松平定敬 
 まつだいら さだあき 

京都所司代、桑名藩主
 
  弘化3年12月2日、尾張徳川家の分家、美濃高須藩主松平義建の8男として江戸に生まれる。  

  幼名鎮之助、号は晴山。兄である次男慶勝は尾張徳川家へ、7男の容保は会津松平家へ養  

  子に入り、慶喜の後で一橋家の養子に入った弟の茂徳(茂栄)と合わせ、一般に「高須四  

  兄弟」という。高須家には10男9女あり、4男8女が早世したという。六男が夭折してい  

  る為、兄容保を一つ繰り上げて六男、定敬を七男としている記録も多い。定敬もまた安政  

  6年9月伊勢国桑名藩主松平猷(みち)の養子となり、猷の死により、11月に14歳で桑名藩  

  11万石の藩主、松平越中守となる。当時26歳で急死した猷には3歳の男子万之助がいたが、  

  若齢のため長女に婿養子を迎えたのである。文久2年には実兄の容保が幕府の新設した役  

  職の京都守護職に就いていたが、文久3年2月、将軍家茂の上洛にあたり、定敬も先代の  

  後を承けて京都警備に赴く。元治元年、一橋慶喜が禁裏守衛総督に就任、その4月、定敬  

  は京都所司代に任ぜられる。兄の容保を助けて難局に当たれという意味での抜擢である。  

  京都所司代は京都に於いて町奉行所より位置は重く、武家、公家、警察、裁判、行政全て  

  を統括した旧来からの幕府出張所であり、当時19歳の定敬は荷が重いと強く辞退したが兄  

  同様拒否は許されず、就任後は公武合体の為に朝幕の折衝にあたり、京都の治安維持につ  

  とめる。同7月の禁門の変では、会津藩守衛の蛤御門を攻撃する長州藩兵を桑名、薩摩の  

  救援にて撃退し、9月に孝明天皇から鞍一式を賜り度々の宿衛を賞詞された。  

  京都における幕府政権を「一・会・桑」と呼び、或いは度々「会桑」と並べて称される程、  

  定敬の桑名藩は、容保の会津藩と行動を共にしていたが、ただ長州再征の解兵の奏請だけ  

  は容保が慶喜の依頼を辞したので慶応3年正月これを行った。慶応3年10月に、将軍とな  

  っていた徳川慶喜が大政奉還を奏上して、守護職、所司代も廃止となるが、平和のうちに  

  政権委譲を目論んだ将軍に対して、一部の公卿と薩長の謀略の為、定敬も朝敵とされ、桑  

  名藩士は怒り、薩長憎しの気運が高まる。明けて慶応4年1月、鳥羽伏見の戦には桑名藩  

  も幕軍に与して戦闘に参加したが、敗北を喫した。その敗報を受けた当時、大坂城の本営  

  に詰めていた定敬は、兄容保と共に徳川慶喜に呼ばれ、味方の諸兵にも黙って海路江戸へ  

  帰る供を命ぜられる。自藩の兵士が戦死し、或いは負傷して命からがら上様と殿様がいる  

  大坂城を目指して落ちてくるという最中に、その当人達が微行で脱出しようというのであ  

  る。この裏切り行為は若い定敬にとって堪え難い屈辱であり、その事が後日の行動に大き  

  く影響したのではないか。江戸に帰って後は、容保と共に慶喜に再挙を勧めたが、共に帰  

  藩謹慎を諭される。容保は全藩会津へ引き揚げたが、定敬は桑名には戻らず、ロシア船に  

  乗り、分領の越後柏崎に至り、勝願寺に入り謹慎した。柏崎での定敬の側近は恭順派の家  

  臣が多く、国元からも抗戦を避け帰国するようにと使者が来たが、新政府の会津藩に対す  

  る厳しい処分方針には会津側も態度を硬化させており、定敬もこれを受け抗戦の意を固め  

  つつあった。桑名藩の恭順派の筆頭である家老吉村権左衛門が抗戦派により暗殺されたが、  

  定敬の秘命によるものともいわれている。桑名藩では嫡子万之助を幼君に立て、藩として  

  は官軍に恭順していたが、藩内の抗戦派は定敬を追って脱出、江戸、宇都宮から転戦して  

  柏崎に到着し、定敬の周りを占める事となる。しかし天は味方せず、定敬は柏崎から会津、  

  米沢、福島を経て、仙台からは榎本武揚の軍艦に便乗し、わずか三人の供を許されて箱館  

  に渡航する。旧大名といえども後の蝦夷共和国設立に際しては要職に就かせず、客分とし  

  て随行者の人数も限定する、というのが総裁榎本武揚の考えであった。あくまで戦いに参  

  加したいと願った桑名藩士らは、定敬の供としての乗船を許されないならと仙台で土方歳  

  三傘下の隊士となる事を願い出て許され、箱館新選組には24人の藩士が加盟している。こ  

  の筆頭である森常吉(弥一左衛門)は前職は桑名藩士の重職であったが、箱館戦争後に旧  

  藩の戦争責任を負い、切腹している。定敬は箱館に日を暮らしていたが、遠路桑名から訪  

  れた重臣酒井孫八郎の説得に応じ、官軍再攻撃開始で箱館決戦を間近にした明治2年4月  

  13日に箱館を去り、東京へ出頭し、尾張藩に身柄を預けられた。桑名藩は8月15日には当  

  時12歳になる先代の遺子万之助を藩知事とし、6万石に減封を受けての再興が認められた。  

  明治29年、定敬は日光東照宮宮司となり、41年7月20日従二位に昇叙、翌日没した。  

  明治41年7月21日没、享年63才。  

■ 御 家 紋 ■




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