中村半次郎 
 なかむら はんじろう 

薩摩藩士
 
  天保9年12月、薩摩・鹿児島城下から東北一里の吉野村実方で藩士中村与右衛門兼秋の  

  次男に生まれる。幼名を信作。明治に改名して桐野利秋。半次郎の身分を郷士とするのが  

  通説だがこれは誤りで、西郷吉之助(後の隆盛)らと同様城下士の最下級身分である御小姓  

  与とすべきである。  

  半次郎は15歳から城下にある示現流・伊集院鴨居の道場まで剣を習いに通ったともいい  

  (西南記伝)、西田町にある江夏仲左衛門(後の寺田屋事件では鎮撫の一員に選ばれた手練れ)  

  の道場で野太刀自顕流の修練をしたともいう。父が江戸で罪を受け徳之島へ流され兄が急  

  病死し、半次郎は18歳で一家を背負い貧乏した為、独習で鍛えた面が多く、自宅の庭や近  

  くの樹木を相手に柞で作った木刀で1日8千回打ちつけるのを日課に猛烈な鍛錬を重ね、  

  径三、四寸の樹木がことごとく折られた。剣技は天才的に凄まじかったらしく、師からは  

  「もう教える事がない」と言われ、有名な逸話として、雨粒が軒から地面まで落ちる間に  

  三度抜刀して鞘に納めたと伝わっている。だがまだ当時荒削りだった半次郎に岩見半兵衛  

  という者が決闘を申し込んだ時には剣を抜かず「こげん細かかことのために闘うは男児の  

  恥ずるところじゃ」と言い逆に仲良くなってしまったという一面もある。岩見は「少年の  

  頃は自分と大差はなかったが京都に出てから年月と共に議論識見も長じ維新後はもう遙か  

  に及ばなかった」と後述、友人の肩入れもあろうが、巨人西郷隆盛の知遇を得た事、激動  

  の京都へ出た事が半次郎の転機になった事は確かである。  

  文久2年、島津久光(薩摩藩主実父)従士の一人として上洛の人員に入る事が出来、翌3  

  年には腕を見込まれ青蓮院宮の衛士に選ばれている。久光の前で剣技を上覧したとか、偶  

  然に西陣呉服問屋の娘お園を襲った暴漢を斬り捨てて救い懇ろになった、村田煙管店の娘  

  おはんも恋人だった、新選組局長の近藤勇が「薩摩の中村半次郎だけは相手にするな」と  

  隊士に訓戒した等在京時代の様々な伝承に事欠かない。幕末維新期を通じて友人の一人で  

  あった中井弘が「(半次郎は)斬ると言ったら必ず斬るから……」と言ったと伝わり、異名  

  「人斬り半次郎」が特に有名だが、半次郎自身が実際に人を斬ったという記録は、戊辰の  

  時に江戸で刺客に襲われ斬り捨てたというものと、自らの「京在日記」の中にしかない。  

  慶応3年9月3日、前年より薩摩屋敷の依頼で洋学教授をし、半次郎も師事していた信州  

  上田藩士赤松小三郎が佐幕派と親密になり再々帰国を願い出る為、間者となる疑いがあり、  

  四条烏丸通りに於いて遭遇、短銃に手をかけた赤松の発砲より速く半次郎が左肩から右腹  

  へ斬り下げて一刀のもとに殺したとの自筆記録である。この一件は西郷から訓戒され反省  

  したともいうが、半次郎は「人斬り」で地位を得たわけではない。禁門の変前、長州人と  

  交わって動静を偵察し、前夜には長州藩邸へ訪れ薩摩の局外中立を告げ(実際には薩摩が長  

  州を迎撃したが)、水戸天狗党の乱には薩摩代表として単身これに接触。土佐人が三条制札  

  事件で新選組と斬り合った後に逃走するとこれを匿ったり、新選組と分離した伊東甲子太  

  郎が殺され、残党の御陵衛士が逃げ込んだ時にも庇護し、土方久元の「回天実記」には、  

  真に正論家で討幕を唱える事最烈であり、西郷が武力討幕の見込を問うた時には黒田清隆  

  と共に「鹿児島三大隊は皆死に尽くすつもり」と覚悟を答えたという。薩摩の一棟梁格の  

  活動家だったのである。  

