幕 末 諸 隊 総 覧 六
■所属、■結成の目的および時期、■総督、隊長名、隊員数、■主な戦歴、■解散時期。
第三遊軍隊 だいさんゆうぐんたい |
■北越草莽隊からなる首都警備部隊。 |
■明治三年正月、上京の居之、金革、北辰の三隊で組織。 |
■総取締白江竜吉。隊員およそ五百名。 |
■帝都の治安警備にあたったが、兵部省から派遣された総取締・白江竜吉の傲慢な態度と、諸事薩長優先のやり方に嫌気がさし、その筋へ帰郷を願い出る。 |
■同年九月二日、願いが許され、解散。 |
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遠州・報国隊 えんしゅうほうこくたい |
■遠州、浜松の草莽隊。 |
■慶応四年二月十三日、浜松の豪商、池田庄二郎の別荘『比礼廼舎』で結成。 |
■幹部池田庄三郎、山本金木ら。隊員数三百六名で、内訳は神主二百八十名、農商十四名、僧侶三、浪人五、その他若干名となっており、軍資金は池田庄三郎が私財を投げ出した。 |
■東征大総督、有栖川宮熾仁親王の露払いとして江戸へ進撃したが、戦乱が終息した同年十一月、浜松に凱旋。 |
■同月下旬、解散。 |
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駿州・赤心隊 しゅんしゅうせきしんたい |
■駿州、焼津の草莽隊 |
■慶応四年二月二十五日、遠州報国隊の幹部および尾張藩の勤王誘引掛りの働きかけによって誕生。主旨は賀茂真淵、平田篤胤の説く尊王の大義を体し、王政復古の御代を再現することであった。 |
■幹部鈴木五百重、富士亦八郎、森真魚尾ら。隊士は総勢百十人を三隊に分けて配置した。 |
■結成後の行動は遠州報国隊と同じだが、総じて佐幕的な地元からは馬鹿にされ「行けば官軍 帰りは仏 どうせ 会津にゃ かなわない」とからかわれた。 |
■明治元年十一月下旬、解散。 |
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伊豆・伊吹隊 いずいぶきたい |
■伊豆の神主部隊。 |
■慶応四年三月八日、尾張藩の勤王誘引掛り、都築九郎右衛門の要請で結成。主旨は「伊豆一カ国氏子取締リ警衛仰せ付ケラレ候ハゞ、朝旨ヲ相弁ヘ粉砕砕身、丹誠ヲ抽ンデ御用相動メ」―よというのである。これは神葬の実現をはかろうとする遠州報国隊と同じで、裏返せば王事に尽くすことによって、神官の社会的地位を向上させようという狙いがあった。同隊が民衆に受けなかったわけがここにある。 |
■隊長矢田部式部。隊員七十名。(社家四十人、社領二十人、その家族と家来十人)。 |
■結成当時は駿東地区の治安維持にあたっていたが、征討軍の駿河到着と共に、これに従って江戸へ進撃した。特筆すべき戦歴はない。 |
■同年十一月下旬、解散。 |
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赤 心 組 せきしんぐみ |
■駿州、赤心隊の分流。 |
■慶応四年三月下旬、清水港に入港の官軍艦船を警備するため、大総督府の命令により現地に派遣された一隊。 |
■赤心隊より二十五名が選抜された。隊長富士亦八郎、隊士富士宮内ら。 |
■徳島藩家老、稲田九郎兵衛指揮の「戦士隊」に協力して清水港に駐屯した。この艦船警備は夏まで続き、その後は清水港を引き払い本隊に合流。 |
■同年十一月、解散。 |
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力 士 隊 りきしたい |
■御親兵か。 |
■慶応四年一月頃、京都か大垣で結成。東山道官軍の錦旗奉持隊。 |
■隊長名不詳。隊士二十名ほど。 |
■各地に転戦するが、長州藩の力士隊とは別。 |
■同年十月、解散。 |
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兼 用 隊 けんようたい |
■大垣藩の抜刀隊。 |
■慶応三年秋、藩内の剣士で結成。 |
■隊長長屋益之進。隊士約五十名。 |
■慶応四年一月四日、鳥羽伏見の戦いでは鳥羽街道で薩摩軍と戦い、奮戦の末、富ノ森を奪還。帰順後、許されて東山道官軍の一翼となり、四月二十日、岩井で旧幕の純儀、誠忠の両隊と交戦。以後、宇都宮、白河攻撃でも武名をあげる。隊長の長屋益之進は大垣藩きっての闘将。 |
