後藤象二郎
ごとう しょうじろう

土佐藩士
 
天保9年3月19日、土佐藩士で御馬廻格の後藤助右衛門の長子として高知城下片町に生ま
 
れる。姉の夫で藩参政である吉田東洋の小林塾に学び、開国進取論に影響を受ける。同門
 
には、福岡孝弟、岩崎弥太郎らがいた。安政6年、吉田東洋の推挙により幡多郡奉行とな
 
り、御近習目付、普請奉行等を歴任する。文久2年、東洋が土佐勤王党に暗殺され、後藤
 
も職を辞し、翌3年、江戸に出て開成所に入り、航海術、蘭学、大鳥圭介に英学を学ぶ。
 
8月18日の政変が起こり藩論が一転し、元治元年4月、後藤は土佐へ帰り岩崎らと開国策
 
の意見書を山内容堂に提出。同年7月、藩の大監察に登用され、土佐勤王党を断罪、首領
 
の武市瑞山を切腹せしめた。この頃には坂本龍馬や中岡慎太郎が脱藩している。後藤は藩
 
主山内容堂の信任を得、参政として藩政の実権を握った。なかなかの才人で弁が立ったが、
 
藩内の勤皇派からは嫌われる。慶応2年には29歳で藩の殖産興業のための機関である開成
 
館の運営を任され、薩摩へ行き、また中浜万次郎と共に上海にまで足を伸ばし、藩の樟脳
 
を売って艦船や銃砲の買い付けを行い、岩崎弥太郎を使って藩貿易に腐心した。この頃の
 
後藤は、土佐が薩長のように倒幕(あるいは武力討幕)にははっきりと踏み切れないまで
 
も、何とか次の時代への参加に遅れまいと模索していた。当時土佐を訪れた英国公使パー
 
クスと書記官サトウとも会い、サトウは、象二郎が最もものわかりの良い日本人で、パー
 
クスの気に入り永久の親善を誓い、イギリスを模範に国会と憲法を作ろうと考えて容堂と
 
共にヨーロッパの諸問題や憲法、国会機能、選挙制等について質問し、日本に力を貸して
 
くれと頼んだと書き残している。同2年7月、後藤は長崎において3歳年上の坂本龍馬と
 
出会う。龍馬の周囲では、土佐勤皇党の仇敵である後藤を斬ってしまえという声もあった
 
が、意に反して後藤と龍馬は意気投合する。後藤の世話で脱藩の罪が許され、坂本龍馬が
 
海援隊、中岡慎太郎に陸援隊を任せ、藩への協力を求めた。慶応3年6月、後藤は坂本と
 
共に船で京に向かっており、この船中で坂本が大政奉還論の具体要綱である「船中八策」
 
を書き上げた。幕府に政権を返上させ、上下議政局を設けて、天皇を中心とした統一国家
 
を作る構想である。何とかして武力討幕を避けて土佐が優位に立つ方向を求めていた後藤
 
は喜び、7月に容堂に説いて、容堂が大政奉還献策を新しい藩論とする。しかし藩が坂本
 
の説く基本理念を全て受け入れたのではなく、薩長に対抗して土佐の提案により将軍の政
 
権を返上せしめ、慶喜を列藩君主会議の議長に据え、旧権力を温存したままの変革にとど
 
めようと画策したのである。10月4日、後藤は福岡孝悌と共に、老中板倉勝静のもとへ、
 
山内容堂の名による大政奉還の建白書と、寺村左膳、後藤連名の九ヶ条の改革意見書を提
 
出し、13日二条城で慶喜に謁見し、これを説いた。龍馬は京都にいて、後藤に「もしこの
 
大政奉還が成立しなかったら自害しろ、自分は海援隊と一緒に弔い合戦に行って慶喜を殺
 
す」とまで励ましたという。慶喜が遂に受諾、14日に大政奉還を奏上して、土佐の目論見
 
は成功したかに思われたが、薩長は土佐の独走を許すはずがなく、討幕の密勅、王政復古
 
の大号令を発し、鳥羽伏見で開戦、土佐藩も否応なしに官軍の「第三勢力」として追随、
 
武力をもって各地の征討戦に出戦する結果となった。
 
京都での後藤は大政奉還の成否を案じた頃の新選組局長近藤勇とも面談し、「私は武士の
 
癖に刀は嫌いだから」と笑って近藤の佩刀を下げさせたという。近藤は「貴方のような自
 
由な立場が羨ましい」と嘆息し、親交を約束したが、その後は多忙を理由に応じなかった。
 
また11月には坂本、中岡両名が暗殺され、土佐藩にとっては求心力のある海陸援両隊長の
 
死という痛手があったが、後藤自身は新政府発足後の参与に任じられ、ついで大阪府知事、
 
工部大輔、左院議長などを歴任し、明治6年4月には参議に就任。14年には土佐出身の板
 
垣退助の自由党結成で幹部に名を連ねる等したが、自分からは緻密な政策立案などは行わ
 
ず、政治的技巧に終始し、一定の主義、信条というものを持たないまま生きた。しかし、
 
明治10年に江藤新平が乱を起こし、人相書き作成の為に警視庁から後藤に「江藤の写真を
 
持っているなら貸してくれ」と打診が来た時、後藤は「確かに持っているが、なんでわざ
 
わざ友達の顔を警察に差し出すと思うか。強いて言うなら(今でいう警視総監の)川路が
 
自分で取りに来い」と叱り飛ばしたという一面もある。様々な人の知遇で立身した後藤に
 
は、個人的に出会う人からは好かれるという、憎めない魅力があったのかもしれない。
 
明治30年8月4日死去。享年60才。墓は東京都港区の青山墓地。
 
■ 御 家 紋 ■
 

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