心形刀流 |
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文政八年、大御番三橋斧右衛門の長男として生まれ、名を盛任といった。 |
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湊信八郎信任は実弟。剣は叔父の伊庭軍兵衛秀業について、心形刀流を |
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学んだ。安政三年三月一日、講武所の剣術教授方出役を仰せつかったこと |
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については、初め、叔父伊庭秀業に出仕の命が出たが、秀業は固辞して受 |
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けず、養息伊庭想太郎と兄の子三橋と湊の三人を推挙し、出仕と相成った |
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ということだが、その後、奥詰を経て、剣術師範役並、二ノ丸御留守居格 |
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講武所剣術師範役布衣を仰せつかる。 |
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慶応二年十一月十八日、講武所の廃止により遊撃隊頭取となる。明治三年 |
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静岡藩静岡最寄舗亡方取締となる。明治九年八月二十六日、五十二歳で没 |
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剛道義剣居士と号し、静岡県清水市の龍津寺に墓がある。 |
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神道無念流 |
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安永七年常州新治郡大橋村の農民の子として生まれた。農業を嫌って家には |
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寄りつかず、市井無頼の徒に交わって遊興の徒と化した。しかし、ある日、 |
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翻然として悔い改めて、武州清久村の戸ケ崎熊太郎暉芳を訪ねて入門を願っ |
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たが、熊太郎はすでに隠居しており、江戸で道場を開く岡田十松吉利を紹介 |
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されて入門。あるときは下僕となって働き、またあるときは他家の食客にな |
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ったり、艱難辛苦の修行の末に、ついに印可を授かった。その後、武者修行 |
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に出かけ、諸国遊歴して水戸に戻って道場を構えたのは、文化年間の終わり |
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の頃といわれている。往時の水戸藩では組太刀の形剣術であった為、左一郎 |
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の試合形式の鍛錬法はなかなかなじまなかったが、藤田幽谷の理解によって |
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神道無念流は水戸に根付いた。天保九年十一月十三日六十一歳で没した。 |
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宝蔵院流槍術 |
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天保二年十月十一日長府藩士今枝流剣術師範小坂佐九郎の二男に生まれ、 |
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安政四年、三吉十蔵の養子。名は時治。槍は宝蔵院流中村安積に習い、萩 |
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明倫館に学んで、宝蔵院流指南小幡源左衛門に仕込まれた。「槍の慎蔵」 |
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と呼ばれ藩中に適う者はいなかった。慶応二年一月京都探索の藩命を受け |
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て下関から坂本龍馬と上京。伏見寺田屋に投宿した。折から木戸孝允が、 |
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薩摩京都屋敷に入っていた。二十日、龍馬が京都へ出かけて薩長同盟締結 |
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に立ち合う間、慎蔵は宿で首尾を待った。龍馬が寺田屋に戻ってきた二十 |
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三日の夜伏見奉行配下に襲われたが、慎蔵は槍を振るって応戦、指を負傷 |
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した龍馬を助けて危うく薩摩伏見屋敷に逃れた。同年七月には、長府報国 |
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隊軍監として小倉口で幕府征長軍と戦った。小倉陥落後は、城下の治安に |
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尽くしている。明治三十四年二月十六日死去、功山寺墓地に眠る。 |
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鉄人流 |
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佐賀藩の鉄人流剣術師範、吉村市郎右衛門惟章の次男として文政十三年に |
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生まれ、牟田氏の養子になった。名を高惇という。剣を実父吉村市郎右衛門 |
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に学び、嘉永五年、二十三歳で「二刀流秘伝の巻」を伝授。佐賀藩鉄人流 |
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師範内田庄右衛門良興にも師事、相伝を受ける。嘉永六年九月、藩命により |
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関東、東北など二ヵ年の武者修行に出る。『諸国廻歴日録』によれば、嘉永 |
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七年正月二十五日、斎藤道場を訪ねて、斎藤新太郎と会し、翌日歓之助らと |
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試合をする。二月五日、桃井道場で上田馬之助に勝ち、三月二十五日、男谷 |
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道場、十月二十九日、千葉道場に行くも栄次郎と立合いは出来なかった。 |
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後に、会津若松城の攻撃に参戦、佐賀の乱では江藤新平軍に従って降伏した |
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明治二十二年五月大赦。翌二十三年十二月八日、六十一歳で病没した。 |
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鏡心明智流 |
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駿州沼津藩士田中重郎左衛門豊秋の次男として、文政八年に生まれる。 |