■明治三年九月、解散。 |
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正 気 隊 せいきたい |
■尾張藩の草莽隊。 |
■慶応三年十二月、尾州領内の草莽有志で組織。 |
■隊長近藤勲、長谷川三之助。隊士百二十二名。 |
■戊辰戦争に従軍。七十九名が戦功により藩庁より表彰されている。 |
■明治四年――月日不詳――帰郷解散。 |
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告 知 隊 こくちたい |
■高田藩。 |
■慶応四年二月、藩内勤王派の有志で組織。 |
■隊長原三郎兵衛、隊士七十名前後。 |
■五月十九日、北越戦争における信濃川左岸の戦闘に長州の奇兵隊と共に参加。その後、妙見付近より与板、出雲崎方面に転進。 |
■明治元年十月、解散。 |
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磅 薄 隊 ほうはくたい |
■尾張藩の草莽義軍。 |
■慶応四年一月下旬、結成。 |
■隊長松山省庵。隊士は平田派の国学徒からなり、藩内の豪農商中心、総勢百二十人。隊は四小番隊に分けられた。隊員には一刀流の名手、武田屯、後の海軍大将、八代六郎らがいた。 |
■結成後、調練もそこそこに入京した磅薄隊は、東征大総督有栖川宮の護衛にあたり、以後ずっと宮の警護をつとめた。のち信州方面に転戦、戦闘が一段落すると名古屋に凱旋している。 |
■明治四年、解散。 |
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浩 気 隊 こうきたい |
■若州、小浜藩の彰義隊応援隊。 |
■慶応四年一月、藩の帰順を喜ばない佐幕派の有志で結成。 |
■隊長蒲生三郎、隊士約三十名、大砲二門。 |
■小浜藩は譜代で佐幕色の強いところ。鳥羽伏見の役で旧幕方に加担して八幡、橋本の戦闘に参加した。藩主が大阪より小浜に帰る途中、丹波で山陰道鎮撫総督、西園寺公望の隊に襲撃され、その後「功を以て罪を償え」との朝命で帰順、以後、官軍先鋒となり北越戦争に参加した。蒲生らはこれを不服とし脱走、上野戦争では高田藩の神木隊と共に穴稲荷門を守って戦った。 |
■敗走後、蝦夷へ渡り、明治二年五月十八日、五稜郭の陥落で降伏、解散。 |
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凌 霜 隊 りょうそうたい |
■郡上藩佐幕派有志による抗戦部隊。 |
■慶応四年三月、藩主が江戸藩邸を引き上げるとき、江戸詰めの藩士有志で結成。 |
■隊長朝比奈茂吉(江戸家老、朝比奈藤兵衛の一子)。参謀速水行道(国学者)。隊士四十人。中には軍学者山崎正準の門人や、その血縁者、また岡本文造のような漢学や詩文に優れた者もいた。髷を切り、ざんぎり頭にして服装をととのえて戦闘に臨んだ。 |
■慶応四年四月十日、江戸は本所、中之島の菊屋を出立、宇都宮に向かい、同月十九日、日光に到着。ここで会津軍と合流し、北関東に進攻の官軍と戦った。以来、五ヶ月間、会津若松城に入るまで常野方面で転戦。 |
■九月二十二日、会津落城と共に生き残った隊士は郡上藩に預けられ、十月十二日、猪苗代出発、十一月十七日、郡上八幡に帰省し、禁固処分となった。 |
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帰順正気隊 きじゅんせいきたい |
■尾張藩。 |
■慶応四年一月、新選組や新徴組の帰順隊士で組織した勤王隊。 |
■取締高瀬杲之助、滋野看堯。隊士三十六名。 |
■信州、北越方面の戦闘に参加、勇名を馳せる。 |
■解散期日、不詳。「東正気隊」は別名か。 |
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尾州精鋭隊 びしゅうせいえいたい |
■尾張藩諸隊の一つ。 |
■慶応四年一月下旬、領内の草莽有志で組織。 |
■隊長長尾左仲、隊士八十名。 |
■出陣の機会に恵まれず、領内待機。 |
■明治元年十月、解散。 |
