時に、将軍を頂点とした幕府所在地でもあり、260年余りに わたって江戸時代の日本を支配した。築城当時には五層の堂々たる天守閣がそびえて威風を 示していたが、1657年の明暦の大火で類焼し、世の中がすでに安定していたから、再建はされ なかった。天守閣と本丸、西の丸、二の丸、三の丸が周囲に配置され本城となり、堀をめぐら し、橋を渡した。現在は皇居二重橋となっている橋は江戸期には木造で橋桁が二重になって いたことから。登城する大名のお供の行列は雨や雪の日も堀端に座を占め、主君の戻りまで 待つ。江戸城周辺には大名屋敷が並ぶ。
大都市・江戸は基本的には城下町。将軍家居城を中心に、市街の配置・道路・経済・文化全てが 展開し、将軍家のお膝元、というのが江戸っ子の誇りでもあった。元禄時代以降は、住民の数は 100万を超え、同時代のロンドン、パリ、北京など世界の大都市を凌駕した。これは、江戸が 城壁に囲まれた都市でないことにもよる。人口の増加とともに開発が進んだのである。江戸は 京都とは違いまさに武家の都であり、広大な武家地の合間で町人は街道や河川沿いの狭い地域に 押し込められていたが、武家屋敷に緑が多く、街なかは水路が走り、自然は充分に生きていた。

大奥と表
江戸城本丸は将軍の政務の場所である「表」と将軍夫妻の私邸である「大奥」に分かれている。 一般的に武家の居所を「奥」といい、そこから奥方、奥様という呼称が生まれたのであるが、 大奥というのは徳川将軍家専用の呼び名で、総面積11000坪余りの本丸の半分以上を占めていた。 大奥に入れる男性は将軍ただ一人であり、表との境の廊下は御錠口(御鈴口)と呼ばれ、銅板張り の大戸が立てられ、「此より内男入る可からず」という紙札が立てられていた。大奥の内部制度を 整えたのは三代将軍家光の乳母であった春日局が有名だが、将軍御台所(正室)や側室の下に それぞれの実力者が権勢を競い、女性ばかりの独特な世界で時には風紀が乱れ、吉宗就任の時大量 解雇されたり、上層部にある者も絵島事件のような粛正を受けたりした事があるが、将軍をたてに 時には表向きの政道にまで口をはさみ、幕閣もその意向を無視出来ない時はあった。大奥には、 下働きまで含めると約千人の女性がいて、将軍には7〜8人の側室がいるのは普通で、最多の家斉 には21人の側室がいた。将軍正室は普通、公家や親王家から選ばれ、お付きの女中も多かったため、 大奥の生活もその度に京都風に感化されたりした。役職はそれぞれで、将軍の目に止まる可能性の ない下級の女性は雑用や力仕事も多かったので、武家以外の娘も奉公したが、大奥勤めをしたと いうだけで帰れば立派な履歴となる。しかし維新の解体まで、奥勤めの内容は生涯の守秘義務を 旨とされたので、外部からは想像で語られている部分も多い。

江戸の市街配置
江戸の土地の所有権はすべて将軍家にあったので、城下町としての江戸は幕府の都合が最優先され すべて「御城」を中心に考えられている。城の周辺には大名、旗本・御家人の屋敷が並ぶ。大名 屋敷は数万〜数千坪で、藩主が居住する上屋敷、隠居後または嗣子が住む中屋敷、郊外の別荘に あたる下屋敷と、三つの屋敷を構えるのが通例で、江戸市街の面積の大半は大名屋敷である。 俗に八万騎といわれる旗本・御家人屋敷、他に1千以上の寺社が各数百〜数万坪の境内を持ち、 わずかに残された土地に町人が密集する。武家地6割、寺社2割、町地2割の占有面積である。 特に明暦の大火で城と市街の大半を焼失した後は、復興計画でも防火対策が優先され、市内各所に 広大な火除け地を設けた。町人地が大江戸八百八町、と呼ばれるのは俗称で、中期以降はそれ 以上の町の数が存在したが、地域的にはきわめて狭い。江戸朱引図、という地図が示すように、 江戸と郊外の間には幕府が定めた境界線があり、その図にある朱色の線で引かれた内側を 「御府内」と呼び、町奉行の管轄はさらに内側の範囲である。行政の所轄は武家地が大目付、 寺社は寺社奉行、町地が町奉行、郊外は代官。江戸「御府内」の外側に新宿、板橋、四谷、品川と、 各街道の出入口である四宿があったように、現在の「東京都心部」や「都内23区」がそのまま 江戸の地域にはあてはまらない。