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初め、田中甚助と称し、左右八郎といった。天保九年、十四歳で江戸へ |
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出て、浅蜊河岸の鏡心明智流桃井春蔵直雄に入門。十七歳で直雄の次女 |
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さいと結婚入婿となって、左右八郎から春蔵を襲称。名を直正といった。 |
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嘉永二年、二十五歳で皆伝を授与され、鏡心明智流の宗家四代目を継承 |
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した。文久三年正月、講武所の剣術教授方出役となり、慶応二年五月、 |
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富士見宝蔵番格「剣術師範並」と進んだ。同年十一月十八日講武所の廃止 |
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によって遊撃隊頭取並に転じた。慶応三年、将軍慶喜に随従して、京都 |
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から大阪に移って、玉造に臨時の講武所が設けられ、剣術指南に当った。 |
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ところが、年末の十二月二十八日致仕の届を出して、幕臣としての籍を |
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離れた。大阪城の火事騒ぎで、桃井に疑義がかけられているのも、卑劣な |
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行為とみられているためだろう。慶応四年六月、大阪市中取締りのために |
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組織された浪花隊に、監軍兼撃剣師範を新政府から命ぜられた。明治十 |
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八年十二月八日、コレラに罹り、六十一歳で没した。 |
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北辰一刀流 |
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文化七年、熊本藩士森喜右衛門の六男として生まれた。名は景鎮で、号は、 |
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一貫斎といった。北辰一刀流の千葉周作に師事。稲垣定之助、庄司弁吉、 |
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塚田孔平とともに「玄武館の四天王」と称された。天保十年七月、常州土浦 |
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藩の剣術師範役として招聘されたが、ほどなく辞し、同十二年飯野藩保科二 |
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万石に召し抱えられ、中小姓となり七両二分三人扶持を給されたが、剣術 |
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指南分として一人扶持を加増され、嘉永七年には、新地六十石の取次役に |
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のぼった。森要蔵は江戸麻布永坂に道場を構えていた。『江戸切絵図』にも |
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明記されている。往時、江戸で高名な剣豪であることは「保科に過ぎたるも |
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の二つあり、表御門に森要蔵」と囃される。慶応四年の戊辰戦争では、飯野 |
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藩は請西藩主林昌之助忠崇に協力して新政府軍と抗戦。要蔵は脱藩という |
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ことで門弟二十八名を率いて、会津へ向った。その中に次男虎雄も列をなし |
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ていた。慶応四年七月一日、白河口の雷神山の戦いで、土佐兵と対戦した。 |
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日の丸の軍扇を持って指揮していた要蔵に「おじいさん、今から斬り込みま |
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すよ」と虎雄は突進した。要蔵も遅れてなるものかとばかりに剣を振るって |
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突進した。敵兵を斬りまくったが、銃弾にあたって戦死、虎雄も腰を射抜か |
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れて戦死した。要蔵五十九歳、虎雄十六歳。実の父子でありながら、四十三 |
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の違いで実父をおじいさんと呼んでいた。墓は富津市浄信寺と白河市郊外 |
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羽太の大竜寺にある。 |
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直心影流 |
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上州佐波郡宮郷村連取の農民森村喜兵衛の長男として、文化六年に生まれ、 |
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名は嘉績といった。伊勢崎藩の直心影流吉田兵次正周に剣を学び、天保五年 |
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に目録を受けたが、その後、吉田の師匠たる江戸の石川瀬平次を紹介されて |
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修行を重ね、天保七年に目録と相伝書を授かった。森村隣兵衛には、右眼の |
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上に大きな青痣があった。武者修行から帰ったばかりの隣兵衛が、隙だらけ |
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の態で休んでいたところ、その風態に師の石川が、木刀で一撃を喰らわせた |
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その痕だという。楠流槍術に香取古流薙刀、さらには気楽流柔術から荻野流 |
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砲術まで修め、維新後は砲術を活した火術を応用して花火を造って生計を立 |
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たという。国定忠次の捕縛に関わったという話が面白い。明治二十五年二月 |
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二十五日、八十四歳没。戒名は寿山嘉績居士と号し、墓は群馬県伊勢崎市上 |
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連取の墓地にある。 |
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野太刀自顕流 |
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薩摩、鹿児島藩士。諱は初め兼包、のち兼義。野太刀自顕流を創始し剣聖と |
