| 水戸藩士 |
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| 文化3年3月16日、常陸水戸に藤田幽谷(一正)の次男として生まれる。 |
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| 母は丹武衛門の女。幼名武次郎、後、虎之助、誠之進と称す。諱は彪、 |
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| 字は斌卿、東湖は号である。父幽谷は「大日本史」の編纂に携わる |
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| 彰考館の総裁で、東湖も父の影響強く、文政2年には江戸に出て、 |
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| 亀田鵬斎と太田錦城に儒学を、岡田十松に撃剣を学ぶ。 |
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| 文政10年家督を継ぎ、父の私塾青藍舎も継ぐ。文政12年には |
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| 彰考館総裁代理となり、この年藩主継嗣問題が起こると会沢正志斎 |
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| とともに徳川斉昭を擁立し奔走。下級武士層の改革派の中心人物と |
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| なり、江戸へも赴き画策に成功。斉昭が藩主となるにおよび、以後 |
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| 斉昭の片腕として活躍することとなる。郡奉行に任命され民政にあ |
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| たり、御用調役となり、天保11年には側用人となって藩政の中核 |
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| に参画、藩内の保守派と対立しながら藩政改革を尽くした。 |
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| 親譲りの熱烈な尊皇攘夷論を唱え斉昭にも浸透させるが、弘化元年 |
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| 斉昭が幕府より謹慎を命じられるや東湖も幽囚の身となる。この間 |
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| 「回天詩史」「正気歌」を著し、その尊王論は全国の尊王志士の信望を |
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| 集める。ペリー来航とともに諸問題が発生しこれに対応すべく幕府は |
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| 斉昭を幕府参与として再び政界に復帰させ、東湖も返り咲くことと |
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| なる。すでに48歳となっていた安政2年には再び御側御用人幕府 |
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| 海防掛、続いて御側御用人学校奉行に任じられ、六百石を給された。 |
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| その年10月2日亥の刻(夜十時頃)江戸を中心とする二十里四方が |
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| 直下型の地震にみまわれた。世に言う安政の大地震である。東湖は |
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| 江戸小石川藩邸でこの地震に遭い、圧死する。この時一旦庭に避難し |
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| た東湖は火の元を消そうと屋敷内に戻った老母を助けようと再び |
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| 邸内に入り、落下した鴨居の下敷きになったといわれる。 |
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| 墓は茨城県水戸市、常磐共有墓地。 |
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