町並みと迷子
江戸市街には道路標識、町名標示というものがなく、また、武家も町家も表札はつけない。時代劇 のドラマのように門扉の側に書いてある、という事はない。であるから、見知らぬ人や場所を訪ねる 場合には切絵図(特定の地域を限って示した絵図)と呼ばれる地図と首っぴきというのが当然に なり、この図には誰の屋敷であるのか、主人の名前が詳細に載っている。人口の多い町人地は単に 「町」とひとくくりで書かれているが、多数の番所などもあり自治が発達しており、町名さえわかれば 近くで聞けば事足りたであろう。武家地と町人地の違いはすぐにわかり、武家はそれぞれ垣や塀を めぐらせ緑が多く、町人地は狭い範囲に家がひしめきあって「町」を形成している。町はそれぞれ 道路に面して隙なく並んだ建物により長方形を作っていて、出入りのための木戸が一ヶ所あり、 その内側に多数の長屋が密集している。火事になれば町ごと焼ける事が多い。町の木戸は夜四ツ、 (午後10時頃)には閉められ、町方は木戸番・自身番が、武家地は辻番が警戒にあたるだけで、 灯火はほとんど見られず、文字通り眠るように静まり返る。現代のように女性や未成年者が深夜、 あるいは終夜、外出している等は考えられない事であった。切絵図を見たり人に尋ねたりできる 大人はよいが、人出の多い江戸の町では迷子も多く出た。奉行所の役人は少なく、こうした点では 警察制度が整っていないので、子供がいったん町内から迷子になってしまえば、両親と再会する事も 難しい。だから江戸の子供は住所氏名などを記した迷子札を身につけているのが普通。将軍吉宗の 時に芝口(新橋)に掛札場ができ、迷子や行き倒れなど身元不明者の掲示が7日間なされ効果を あげた。その後は民間の篤志家によって一石橋など「迷子石」が立てられ、探す側は「たずねる方」 知らせる側が「おしゆる方」と石の必要な側面に張り紙をして吉報を待つ。

交通事情
家康は城下町建設にあたって、京都にならい幅4丈(12m)の縦横の道路で碁盤目状の町を作り、 他の地域もこれに準じたから、徒歩が殆どの当時、道幅は充分であった。しかし舗装はされず、 石と土とを踏み固めただけの道路はいたるところが凸凹道で、下水はついていないので雨が降れば ぬかるみで歩くのもひと苦労、晴れが続けば埃がひどい。山の手には坂も多く、安藤広重が「東都 名所坂づくし」を描いたように、それも名所のうちとなったが、毎日の往来は大変であったろう。 これに対し、日常的に水路が多用されていたのが江戸の交通の特徴である。江戸市街の道路は、 五街道など主要なものの殆どが現代に受け継がれたが、当時の交通網では陸路に劣らない役割を 果たしていた水路が発達し、江戸が「水の都」であったにも関わらず、殆どが陸上交通となった 現代では姿を消している。顕著なのは日本橋の例で、この場所では陸路と水路の目抜き通りが交差し、 陸路は東海道と中山道を結び、水路は日本橋川で魚河岸はじめ各種問屋の荷揚げ場が並んでいた。 下町は大半が埋め立て地なので川や堀が多く、物資の輸送はほぼ水路に頼っていた。各地からの品々も いったんは河岸から陸揚げされて倉庫に入る。人の移動も、場所によっては陸上を行くより船を利用 したほうが便利で疲れない。駕籠よりも猪牙船(ちょきぶね)のほうが安くて早いため、現在の 浅草山谷地区には山谷堀の船宿があり、吉原通いの客をもっぱら相手とした。

