| 幕臣 |
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| 寛政10年8月15日、肥前長崎の長崎会所調役頭取高島四郎兵衛の子として |
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| 生まれる。家は代々町年寄を務める門閥家であった。通称四郎大夫後、 |
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| 喜平と改める。長崎警護のために荻野流砲術を学び、また出島のオランダ人 |
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| ストゥルレルから西洋砲術を習った。また彼は西洋式大砲の鋳造も行った。 |
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| 父親の後を継いだ秋帆は、アヘン戦争の報を受け、天保12年、門人百余人を |
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| 引き連れ江戸へ赴き、幕府に西洋砲術の採用を提言し、5月、武州国徳丸ヶ |
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| 原で洋式砲術の演習を行い、日本の兵制改革を急がせるきっかけとなる。 |
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| 幕府は秋帆に賞詞を与え、砲術を韮山代官、江川太郎左衛門に教授するこ |
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| とを命じる。この技術はやがて佐久間象山、川路聖謨、大山巌らに広まっ |
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| ていく。しかし、保守派の鳥居耀蔵は欧化思想を敵対視し、讒訴で秋帆を |
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| 投獄。11年間獄中にあったが、嘉永6年ペリーが来航し、老中阿部正弘 |
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| が権限をもつようになると、かつて門下にあった江川の発言権も大きくな |
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| り、秋帆は特赦により江川のもとで海防や大砲鋳造に携わることとなる。 |
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| 彼は再び「嘉永上書」という意見具申を行い、幕府の鎖国攘夷策を崩すのに |
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| 影響を与えた。彼は最新の火器、武器、研究書などの入手には財を惜しま |
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| ず手に入れたといわれる。 |
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| 慶応2年正月14日、幕府講武所師範現職中、69歳で病没した。 |
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