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草 薙 隊 くさなぎたい |
■尾州藩の農民義勇軍。 |
■慶応元年一月、鳥羽伏見の戦争直後、組織。提唱者は家老の田宮如雲で、その狙いは征討軍の軍事力強化にあった。東春日井郡の大庄屋、林金兵衛が田宮の要請に応え早速結成した。 |
■隊長林金兵衛、隊士六十二名。隊士は平田篤胤、銕胤の系統をひく国学者が多く、鳥羽伏見の戦にも私財を投じて京都御所の警備にあたっている。 |
■編成後ただちに京都警衛のために上京、新政府の東征軍編成で田宮如雲の甲信方面への出征が決まるや、これと行動を共にし、この後常野方面で戦って太田の警備に当たった。この時期新たに編成替えを行い大砲方を含む総勢二百四十一人となった隊は北越、奥羽方面に転戦した。農民兵としてはかなり強力な戦闘部隊で、戦ごとに戦功を立て、尾張藩の名を高らしめた。 |
■明治二年十一月、郷里に凱旋し、全員が帰農した。 |
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尾張・集義隊 びしゅうしゅうぎたい |
■尾張藩内の博徒によって組織された討幕義勇軍。 |
■慶応四年二月、結成。 |
■一番隊長平井亀吉(甲州、黒駒勝蔵の兄弟分で東三河に縄張りを持つ雲風の亀吉)二番隊長近藤義九郎(瀬戸一家二代目)総勢百五十人。 |
■新潟から新発田方面に転戦、十二月、名古屋に凱旋。戦功により幹部は士格に登用され、隊も藩の正規軍に編入された。明治二年十二月、中島郡を中心に発生した稲葉騒動の鎮圧にあたっている。 |
■幹部は士格に取り立てられていたが、新政府によって平民に落とされたため、のち歎願して「磅薄隊」を含め全員が士族となる。明治四年、解散。 |
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愛 知 隊 あいちたい |
■尾州藩。 |
■慶応四年一月、討幕戦争に備えて結成。 |
■隊長名不詳、隊員四十〜五十名。 |
■『元草莽隊戦功有無人員録』には「直接、戦闘の機会なし」とある。 |
■明治四年とあるも月日不明。 |
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新 選 組 しんせんぐみ |
■京都守護職お預りの市中警察隊。 |
■文久三年三月十三日、京都郊外壬生村で結成。任務は市中取締りで、京都が倒幕派志士の跳梁を見るようになってからは、その捕斬に奔走した。 |
■結成当時は局長芹沢鴨、新見錦、近藤勇、副長は土方歳三、山南敬助。隊士は沖田総司、永倉新八、原田左之助、藤堂平助、井上源三郎、斎藤一、平山五郎、平間重助、野口健司、阿比留鋭三郎、佐伯又三郎、粕谷新五郎の十七人。のち京都で募集をしたものを加えると、総勢三百人を超えた。 |
■新選組がもっともめざましい働きをみせたのは、元治元年六月五日の池田屋事変である。志士たちが企てていた「京都に火を放ちその隙に天皇を長州に連れて行く計画」を未然に防いだ。禁門の変後、隊の組織を整備した新選組は各方面で華々しい活躍を見せるが、時代が倒幕に傾き、新式の武器などを使った戦争になると白刃戦を得意とした新選組は活躍の場を失った。慶応四年の三月、江戸で甲陽鎮撫隊を結成し、甲州勝沼で土佐藩の「迅衛隊」と戦って敗れた。 |
■近藤勇の死後、斎藤一が一部新選組を率いて会津に向かった。、のち土方も合流、旧幕軍と共に北関東、会津、箱館方面で官軍と戦ったが、明治二年五月十一日、土方歳三が戦死、その後は相馬主計が最後の新選組隊長となる。五月十五日、箱館弁天台場で降伏。 |
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高台寺党 こうだいじとう |
■新選組からの分隊。形式上は山稜奉行戸田大和守の支配下にあった。正式名称は孝明天皇御陵衛士、または禁裏御陵衛士。屯所として東山高台寺の塔頭月真院を与えられたので、高台寺党と呼ばれる。 |
■慶応三年三月十日、新選組参謀伊東甲子太郎を中心とした尊攘派十五名で結成。 |
■取締り伊東甲子太郎、衛士鈴木三木三郎、篠原泰之進、新井忠雄、毛内有之助、服部武雄、藤堂平助、加納道之助、富山弥兵衛、阿部十郎、内海十郎、中西登、橋本皆助、清原清、(斎藤一)。 |