河岸と市場
江戸は大消費地であり、全国から大量に集まってきた物資はそれぞれの河岸で陸揚げされる。河岸は 陸揚げの場であり倉庫街でもある。江戸市中に70ほどあり、有名な魚河岸の他、米河岸、塩河岸、 竹河岸、多葉粉(煙草)河岸、のように商品名、行徳河岸、木更津河岸のように行き先の地名を とって名付けられたものが多い。江戸への物流はほぼ海上・水上交通に限られ、隅田川河口右岸から 芝浦までが「江戸湊」だが、浅瀬が多く大型船の停泊地は河口だけであったから、河岸の多くは 隅田川河口に近い地域に集中し、倉庫街の近くに問屋街が並ぶ。日本橋倉庫街・問屋街では、左が 米河岸、右が塩河岸と河岸が連なっていた。商品に耐久性のない魚や野菜は陸揚げと同時に売り さばかれ、日本橋にあった魚市場(魚河岸)、神田にあった青物市場(ヤッチャパ)はともに幕府の 御用市場で、御城の賄方がひどい安値で極上の品を買い上げていた。

蔵前の札差
隅田川の浅草側には、幕府御用の米倉「浅草御蔵」がずらりと並び、将軍家直属の旗本・御家人は 禄高の何石、何俵という言葉が示すように、俸給は米の現物支給が原則であった。旗本は米倉から 米を受け取る切手をもらい、御蔵の前(蔵前)に店を構える商人に俸給米の受け取りと必要以外の 分の売却を依頼する。この代理業者が「札差」であり、最初は手数料を取って業務代行をするだけ であったが、次第に奢侈に慣れた旗本・御家人に対し、将来の俸給米を担保とした高利貸しをする ようになり、御用達商人のトップにのし上がった。「御蔵前昔話」には「御用達なら平町人でなし 大名に近し」と評され、札差の財力を示している。札差は吉原等で湯水のごとく大金を消費して 威勢を誇ったが、寛政の改革で貸付金の棒引き、明治維新では押し込み強盗の武士団に有り金を 奪われるなど、多くが潰れた。

江戸は「江の門(と)」から地名が出来たというように、海と直結した土地である。古くから諸国 の船が入港して物資を陸揚げし、陸路へたどる中継地点であった。和船(日本の船)は海船と川船に 分かれる。海船は海上輸送に耐える構造の大型帆船で、主に関西から檜垣廻船、樽廻船が荷を運んだ。 俗に千石船と呼ぶのは米千石を積めるからだが、実際は200〜400石を積む。上方から江戸へは灘の 酒樽が主要な積荷であった。海船は日本橋川では帆柱を倒して停泊、茅場町から小網町へは渡し舟が 出ている。諸国から隅田川河口の江戸湊まで商品を積んできた船は、小型船はそのまま問屋の河岸へ 直行、大型船は河口に停泊して問屋からの小舟に積み替える。大型船に積まれた小型連絡船が 伝馬船、人と荷物の運搬にあたるのが高瀬船(平底船)。川船では隅田川遊覧の屋形船が最大級で、 中では飲めや歌えの大騒ぎが出来る。屋形ほど大きくないが屋根つき、というのが屋根船、 遊覧の周りには物売り船も出る。江戸には屋根付きの「風呂屋船」という移動銭湯船もあったという。 船首が鋭く猪の牙の形をしているのが「猪牙船」で、移動手段としては最も速い小型快速客船である。 客を乗せて颯爽と小舟を流す船頭には粋な風情があり姿がよいと人気があった。

