桂 久武
かつら ひさたけ

薩摩藩士
 
天保元年5月28日、鹿児島城下日置屋敷に、日置領主島津久風の
 
五男として生まれた。母は末川氏。
 
名は歳貞、歳光、久武、通称小吉郎、右衛門、四郎。
 
安政2年、桂久徴の養子となり、同四年、詰衆として初出仕。当番頭
 
役兼奏者番、四番小姓与番頭兼奏者番を経て、万延元年、造士館演武
 
館掛になる。さらに万延2年、山崎地頭、文久元年、大島守衛方、銅
 
鉱山方を拝命して大島に赴任。この大島行きは、兄久徴家老辞任によ
 
る日置派凋藩にかかわる左遷であったという。
 
元治元年大目付、家老職加判役、用部屋詰勝手方掛を勤め、西郷隆盛
 
と親交を結び、倒幕にあたっては藩論統一に尽くした。
 
慶応元年、谷山地頭職兼務家老職に任じられ、藩命で上京、途中長崎
 
に立ち寄り、イギリスの貿易商人グラバーらと会見。京では、小松帯刀
 
岩下方平、西郷らと連絡しあい、薩長同盟などを支援する。
 
慶応2年、藩政改革に尽力し、藩の武力倒幕論を推進、会計方掛として
 
出納、勧農、海陸軍などを掌った。
 
明治3年、鹿児島藩権大参事ついで大参事として藩政を掌握した。
 
明治4年には都城参事、明治6年豊岡県権令に任じられ、宮崎県設置
 
に努力したが、病気辞任し、鹿児島に帰る。
 
鹿児島では霧島山麓田口の桂内集落の開拓に従事し、五代友厚と交渉
 
して、県内鉱山開発に努力した。
 
明治10年、西南の役には西郷に加担。もともと参加の意思はなかったが、
 
西郷を見送りに行ったまま参戦したともいわれており、財務担当で大小
 
荷駄隊長として、金穀募兵にあたり、城山が落ちた9月24日、岩崎
 
谷で流弾に倒れた。
 
 
 

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