
| 伊予宇和島藩士 |
| 伊予宇和島藩十万石、伊達家第八代当主。文政元年8月1日生まれ。 |
| 七代宗紀には、長い間子供がなく、そのため五代村候の次男で、三千石を給 |
| されていた旗本山口直勝の第四子、亀三郎が宗紀の養子となった。 |
| 宇和島藩は、仙台伊達藩の支藩であり、江戸城では大広間詰の資格が与えら |
| れており、宗城は進歩的な雄藩の藩主との交流も深く、西洋の事情や学問に |
| 大いに関心を抱いていた。天保11年7月4日、四賢候の一人である佐賀藩 |
| 主鍋島斉直の娘、益子と結婚した。弘化元年7月16日、襲封し八代藩主と |
| なり、遠江守を名乗る。嘉永元年、思想犯として追われていることを承知で |
| 高野長英を迎え、蘭学の翻訳、教授、砲台の設計などを行わせた。嘉永六年 |
| には村田蔵六を招いて、蘭学の翻訳、教授、軍艦の製造研究をさせ、長崎か |
| らは、産科医を開いていたシーボルトの娘イネも藩医二宮敬作の口添えによ |
| り招いた。また、提灯屋の嘉蔵(後の前原巧山)を起用し、火輪船の模型製作 |
| に注目し、御船方に抜擢した。砲術においても、幕府鉄砲方下曽根金三郎を |
| 介して導入した洋式砲術を威遠流と名付け、大砲を鋳造して、洋式の軍事訓 |
| 練を行った。宗城は、こうした新しい情報を取り入れたばかりでなく、内政 |
| にも目を向け、海産物、木蝋、茶、和紙などの生産を奨励し、殖産興業によ |
| って藩経済の安定をはかった。安政年間、将軍継嗣問題では、松平春嶽、島 |
| 津斉彬、山内容堂らとともに一橋派として活動したが、安政の大獄で、大老 |
| 井伊直弼によって蟄居を命じられ隠居し、伊予守と改めた。文久2年以降は |
| 国事周旋にあたり、公武合体派として動いた。文久3年末には、参与会議の |
| 一員となり、大政奉還、王政復古の前後にはしばしば朝廷に招かれ上京した。 |
| 元治元年正月16日、幕政参与となる。慶応2年6月には英国公使パークス |
| も宇和島に来航、慶応3年には大政奉還に向かい動いた。 |
| 明治新政府の成立後は、議定、外国官知事、民部卿賢大蔵卿などを歴任した。 |
| 明治4年には全権として日清修好条規を締結。その後、政府公職を退き、華 |
| 族会館第一部長、修史館副総裁などをつとめた。 |
| 明治25年12月20日死去。 |
| 法名、靖国院殿旧宇和島城主従一位勲一等藍山維城大居士。 |
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