■尊王行為を表向きに、実は薩長の内情を探ることが分離の理由だとして近藤らを説得したが、太宰府や長州に赴いて西国諸藩の志士に接近したりという勤王活動を繰り広げていた。 |
■慶応三年十一月十八日、伊東の横死から始まる『油小路事件』により、藤堂平助、服部武雄、毛内有之助監物の三人が死亡、残りは逃亡などでバラバラとなり、事実上消滅した。一部はのち赤報隊二番隊となる。 |
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伏 水 隊 ふくすいたい |
■京都。 |
■慶応四年二月、京都伏見の有志で組織。 |
■長官望月市太郎義高。同志七十名。 |
■当初、皇城の治安にあたっていたが、のち東征軍に従って関東に下るも戦歴不詳。 |
■解散は明治二年とある。 |
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見 廻 組 みまわりぐみ |
■幕府の検察隊。 |
■元治元年四月、京都で組織。 |
■初代組頭寄合蒔田相模守広寺、交代寄合松平因幡守康正。数年後、小林弥兵衛と佐々木唯三郎が組頭となる。隊士岩田織部、小笠原弥八郎、今井信郎、桂隼之助ら。隊士には武術に優れた直参の二、三男があてられた。 |
■洛中に横行する尊攘派浪士の取締が任務であった。、坂本竜馬、中岡慎太郎暗殺は彼らの仕業ではないかと言われている。 |
■彼らは鳥羽伏見の戦に参加して壊滅的な打撃をこうむり、佐々木唯三郎はこの時戦死、生き残った隊士の多くは旧幕抗戦部隊に身を投じて奥羽から蝦夷箱館方面に転戦した。 |
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雷 神 隊 らいじんたい |
■桑名藩の佐幕派抗戦部隊。 |
■慶応四年二月、江戸詰めの非恭順派藩士、立見鑑三郎尚文が組織。 |
■隊長はフランス式陸軍伝習をうけた立見鑑三郎。隊は砲隊を含む二百余の精鋭。 |
■立見はこの隊を率いて支邑の越後柏崎に赴き、武力を背景に恭順派を駆遂して抗戦態勢作りを行った。この時期桑名城は恭順派によって官軍の接収下にある。北越戦争で河井継之助の長岡藩に呼応して出撃し、五月十三日、榎峠で長州の奇兵隊を破り、会津へ転戦、引き続き蝦夷箱館に渡って各地で官軍を苦しめた。 |
■明治二年五月十八日、五稜郭の陥落で降伏、隊を解く。 |
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神 風 隊 かみかぜたい |
■桑名藩非恭順派の抗戦部隊。 |
■慶応元年春、結成。 |
■隊長町田老之丞、隊員百五十名。町田は雷神隊隊長、立見鑑三郎の実兄。隊号は伊勢の神風にちなんでつけられた。 |
■同年五月十五日の上野戦争で彰義隊の応援に駆けつけたが、既に勝敗の決した後で、そのまま下総方面に移動し、以後、北関東から越後、会津方面に転戦。その後、榎本艦隊に投じ蝦夷箱館へ渡ったが、はるばる訪ねて来た恭順派の家老酒井孫八郎に説得され、戦いを断念し、定敬と共に桑名に戻った。 |
■明治二年四月、解散。桑名到着後、隊員はことごとく付近の寺院に収容された。 |
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致 人 隊 ちじんたい |
■桑名藩の抗戦部隊。 |
■慶応四年春、鳥羽伏見の敗走後、江戸で編成。 |
■隊長松浦秀人。隊士百名。武器がないので九段坂上の兵隊屋敷を襲い、隠匿の銃器二百挺を奪って武装した。 |
■四月、江戸藩邸を脱走して常野方面で官軍と戦い、北陸方面へ転戦。戦意は旺盛であったが、装備が劣弱(服装は稽古着に甲冑、鉢金に義経袴と言ういでたちだった)なため、しばしば敗北を喫し、味方の足手まといになったといわれる。その後、蝦夷に渡って官軍と戦う。 |
■明治二年四月、解散。 |
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山 国 隊 やまぐにたい |
■丹波国桑田郡山国郷の勤王隊。 |
■慶応四年一月五日、山陰道鎮撫使、西園寺公望の呼びかけに応じ、結成。別名を「西軍」あるいは「河童隊」という。 |