古くから日本人にとって馬は非常に身近な動物であったが、江戸においては、町人が馬に 乗ることは禁止されており、江戸の町以外でも庶民が馬に乗る時は、馬方が綱を引いて 歩くのが普通であった。幕末に西洋人が来日して驚いた事に、日本では調教された馬が少なく、 ひづめの保護のために丈夫な蹄鉄をつけず、5km〜10km進めば損耗してしまう馬用の 草鞋をいちいち水で湿らせてつけ替えること、陸上での荷物の運搬にも馬車が使われず、 たとえ強い馬でも米1石(150kg)程度の荷を直接馬の背に乗せて、馬方が何頭かを 引きながら歩く、等という点で、外国人から見ると馬の利用が不合理だとの感想であった。 しかし、これは日本の庶民事情から見れば理にかなっており、まず馬の蹄鉄を精錬するには 高価かつ莫大なエネルギーを必要とする金属が大量に必要になるが、草鞋であれば馬の足に は柔らかく、履いた後で柔らかくなった藁は良質の堆肥として再利用されたのである。 またある身分以上の武士以外の乗馬は禁止されていたので、庶民の馬には厳しい調教をする 必要がなかった。さらに日本で馬車が発達しなかったのは幕府が許可を出さなかったためで ある。老中松平定信の行った「寛政の改革」の時、大坂の儒学者中井竹山が西欧のように 馬車で大量の陸運が可能になれば、1人の御者が多くの人や荷を運べるので参勤交代や民衆の 旅も飛躍的に楽になると提案したが、それは大勢の馬方、駕籠屋、飛脚の死活問題になると して幕府により握り潰されたのである。一定の身分以上の武士にとっては良い乗馬を持つ事 が必要となり、浅草薮の内(現在の台東区花川戸)で12月に行われる「馬市」には旗本たちも 品定めに訪れた。幕末の各種奉行を歴任した事で有名な小栗上野介は体格の良い西洋の アラブ馬に乗り、近づくと蹄の音で彼の登城だとわかったという逸話がある。 

駕籠と荷車
江戸では庶民の乗馬が禁じられていたので、陸上を歩かずに行くには駕籠に乗るしかない。 町駕籠には「辻駕籠」と「宿駕籠」の2種類あり、辻駕籠は商家の軒下や木戸の近くにいて 流しの客を拾い、宿駕籠は駕籠屋の店を構えているもので、勿論宿駕籠の方が格上である。 町駕籠の数は元禄末期に100挺が許可されたのをはじめに、天保年間には万を超えた。竹で組んで 筵の垂れをかけた簡便な構造のものが「四手駕籠」で、軽いので仕事を終えた駕籠かきは一人で かついで帰る。窓付きで囲いのついたものは「宝仙寺駕籠」。これらは前後二人で担げるが、 身分のある者の立派な乗物となると「権門駕籠(引手駕籠)」と呼ばれ、担ぐ棒も長手になり 重量も重く、担ぎ手の人数も多くなる。江戸の町駕籠は「エホイ、エホイ」という 掛け声に合わせて走り、一般的には他よりも足が速いというが、1里(約4km)を1時間弱、 運賃が天保年間で金2朱、銭800文くらいで、到底庶民が気軽に乗れるようなものではない。
荷物の運搬には牛に荷車を引かせる「牛車(うしぐるま)」。かじを2、3人で引き後押しが つく人力用の車は「大八車」で、この者たちは車引きとか車力と呼ぶ。牛車と大八車は いずれも両側二輪。人体だけで運ぶ時は荷を縛って棒を渡し前後を「軽子」という人足が担いで 運んだり、行商人などは両側に荷をぶらさげて「棒手振(ぼてふり)」と呼ばれ一人で担ぐ。街道筋の 荷物の運搬は担いでいくのが原則で、起伏が多いため破損を防ぐ意味もあった。 幕府は軍事上の理由から市中の車の使用を厳しく制限し、牛車や大八車も所有は登録制であった。
運輸に関わる職業では船頭のほうが技術を必要とし世襲の職務としてずっと格上であり、仕事に あぶれた日傭取(ひようどり)=日雇い人が多かった馬子や駕籠かきなどの肉体労働者は、裸虫などと 呼ばれ格下とされた。江戸者が都会人の常で荒っぽい仕事を嫌ったためもあり、実際に馬子や 駕籠かきには地方からの出稼ぎ人や、そのまま居着いて下層民となった者が多い。しぱらく 日雇いで稼ぎ故郷へ帰る者を江戸では「椋鳥(ムクドリ)」と呼び、「椋鳥も毎年来ると 江戸雀」の川柳が残っている。 

