人見勝太郎
ひとみ かつたろう

幕臣
 
天保14年9月16日、京都二条千本の十軒屋敷に於いて、京都文武場の文学教授である幕臣
 
人見勝之丞を父、仙を母とする長男に生まれた。名を寧(やすし)。嘉永5年10歳の時に京
 
の儒学者牧百峰の塾に入門、後に西岡是心流の剣術を大野応之助に、西洋砲術を山田某に
 
学ぶ。文久3年21歳の時には二条城に滞在中の将軍徳川家茂に孟子を講義し、上覧試合も
 
行う英才であった。
 
幕府「遊撃隊」は慶応2年10月、奥詰、講武所詰を縦隊に再編した事に始まり、新し橋た
 
もとに屯所を置き、初代の頭には講武所奉行渡邊甲斐守が就任、発足時は頭取7名、頭取
 
並12名、総勢380余名であり隊士は京坂と江戸に交代で詰めた。人見は慶応3年12月に遊撃
 
隊士となり鳥羽伏見戦に従軍、置き去りにされた負傷者を救出し、変装して敵情視察も行
 
った。幕軍の敗退と東帰の後、前将軍慶喜が江戸城を出て上野寛永寺に蟄居後水戸に退去
 
するまでの周辺警護は幕府遊撃隊、見廻組、精鋭隊等が当たった。この間の2月下旬、人
 
見と遊撃隊佐久間兵一郎、旗本岡田斧吉が遠州掛川宿へ薩摩参謀の海江田武治に箱根以降
 
の進軍を止めるよう嘆願書を提出したが、無論東征軍の進攻は止まらず、4月11日の慶喜
 
江戸退出の折、遊撃隊も水戸へ護衛の途中千住大橋まで見送ったところで、人見、佐久間、
 
岡田と伊庭八郎、澤録三郎、前田篠三郎、和田助三郎ら抗戦を約して同盟した遊撃隊有志
 
36名が、榎本武揚ら旧幕海軍と共に海路房総半島の館山へ脱走した。幕府の処置が決まる
 
までは留まれという勝海舟の説得に榎本が応じ品川に戻った為、人見らは榎本と別れて、
 
同25日に再脱走、行速丸で木更津に上陸。両隊長となった人見と伊庭は請西藩主・林忠崇
 
と会見、房総諸侯をまとめ、伊豆韮山、相州小田原の力を借りて東海道に出兵、近隣諸藩
 
を糾合して紀州、尾張、彦根三藩を討つとの計画を立て同盟を約し両名は林から「剛柔相
 
兼ね、威徳竝行の人物」と評される。人見は中肉中背よりやや太い方、伊庭は細くてきゃ
 
しゃで「伊庭は義勇の人、人見は智勇の人」とする評もある。遊撃隊の特色としては脱走
 
後終始「同盟」によって軍を形成していった事であり、初めは人見派、伊庭派の僅か36名
 
に始まり、請西兵、勝山・館山等の諸藩や岡崎脱藩兵が合流し最盛期には300を超える兵威
 
を誇り、この同盟軍を広く「遊撃隊」と呼称する場合もある。遊撃隊は幕府歩兵隊とは異
 
り、全軍の統率の為の厳粛な軍律を設け、正統的武士階級出身である礼節へのこだわりを
 
見せた。
 
閏4月に請西に挙兵した遊撃隊同盟軍は房総の移動を経て、旧幕海軍の助力を受けながら
 
200〜300石の和船に乗じ、12日に真鶴に上陸。小田原藩の去就が定まらず、伊豆韮山へ至
 
り、代官江川太郎左衛門の不在で、甲府城を奪回し江戸回復の兵を張る為に出立。御殿場
 
で幕臣山岡鉄舟から撤兵の説諭を受け甲州や沼津に滞在して下命を待ったが、江戸の上野
 
彰義隊開戦の報に接し、ついに5月19日、人見の率いる一隊が香貫村から出兵、箱根関門
 
通過の際、小田原藩兵との間で開戦、箱根戦争に突入した。この時人見は書簡を書き残し
 
ており「小子一断を以って吾が一軍隊、今十九日昧爽海道筋へ出兵仕り候。」と、佐久間、
 
岡田、他(林や伊庭)を宛先としている。これを受け他の隊も「抜け駆けは軍律を違えて
 
いるが一軍が敗れれば全軍にとっても損失」と援護に追った。箱根を占拠する時の人見の
 
様子は、関所に至る前に船頭を一喝して増水した狩野川に無理に船を出させ、兵士や大砲
 
をも無理やり渡したといい、紫の鉢巻を締め、本陣の畑右衛門に陣をとり同行の者を見て
 
「肴があるが一杯やらんか」と言いながら生首を三つばかり置いたという。が、小田原藩
 
の同盟離脱の通知があり遊撃隊は湯本に退去、人見は開陽艦へ海軍の応援要請に向かうが
 
留守中、小田原・沼津藩兵が湯本を襲撃、伊庭が片腕を失う等敗北を喫した。熱海で敗軍
 
と合流した人見は重傷の伊庭を残して奥州に立つ。6月2日小名浜へ着、平に入り、白河
 
落城に備えた配備を敷き、白河口出陣を予定中、官軍の平潟上陸を受けて出兵、敗戦。こ
 
の間に米沢を目指したが途中の中村藩で滞陣を求められ調練を行い、遊撃隊の袖印をそれ
 
までの日の丸から「三つ葉葵」に改めた。以後仙台に入り、ここで請西藩は林忠崇らの恭
 
順と決したが、人見らは榎本旧幕海軍に投じて蝦夷地に渡航した。この時人見、岡田らは
 
旧幕軍全体の軍監に選ばれ、組織上は遊撃隊外に転出した。10月20日、蝦夷地鷲ノ木浜に
 
榎本艦隊が到着すると、人見は同日渡島趣意書を携え伝習歩兵一小隊を率いて箱館への道
 
を先発し、途中の峠下村で敵兵と戦闘に及び、これを討ち果たしている。箱館占拠の後、
 
人見は箱館政府で閣僚13人のうち松前奉行に選ばれ、この松前に箱根敗戦以来別行動を取
 
っていた伊庭が合流する。翌明治2年新政府軍の再攻撃により、箱館政府軍は各地で敗北。
 
遊撃隊も各隊長の下に奮戦を重ね、伊庭を始め討死者を続出。人見自身は七重浜の戦いで
 
負傷したが存命であった。明治3年3月赦免された人見は西郷隆盛に会うため、勝海舟の
 
紹介状を持ち薩摩へ向かっている。帰東後は勝の援助を受け、静岡で私立英学校を経営、
 
同9年、内務卿大久保利通の推挙により明治政府に出仕し、勧業寮で製茶業務に就く。同
 
12年茨城大書記官に任ぜられ、13年茨城県令となる。その後は民間に転じ、利根運河株式
 
会社を設立し「一生涯ノ快事」とした。箱根戦争の往時を偲んで早雲寺に遊撃隊士の墓を
 
建立した人物でもある。大正11年12月31日、没。墓所は生まれ故郷の京都で、出水千本の
 
長遠寺にある。享年80歳。
 
 
 

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