江藤新平
えとう しんぺい

鍋島藩士
 
天保5年2月9日、肥前佐賀藩の最下級武士である手明鑓(てあけやり)、江藤
 
助右衛門の長男として生まれる。恒郎、又蔵、胤雄。号は、南白。
 
貧窮の青少年時代を送るが、藩校弘道館での勉学ぶりは異彩を放った。枝吉
 
神陽主唱の「義祭同盟」に参加し、のちに「図海策」を書き、開国論を唱え
 
た。文久2年脱藩上洛し、長州や薩摩の動きを目の当たりにした。姉小路公
 
知を通じて密書を上奏するが、脱藩の罪を問われ帰国。永蟄居になり、王政
 
復古により罪を許されるまでの5年間藩内で過ごす。処刑に至らなかったの
 
は藩主鍋島閑叟が、江藤の書いた「京都見聞」を高く評価したからだといわ
 
れる。
 
慶応4年、戊辰戦争では東征大総督府の軍監として江戸へ行き、彰義隊討伐
 
江戸遷都に力を尽くした。一時期佐賀藩の藩政改革にあたったのち、再び新
 
政府に戻る。岩倉具視、大久保利通、木戸孝允の信任を得、左院副議長とな
 
る。更に岩倉を団長とする新政府首脳の使節団が渡欧すると、西郷や板垣に
 
近づき、明治5年司法卿となり、司法権の独立、警察制度の統一、民法草案
 
の編纂につとめる一方、山県有朋、井上馨の汚職を摘発し辞職させ、そのき
 
びしさで長州閥の恨みをかった。
 
明治6年参議となるが、岩倉使節団が帰国し、また西郷らと共に征韓論を唱
 
えて破れ、西郷隆盛、板垣退助、副島種臣、後藤象二郎らと共に辞職した。
 
明治7年、民選議員設立建白書に名を連ねるが、その後「征韓党」「憂国党」
 
などの不平分子を抑えると称して佐賀へ帰り、反対に征韓党の首領に推され
 
島義勇の憂国党と手を握り新政府に反旗を翻し「佐賀の乱」をおこした。
 
参議大久保利通に鎮圧され、2月23日江藤は佐賀を脱出し、西郷に援助
 
を求めるが入れられず、土佐へ行き、甲の浦で3月27日に捕らえられた。
 
佐賀へ護送され臨時裁判所で裁かれ、4月13日「除族の上梟首」という当時
 
最も重い刑で首を切られたという。
 
享年41歳。墓は、佐賀市本行寺にある。
 
 
 

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