飛脚
日本で駅や伝馬の制度が設けられたのは大化改新の時が起こりだが、民間の郵便物を運ぶ飛脚の 制度が発達したのは徳川幕府が全国を支配した平和な世の中になってからの事である。「飛脚」 という言葉から、書状籠をつけた棒をかついで街道を疾走する姿が思い浮かぶが、これに近い のは幕府公文書用の「継飛脚」で、1人が「御用」と書いた高張り提灯をかかげて先払いをし ながら走り、もう1人が書状を入れた籠を担ぎ後を走る2人1組である。約2里半毎の宿場(宿駅) で次の組にリレーする駅伝方式であり、江戸・大坂間を至急便が65時間、普通便が75時間で 着くというから、昼夜を問わず時速8.5kmで走りぬく事になる。ただし、大井川の川止めで 所要時間が延びる事もある。
一般的な「定飛脚」は、もともと幕府の公用便であったのを、大坂商人たちが幕府認可を得て寛文3年 (1663)に京都・大坂・江戸の三都定飛脚の組合を作り、民間の郵便や小荷物も運んだのがの始まりで、 大坂江戸間の「三度飛脚」が最も利用者の多い定期便であった。最初は毎月2、12、22日に 大坂出発の3回だったが、幕末には毎月20回も便を立てた。「宰領」という専門の担当者が数頭の馬に 手紙や小荷物を背負わせ、自分は菅笠をかぶり悠々と馬上に乗り煙管をくわえてのんびり道中する 絵が残っており、「飛脚」という言葉からはほど遠いがこれが普通の飛脚の姿であり、旅行に 用いる「三度笠」の名は彼らに由来する。
大坂江戸間の飛脚の種類は、「並便」が半月〔銀1匁(1両の60分の1)〕、 中10日と前後を入れて12日で着く「十日限」、中6日の「六日限」〔金2朱(1両の8分の1)〕、 特別仕立て「四日限」〔4両2分〕となる。〔  〕内は文化3年(1806)の規定料金で、 特別便は非常に高額なため、商売上重要な場合だけなどに利用したであろう。飛脚は全国に支線が広がり、 大名家は領地までの間に専用の大名飛脚を設けたりしたが、民間業者の発達に伴い廃止した例もある。 江戸などの大都会では市内専門の「便り屋」「町飛脚」があり、集配人が風鈴をつけた 籠をかついで町家をまわったり、臨時の「町小使」という飛脚もある。全国一定料金の郵便制度が 起きたのはヨーロッパでも1840年のイギリスが最初で、日本は30年ほどおいて明治6年に なってからである。 

