 

| 一橋家臣 | 
| 天保9年1月6日、家禄150石の水戸藩士原十左衛門雅言の次男に生まれる。母は外岡氏。 | 
| 幼名を小熊、諱を忠敬のち忠成。元服の時は任蔵と称し、安政6年10月に市之進と改めた。 | 
| 水戸の藩校・弘道館に学び、教授頭取・会沢正志斎・従兄の藤田東湖と水戸学を代表する | 
| 尊皇の両大学者に師事し、13才にして講義作文を為したと言われる。嘉永5年12月、江戸 | 
| に出て塩谷宕陰、藤森弘庵らに学び、翌6年幕府昌平黌に入学。重野厚之允、秋月悌二郎、 | 
| 松本謙三郎、岡敬輔らと交流する。同年7月、ロシア使節プチャーチンが長崎来航の折に | 
| 幕臣・川路聖謨らが応接のため出張の際は東湖の指示により川路の従者として随行した。 | 
| 安政2年10月、弘道館舎長となり、翌3年1月水戸城下五軒町に私塾菁莪塾を開設。所在 | 
| 地から「五軒先生」と呼ばれた。3月には歩行士、弘道館訓導となり、彰考館編修兼務。 | 
| 水戸学の第一人者と呼ばれるほどになっていた。 | 
| 安政4年3月、訓導職のまま小十人組となる。安政5年、大老井伊直弼が勅許なしに日米 | 
| 修好条約を締結するとこれに怒った朝廷が幕府を介さず水戸藩に戊午の密勅を送る。原は | 
| 返納派に反対して諸藩への回達を主張。9月には同志を率いて密かに出府し斡旋に努めた。 | 
| 安政6年5月、定江戸奥祐筆となったが、安政の大獄で前藩主徳川斉昭の水戸表永蟄居処 | 
| 分に伴い、10月馬廻組に転じ、再び水戸の弘道館訓導をつとめる。万延元年2月、藩庁が | 
| 密勅返納を決議すると、その反論を十ヶ条に列挙して藩庁に建言した。桜田門外の変後、 | 
| 同年4月より再び彰考館編修を兼務する。文久元年5月、東禅寺事件が起こり幕府の攘夷 | 
| 派への圧力が強まると、大橋訥庵らと共に老中安藤信正の要撃を謀議する。水戸藩主徳川 | 
| 慶篤の実弟、一橋慶喜に随従し、文久2年以後は京都にあって慶喜の徳川宗家相続と将軍 | 
| 職就任のために奔走。元治元年以降の原はこれまで過激攘夷論者であった立場から一変す | 
| ることになる。元治元年4月一橋家に入り、慶喜が禁裏守衛総督扱、海防備指揮の重役に | 
| 就くとその謀臣、懐刀として活躍。慶応元年9月、同家御側御用取扱を命じられ、慶喜が | 
| 徳川宗家を継ぐと奥番格奥詰となり、次いで目付に任じられた。以前と一転して兵庫開港 | 
| を積極的に推進する立場をとった原は変節漢として攘夷派から憎まれることになる。慶喜 | 
| が幕末の政界で時には「二心殿」とあだ名される程、時と場合に応じて論説を変更した事 | 
| も、刻々と変化する情勢を乗り切ろうとしたものであったが、慶喜への期待と不審がその | 
| まま、彼の側近達が主君を操る奸臣として憎まれる事に繋がったとしても不思議はない。 | 
| 文久3年の中根長十郎、元治元年の平岡円四郎に続き、遂に原市之進をも暗殺の刃が襲う。 | 
| 慶応3年8月14日、京都二条の官舎を自邸としていた原は、幕臣鈴木豊次郎、依田雄太郎 | 
| らに襲撃され、暗殺された。享年38才。原の後継として慶喜側近に新選組局長の近藤勇が | 
| 推薦された事もあったがこれは実現していない。優れた学識を持つ原ほどの切れ者までが | 
| いわば身内から殺されるという無理解は慶喜にとって痛恨ではなかったろうか。原市之進 | 
| の遺体は水戸藩関係者の墓碑を多く有する京都東山の長楽寺に眠り、墓は水戸市松本町の | 
| 常磐共有墓地にもある。 | 
The music produced byふみふみさん