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謳われた長左衛門兼武の長子である。生没年は文化二年〜明治十一年。 |
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兼武がお家流の示現流との確執によって屋久島に流謫されて現地で没すると |
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天保六年十二月二十八日に家督を継いだ。半左衛門は弟新藏とともにやはり |
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剣聖と呼ばれる剣士だった。同十三年六月、半左衛門は藩の剣術師範に取リ |
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立てられた。野太刀自顕流は復権したのである。門人には父の時代からの高 |
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弟である大山格之助と鈴木勇右衛門をはじめ、有村俊斎、伊地知正治、江夏 |
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仲左衛門、野津鎮雄、東郷平八郎など、キラ星のような人材を有していた。 |
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寺田屋事件は門弟たちの同士討ちだったし、西南戦争でも多くの門弟を失っ |
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た。半左衛門はこの翌年に没している。失意に打ちのめされた最後であった |
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一刀正伝無刀流 |
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天保七年六月十日、六百石の御蔵奉行小野朝右衛門高福の五男に生まれた。 |
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称を鉄太郎、名は高歩、字が猛虎で、号が鉄舟といい、勝海舟、高橋泥舟と |
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ともに幕末三舟と呼ばれる。後に山岡紀一郎静山に入門して、槍術を学んだ |
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が、その年に静山は没し、妹の英子の入婿となり山岡を称した。安政二年の |
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ことである。家禄は百五人扶持で、静山の末弟信吉の養子ということになる |
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天保十五年、九歳で、新陰流久須美閉適斎祐義に学んだ。弘化二年八月、父 |
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に伴われて飛騨高山に移住し、嘉永四年、京都に滞在していた北辰一刀流の |
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井上八郎清虎を父朝右衛門が招聘し、鉄太郎はこの井上清虎から学んだ。 |
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諸書は井上清虎と延陵を同一人物としているが、延陵は清虎の父であり、 |
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谷中霊園甲三号五側にそれぞれの墓がある。嘉永五年、十七歳のとき、父、 |
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七十九歳で病没。七月二十九日、江戸へ帰る。安政二年、鉄太郎二十歳で、 |
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千葉周作に剣を学び、山岡静山に槍を学ぶ。安政三年、講武所世話役となる |
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安政四年、二十二歳で剣禅二道に精進し「修身要領」を作成する。さらに翌 |
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五年、「宇宙と人間」を編んで、自己の進むべき方針を定めた。二十八歳に |
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して浅利又七郎に剣を学び、慶応四年、西郷隆盛との歴史的会見を行い、 |
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江戸を火の海に至らしめなかった快挙を成し遂げる。 |
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明治二十一年七月十九日、午前九時十五分、座禅を組んだまま、五十三歳の |
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大往生。谷中の全生庵に葬られ、墓碑も建立されている。 |
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■ 幕末人名鑑 ■ |
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山田流居合術 |
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備中新見藩一万八千石の藩主関右京亮長輝の家士後藤五郎左衛門の次男として |
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文化十年に生まれた。称を五三郎、名を利重といったが、公儀御様御用を勤め |
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た山田家六代朝右衛門吉昌の養子となって、浅右衛門を襲称し、名は吉利、 |
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または吉年といい、号を和水といった。身分は浪人である。七代山田浅右衛門 |
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吉利が「首斬り浅右衛門」と呼ばれたのは、安政の大獄が吹き荒び、橋本左内 |
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や吉田松陰を斬ったことにある。吉田松陰は泰然自若として断首の座にすわり |
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「親思う心にまさる親心、今日のおとずれ何と聞くらむ・・という辞世を口ず |
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さんで、実に立派な最後だった」と伝えたが、それにひきかえ「頼三樹三郎は |
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未練ある態度であった」という。吉利の腕前は、首を刎ねるとき、首の皮一枚 |
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を残すという離れ業をもっていた。まさに山田流居合の極意である。雨降りの |
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ときなど左手に傘を持ち、右手一本でその技を見せた。父吉利から聞かされた |
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そんな話を後世に伝えた三男吉亮は、米沢藩の雲井竜雄や愛宕旭、河上玄斎、 |
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(高田源兵衛)を斬っているが、高橋お伝を斬ったときには失敗したといわれ |
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る。山田家には浅右衛門を襲称とするが、六代吉昌や八代を自称する吉亮は朝 |
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右衛門と書く。朝の方は幕府の認知がなかったことを意味する。明治十七年 |
