
| 長州藩士 |
| 天保12年9月2日、周防熊毛郡束荷村出身の作男、林十蔵の子として生まれる。 |
| 幼名利助のち春輔、俊輔、俊介などと称す。のちの伊藤博文。春畝、宇生など |
| の号がある。萩の足軽、伊藤直右衛門の養子となり卒分にそして藩の人材登用 |
| によって士分となった。16歳で浦賀警備の長州隊に加わり、その隊長来原 |
| 良蔵の紹介で18歳の時松下村塾に入った。五ヶ月後、藩の内命で上洛し、 |
| 梁川星巌、梅田雲浜らと交流し、尊王思想をいだく。次いで来原に従い長崎 |
| へ行き、近代兵器の技術を学ぶ。 |
| 文久3年、井上聞多、山尾庸三らとともに先進技術などを学び見聞を広める |
| 為に留学中、ロンドンタイムスで四カ国連合艦隊の長州攻撃計画を知り、伊 |
| 藤と井上の二人は帰国したといわれる。帰国後伊藤はイギリス公使に面会し、 |
| 12日間の攻撃猶予をとりつけ、藩主毛利敬親に攘夷の無謀と開国の必要性 |
| を説くが入れられず、四カ国連合艦隊は下関を砲撃し長州は惨敗した。しか |
| し、その後の講話談判で伊藤と井上は正使高杉晋作を補佐し、彦島租借の条 |
| 項を削除させた。以後、第一次長州征伐に際しては「俗論派」によって佐幕 |
| 的な方向に走る藩論をくつがえすべく決起した高杉晋作に同調したクーデタ |
| ーに成功。また、第二次征長では、長崎で兵器や汽船の買い付けにつとめる。 |
| 明治になると新政府の参与となり、外国事務局判事、大阪府判事次いで兵庫 |
| 県知事をつとめ、明治2年大蔵少輔となり、3年民部少輔を兼任し、貨幣制 |
| 度を欧米流に改革するためにアメリカに渡る。 |
| 明治4年、岩倉具視遣外使節団の副使の一人として欧米を歴訪。征韓論の沸 |
| 騰する最中に帰国し、西郷らを破るのに奮闘した。木戸の病没、大久保の暗 |
| 殺により、伊藤は内務卿に就き、政府内の指導的地位となった。 |
| 明治15年、立憲制度調査の任を帯びて再び欧州に渡り、翌年帰国後、憲法 |
| 制定の実現に重要な役割を果たした。 |
| 初代内閣総理大臣となり、第四次にわたり組閣して、政界に君臨した。 |
| 明治42年10月、露国蔵相ココブツォフとの会談を主要目的に満州視察の |
| 途にのぼったが26日、韓国併合の強引な推進を恨む韓国人安重根に狙撃され |
| ハルピン駅で横死した。享年69歳。 |
| 墓は、東京都品川区大井町墓地。 |
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