隅田川(庶民は大川と呼ぶ)に初めて橋が架けられたのは徳川家康の命令による 文禄3年(1594)の千住大橋で、まずは奥州街道との交通を優先してのもの。 川は天然の要害となる為、戦国の習いからしばらくは架橋されなかったものだが、 江戸市中を流れる部分に初めて架橋されたのは家康入府以後70年も経ってからの事で、 明暦の大火(1657年)により市街地の3分の2を焼失、死者10万人を超える大惨事の 復興計画の一端であり、川に逃げ道を遮られて水死、焼死者が多発した事実を重視したという。 まずは最大の渡し場に「大橋=両国橋」(1661、当時は川の東岸がまだ下総国だったため 武蔵国との両国の意味)、元禄年間「新大橋」(1693)「永代橋」(1698)、さらに 大川橋=吾妻橋(1774)が出来、最初は幕府が建造、維持する国営事業のような形であり 「御入用橋」と呼んだ。しかし、度重なる老朽や洪水等での破損や流失で、一度架橋するには 数千両もの費用がかかり、1744〜1809まで橋銭という通行料を徴収して民間からの費用で 賄おうとした。重要な「両国橋」「永代橋」の2ヶ所が同時に老朽化して危険となったため 財政難の幕府では一方を破却せざるを得ないと判断、古くからの両国橋の存続を選んだが、 永代橋はすでに深川の木場や倉庫群、歓楽街と日本橋、京橋の江戸中心地を結ぶ重要拠点と なっており渡し舟の昔に戻す事は出来ない、と両岸の住民が維持費を持ち寄るという形で 幕府の御入用橋をはずされ民間経営の橋となった。いわば江戸の橋は単に通路の一部と いうのではなく現在なら鉄道路線のような重要性を持っていたのである。橋の両側は駅前 広場のような発展と賑わいをみせ、夏の川開きは橋に集まる大勢の見物客から見えやすい ようにと両国橋を挟んで上流を本家の鍵屋、下流を分家の玉屋からの打ち上げ花火で 競演した。

水道
水路として天然の川を利用するだけでなく、江戸の大都市化に伴い重要となったのが 上水の確保である。江戸は大半が海岸沿いの低湿地を埋め立てた土地なので、井戸を掘っても 良い飲料水が得られず、徳川家康は入国前から家臣大久保藤五郎に命じ工事させ、これが 「小石川水道」として神田川を分流した水路を設け神田・日本橋方面へ給水した。 その他の地域は赤坂の大きな溜池の水を飲んでいたが大名の参勤交代制度が始まり 大勢の武士が生活するようになると到底足りず、小石川水道を拡張し続け寛永6年(1629)には 井の頭、善福寺、妙正寺池等を水源に「神田上水」として完成、総延長67kmにわたる水道網となる。 現在の「水道橋駅」そばの橋より約200m下流に水道の懸樋である水道橋があった。当初は高低差を 利用した自然流下式水道だったので、地下に埋めた木や石の伏樋(配管)から水道枡、水道井戸と 呼ばれる地上への穴で水を汲み上げ、30〜40m四方に1ヶ所の高い密度で配置されている。17世紀 後半には人口、面積とも世界最大都市となった江戸では三代将軍家光の頃から四代家綱の時代にかけ 新たに玉川上水を計画し、承応2年(1654)町人の兄弟である庄右衛門、清右衛門に請け負わせ 着工した。しかし予想外の費用がかかり、幕府の資金は高井戸まで掘ったところで尽きてしまい、 兄弟が私財を投げ打って大金を作り、羽村の水源から四谷大木戸(新宿区新宿1丁目)まで地上の水路を 開通、ここから地下へ分岐し、山の手から下町の南半分、京橋方面まで総延長85kmの給水が整った。 これほどの大工事を7ヶ月で完成した玉川上水の記録は様々で詳細には諸説あるが、幕府は兄弟に 「玉川」の苗字と帯刀、300石の禄を許して大きく功績を評価した。江戸では神田上水、玉川上水をあわせ 152kmという世界最大の水道網により人口100万人の6割程度までが、一年を通して、清流を源とする 上水道で生活出来るようになったのである。同時期の大都市では、ロンドンは週3日、しかも1日7時間 しか給水が出来ず、パリでは下水を放流したセーヌ川の水を汲んで、1811年まで上水兼用としていた。 「水道の水を産湯につかい」というのは江戸っ子の自慢の口上となり、明治31年に始まった 近代の加圧式水道が東京の市内全域に普及する1911年頃まで、2つの上水は役割を果たし続けた。 


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