上総請西藩守 |
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嘉永元年7月28日、林播磨守忠旭の末男に生まれる。通称昌之助。 |
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請西藩は一万石の小藩ながらも譜代であり、幕府に忠実な藩であった。 |
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当時伏見奉行の任にあった養父、十六代忠交急死の為、慶応3年20歳 |
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で家督を継ぐ。重臣鵜殿伝右衛門や田中兵左衛門はかねてより京に居り、 |
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江戸本所の藩邸にも留守居役がとどまり、請西には数十人の家臣しかい |
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ない状況であったという。 |
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慶応4年正月の鳥羽伏見の戦いでの旧幕軍敗戦後、4月に、江戸開城に |
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反対する幕軍脱走兵のうち、福田八郎右衛門、江原鋳三郎が率いる反恭 |
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順派部隊が、請西所領の木更津になだれ込む。彼らは木更津南町の紺屋 |
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「島屋」を本陣に「徳川義軍府」の旗を掲げ、請西藩の真舟(真武根)陣屋 |
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に忠崇を訪ね、ともに戦うことをとく。その後、忠崇は遊撃隊の人見勝 |
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太郎、伊庭八郎らに出会い、彼らと意気投合し、藩兵七十人ほどを率い |
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て伊豆箱根に進発した。進軍途中、前橋藩、勝山藩、館山藩、小田原藩に |
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与力を求めるがうまく運ばず、やがて奥州へ走り、東北諸藩を援護しつ |
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つゲリラ戦で対抗するが、結局諸藩は降伏し請西藩は辺地に孤立。やむ |
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なく明治元年10月初旬、仙台藩を介して官軍に降った。降伏謝罪で総督 |
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府に提出した兵器は、銃七挺、内短筒七、胴乱八、短筒付五、弾薬入壱 |
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弾薬一袋というわずかなものであったという。 |
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忠崇は江戸に護送され、唐津藩邸に禁固の身となり、明治5年に許された。 |
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その後は一切の官職を断り、東京の片隅で書画を楽しみ余生をおくった |
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といわれる。 |
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昭和16年1月22日没。94歳。芝青松寺に葬る。 |
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曇りなき心や見せん明日の夜は |
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かばねも露に照らす月影 (忠崇の句) |
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■ 御 家 紋 ■ |
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