幕末を先導した剣法


 
江戸後期の剣術界を風靡した流派で創始者は千葉周作である。
 
周作は陸前の田舎生まれだが、父親の幸右衛門が北辰夢想流の
 
使い手だった為、早くからその手ほどき受けて腕を磨いた。
 
のちに下総の松戸へ出てきて、浅利又七郎や中西忠兵衛について
 
さらに修行を積んだ。独立すると北辰一刀流を称し、江戸の
 
日本橋に玄武館という道場を開いた。
 
玄武館はのちに神田のお玉ヶ池へ移り、一門から多くの秀才を
 
輩出した。その為この地名は剣道の本山の観を呈するようになった
 
周作のあとは、息子で流派を継いだ千葉栄次郎や、周作の甥の
 
千葉重太郎などによって、北辰一刀流はいよいよ盛んになった。
 
新選組関係者では、当初の指導者清河八郎が北辰一刀流の達人である
 
彼は最初は剣術よりも学問の方に熱心で、そちらの秀才が集まる
 
昌平黌にまで学んだほどである。儒学の師匠である東条一堂の塾が
 
玄武館に近かった為、そこにも通って北辰一刀流を修めたらしい。
 
新選組内で近藤勇と対立して粛正された伊東甲子太郎も弟三樹三郎と
 
ともに北辰一刀流の使い手であった。近藤の同志になった藤堂平助、
 
山南敬助も試衛館に入るまえはこの流儀であった。
 
重太郎の弟子では、土州脱藩坂本龍馬もこの門下である。
 
千葉栄次郎・道三郎時代の玄武館道場で、鬼秀とあだ名された下江
 
秀太郎も十代で塾頭を務めたほどの切れ者だった。特に片手突きに
 
威力があり、恐れられたという。明治時代まで北辰一刀流の隆盛を
 
伝えた彼の功績は大きい。
 
水戸弘道館で剣術師範を勤めた海保帆平や上州に北辰一刀流を広めた
 
牧野弘人、竹刀作りで授業料を稼ぎながら、玄武館で大成した
 
天保時代の井上八郎などもこの流派を盛り上げた人物といえよう。
 
 
 
                                  (参考 世界文化社新選組)

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