■沙汰人水口市之進、藤野斎。以下一〜五番組組頭、名主分、従士分合わせて計六十四人。客員隊士として因州藩の伊王野治郎左衛門ら十二名が参加。 |
■のち「親兵組」と合流、二月十三日、京都を発って甲州勝沼から上野戦争に参加、さらに北関東から奥羽方面に転戦した。 |
■明治三年春、解散。 |
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丹波・弓箭隊 たんばゆみやぐみ |
■丹波桑田郡馬路村の郷士隊。 |
■慶応四年正月七日、山陰道鎮撫総督、西園寺公望の要請により急遽編成。 |
■取締庄屋中川武平太、人見勝之進。隊員二百名。 |
■山陰道鎮撫軍が丹波方面の交通の要衝「老の坂」をおさえる亀山城を攻めた時、小浜藩が応援に打って出るという情報―後で虚報と判明―が入ったので西園寺が弓箭組に急遽出動を要請した。その後、福住→篠山→福知山→宮津→松江→津山→姫路と周って三月二十八日、京都蛤御門に帰着した。 |
■北越、会津に転戦後、明治二年秋、解散。 |
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親 兵 組 しんぺいぐみ |
■丹波山国郡の草莽隊。当初、東軍と称し、仁和寺宮に随従した。 |
■慶応四年一月十一日、山陰道先鋒鎮撫使の要請により、五社明神前で結成。 |
■沙汰人鳥居専学、河原林安左衛門、組頭横田惟貞。隊士は江口大右衛門以下二十七名。 |
■同隊は山国隊に編入され、フランス式調練をうけて因州藩の指揮下に属し、二月十三日京都から東征の途についた。 |
■明治三年春、帰郷解散。 |
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十津川親兵 とつがわしんぺい |
■文久三年八月、天誅組挙兵に呼応した十津川郷士隊の流れ。 |
■同年四月、召されて禁裏守衛に馳せ参じ、御親兵となる。 |
■隊長羽根富次郎、隊士約百五十名。 |
■戊辰戦争では有栖川大総督宮の親衛隊となり転戦。 |
■明治元年十月下旬、京都に凱旋、解散。 |
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天 誅 組 てんちゅうぐみ |
■大和、五条で挙兵した討幕派の武装集団。天忠組とも書く。 |
■文久三年八月十八日、編成。 |
■主将元侍従中山忠光、総裁藤本鉄石、松本奎堂、吉村寅太郎。隊士は土佐、因州、筑後久留米、肥後などの脱藩士に十津川郷士一千余名が加わり、総勢千数百人と言う大集団であった。 |
■天皇の大和行幸の詔勅が発せられた日の翌八月十四日、中山忠光ら三十名の同志達は洛東にある方広寺に集まり、大和に向かった。一行は五条代官所を襲撃して代官鈴木源内の首級をあげ、桜井寺で天誅組の旗揚げをした後、高取城の攻撃に向かった。しかしこの戦に敗れるや近隣諸国の総攻撃を食う羽目になり、一行は十津川から河内に走った。 |
■九月二十四日、大和吉野郡鷲家口の激戦で幹部の吉村、松本、藤本らは戦死、脱出したのは忠光ら七名のみで、天誅組は壊滅した。 |
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赤 報 隊 せきほうたい |
■草莽隊の代表的なもの。 |
■慶応四年一月九日、江州、愛知川在、松ノ尾山で結成。 |
■大将綾小路俊実。軍裁相楽総三(一番隊、薩摩屋敷屯集の浪士)、鈴木三樹三郎(二番隊、高台寺党残党)、油川錬三郎(三番隊、京都派浪士が中心)。という編成だった。参謀山科能登ノ介。隊士は約三百名。 |
■任務は征討軍の嚮導で、一月十八日松ノ尾山を進発。沿道諸藩を帰順させながら桑名城を目指したが、同藩留守家臣国の降伏で進撃路を東海道から東山道に変更し、相楽の一番隊は二十二日、美濃岩手を出発した。その直後赤報隊幹部逮捕命令が出され二、三番隊はそのまま京都に引き返したが相楽一番隊はこれを聞かず、結局「偽官軍」として信州諸藩の攻撃を受ける羽目となった。 |
■三月三日、相楽ら八名は東山道官軍によって下諏訪にて処刑、晒し首となる。一番隊の崩壊後、二、三番隊は新たに「徴兵七番隊」として越後、会津方面で戦った。 |
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