星恂太郎
ほし じゅんたろう

仙台藩士
 
天保11年10月4日、陸奥仙台に生まれる。名は忠狂ともいう。仙台東照宮宮司
 
の家であったが、父親がむかないと考え藩の台所人小島家に養子に出すが、
 
包丁を持つのを嫌い、生家に逃げ帰り、藩の次、三男たちと日夜剣術の稽古に
 
励んだと言われる。成人して尊王攘夷思想に共鳴し、同志らと当時藩内の開国
 
論者であった藩校養賢堂の学頭大槻磐渓、家老但木土佐たちの暗殺を謀った
 
が両名より暗殺の愚劣さを諭され、元治元年、24歳の時脱藩して江戸に上る。
 
江戸で幕臣川勝、下曽根らに師事し、西洋砲術と洋式銃隊編成を学ぶ。
 
また、横浜で米人貿易商ウォン・リードより洋式兵学砲術を学ぶ。この貿易商
 
の影響で銃器、軍備の購入をすることとなる。
 
諸藩士に伝習中、戊辰戦争となり、脱藩の罪を許され仙台藩に帰参。慶応4
 
年6月、30歳未満の藩士の次、三男坊を集めた洋式武装の精兵千人による
 
額兵隊司令部に就任した。
 
新政府軍との戦闘に向かう途中、藩論が降伏に決定。解散を命ぜられるのを
 
恐れて、うち二百五十人を率い、榎本武揚軍に合流し箱館に向かう。恂太郎
 
は出発直前、父の選んだ友人の妹、金成ツル17歳と慌ただしく祝言をあげた
 
という。
 
恂太郎は、陸軍歩兵頭並として榎本の信任を得、松前城占領作戦で功をあげ
 
箱館の北、大野の守備を命じられ、新政府軍反攻にそなえ、木古内に転陣し
 
て戦闘。5月18日、五稜郭は陥落し恂太郎らは捕らわれる。降伏後、細谷十
 
太夫たちと北海道岩内に製塩場を作るなどしたが失敗。
 
明治9年7月27日、宮城県仙台にて死亡。享年37歳。
 
星恂太郎碑は、仙台市宮町五、天台宗正清浄光院の墓所に星家代々の墓と
 
並んで建てられた。
 
 
 

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