  鳥羽伏見戦では斬込隊を指揮し、東海道軍先鋒に抜擢され、西郷・勝の江戸無血開城談  

  判の場に村田新八と共にあり、結果総攻撃中止を東海道軍に命じた。戊辰戦争中に最も名  

  を高めたのは会津藩降伏に際し、会津若松落城後の受け渡しの大任を果たした事である。  

  人情家でも知られる半次郎は儀式に臨んで自らも「涙を止める事が出来なかった」と言い、  

  作法に則り、温情をもって戦後処理に当たり、松平容保から感謝の意として刀を贈られて  

  いる。無学者といわれた半次郎がなぜ見事にこの大役を果たせたか尋ねられると「愛宕下  

  の寄席で講談を聞いて城受け取りの場面を覚えていた」と謙遜した。軍監として禄米200石  

  を受け、明治2年鹿児島常備隊大隊長、同4年御親兵大隊長、陸軍少将、同5年熊本鎮台  

  司令長官、同6年には陸軍裁判所長と歴任。正五位を賜り豪邸に住み「池之端の御前」と  

  呼ばれ、秘蔵の佩刀には純銀の鞘に純金の線を張り、鍔と柄は純金にし西洋刀拵えの軍刀  

  に仕立てる等、光り物が好きで古銭収集の趣味もあったらしく、また艶聞も多く、参議の  

  大隈重信には「彼はすこぶる才幹の男であったが派手であった」と表現されている。西郷  

  は半次郎にもし学問があれば自分の及ぶ所ではない、と才能を評したし、半次郎自身は、  

  「おいに日本外史が読めたら天下が取れる」と無学を悪びれなかったという。  

  しかし明治6年の政変で征韓論を巡り西郷が破れ下野帰国すると、真っ先にこれに従い  

  自らも辞職して鹿児島に帰国。西郷の私学校本校の銃隊学校には篠原国許、砲隊学校には  

  村田新八が監督に就き、「前陸軍少将桐野利秋」は主としてその運営には参加せず、城下  

  を離れて吉田村宇都谷久部山の原野を開墾していた。今日の志士の欠点は志気は余りある  

  が恒産に乏しい、農業に従事し志気精神を養い国家の変に応じよ、と言い若者を凌ぐ健強  

  ぶりで、客とは夜を徹して議論する事もあった。明治8年には「時勢論」という論述を残  

  しており「ワシントンはあえて奔走せず静かに時の勢いが至るのを待ち、起こるに当たっ  

  ては必勝した。天下が乱れ怨嗟の声が四海に満ち、時機が熟した後に成敗を論じず発する  

  のが義挙であり、腹を決め臣子の義務を尽くせば応ずる者、来る者が続いて事が成功する  

  のだ」という主旨である。理想論であるが、初めから血気に逸る武闘派一辺倒の人間では  

  なかった事が伺える。しかし明治9年の神風連の乱、秋月の乱、萩の乱と不平士族の蜂起  

  が続き、明治10年1月に私学校徒が暴発した事を宇都谷で聞いた半次郎は「大事を誤った。  

  ただ断の一字あるのみ」と時機尚早である事は承知しながら理屈抜きで郷党と共に進発行  

  動に移り西南戦争に突入するのである。新政府軍の徴兵制に対して半次郎は「山形(有朋)  

  は百姓を集めて人形ごっこでもするつもりか」と批判したといい、自ら司令を勤めた事も  

  ある熊本鎮台を甘く見た事は確かで、西郷小兵衛(隆盛実弟)が提案した別働隊を設け長崎・  

  宮崎方面を奪うという作戦に反対、正面攻撃を主張。結果として3月の激戦に篠原を戦死  

  させる等戦略的失敗があり、転戦、次第に敗勢に追い込まれた。後に「西南戦争は桐野の  

  戦さであった」とまで言われる通り、最後の日も銃をとり白兵の戦場にあり、西郷自らが  

  白刃を抜いて駆けた程寡兵に陥った薩摩・城山に於いて、9月24日、半次郎も銃弾を右額  

  に受け、遂に死んだ。遺体からはフランス香水の匂いがした、という。  

  享年40歳。墓は鹿児島市の浄光明寺。  

■ 御 家 紋 ■

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