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十二月二十九日、七十二歳で没した。戒名を天寿院慶心和水居士と号す。墓は |
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豊島区池袋の祥雲寺と新宿区須賀町の勝興寺にある。 |
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小野派一刀流 |
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文化十二年生まれ。名は明貞で、号を赤心といった。江戸へ出て中西忠兵衛 |
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子正に師事して、小野派一刀流を学んで皆伝を授かり、師範として弟子取リ |
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免許を得る。奥州二本松藩に招聘されて剣術教授方となる。同時に兄慶蔵も |
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算術をもって出仕した。山田の技量について、浅利又七郎義明の道場で山岡 |
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鉄太郎と立ち合って、その技量は互いに伯仲だったと伝えられる。維新後の |
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胖蔵は、福島県安達郡太田村に居を構え、明治二十三年二月五日七十六歳で |
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没し、上太田の広済寺に葬られた。襲いかかって来る蜂の大群を杖で叩き落 |
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してしまったというのだが、剣の達人と耳にしていた村人たちは、さすがに |
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口をあんぐりとその神技にただ、ただ歓嘆したという。胖蔵の逸話として、 |
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太田村で伝え聞く話である。 |
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唯心一刀流 |
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水戸藩士鮎沢伊太夫の次男で、文化九年に生まれ、笠間藩士山本郷右衛門良行 |
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の養子となった。名は久安、久軌、良軌といった。養父の良行は、唯心一刀流 |
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を鈴木六郎治根騅に学んで、藩校講武館で師範代を努めた。鉄之丞は幼少から |
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この養父良行について剣術と水術を学んだ。文政九年、十五歳の年に藩の講武 |
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館が設置され、ここで鈴木十内根寿と杉浦与三兵衛景高を師に修行した。文政 |
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十二年、十八歳で中小姓となり、二人扶持を給された。天保十二年、水戸弘道 |
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館が開かれ、鉄之丞が招かれての試合で、圧倒的勝利を収めた。鈴木十内から |
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唯心一刀流の免許皆伝を授かり、禄三十石で師範代を命ぜられ、水戸藩にも、 |
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指南に出かけるようになった。嘉永三年七月二十一日、三十九歳で没した。 |
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神道無念流 |
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因幡鳥取藩三十二万石の藩主池田相模守治道の末弟覚之丞道一を父に、文政二年に |
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生まれた。母は道一の側女芝宴といった。名は智親という。天保五年三月二十五日 |
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父道一が四十一歳で没した後、母は昇三を連れて、旗本松平英之助の臣百合元又助 |
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に嫁ぎ、昇三は又助の養子となった。神道無念流の道場を本所亀沢町に構えていた |
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ことは、新選組の永倉新八の『新撰組顛末記』に明記されている。永倉新八が百合 |
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元塾で修行したことはともかく、百合元その人の撃剣事蹟は詳らかでない。その没 |
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年月日も不詳と新八は書き残しているが、明治三十七年九月十八日八十六歳で没し |
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牛込の万昌院に葬られた。万昌院は功運寺と合併して、中野区上高田に転じたが、 |
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明治になって、実父池田家の認知によって池田に復し、名の智親を称として、池田 |
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家の菩提寺である墨田区向島の弘福寺に改葬されて墓も現存する。 |
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神道無念流 |
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文政七年、五千六百石の旗本岡田家の臣横倉政能の嫡子として、美濃国大野郡 |
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揖斐において生まれた。天保五年、十一歳のとき、父が病死して、家督を相続 |
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した。吉田久兵衛という者に剣術を学び、天保十一年、十七歳のとき、江戸勤 |
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番に転じたのを機に、神田小川町の小野派一刀流洒井要人文泰に入門し、天保 |
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十四年、揖斐に帰省した後の弘化二年、さらに、同門の梅田楳太郎光大の門に |
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入って修行した。その後、揚心流柔術や中島流砲術を学び、岡田家の剣術並び |
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に柔術の世話方の藩命を受ける。慶応四年東征軍に属し、東下の岡田隊副隊長 |
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に任じ、偽官軍として捕らえられた相楽総三を斬り、同年四月二十五日新選組 |
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局長近藤勇を平尾一里塚で斬首した。明治二十七年四月十三日七十一歳で没す |
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雄岳宗英居士と号す。 |
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