堀田正睦
ほった まさよし

佐倉藩主
 
文化7年8月1日、下総佐倉十一万石藩主正時の庶子として、江戸で生まれる。
 
母は、源田右内光寿の女。幼名は左源治、初名は正篤。号は見山。
 
文政8年家督を継ぐ。寺社奉行、大坂城代などを経て、天保12年老中とな
 
るが、老中首座の水野忠邦の「天保の改革」がはじまったばかりで、正睦は、
 
この改革が行き過ぎであると阿部正弘に直言し、疎まれるようになり、14年
 
退任した。
 
佐倉に戻り、藩政改革を行い、学問振興に力を入れ蘭学を奨励し「蘭癖」と
 
評された。そして、嘉永六年のペリー来航の時の対応策を老中阿部正弘に提
 
出し、安政2年10月、阿部の推挙で再び幕政参加し、幕府財政を司る勝手掛
 
老中となる。
 
安政3年、阿部正弘のあとを受けて老中首座となり、この時名を正睦と改め
 
た。翌年、外国事務総裁として日米修好通商条約の締結に動いた。目付、岩
 
瀬忠震、下田奉行、井上清直を全権委員に任命して、通商条約の交渉を担当
 
させ、正睦は条約の勅許を取り付けるため、安政5年2月に勘定奉行、川路
 
聖謨ら数十名と上京。天皇はじめ、関白、伝奏役らに莫大な金銀を贈り、二
 
ヶ月も費やした勅許を得る工作に失敗する。
 
正睦が京から江戸に戻るとすぐ、安政5年4月23日、井伊直弼が大老に就任した。
 
井伊は6月19日に勅許なしで条約に調印し、25日には十四代将軍を家茂にし、
 
尊王攘夷派弾圧の「安政の大獄」がはじまる。
 
正睦は、調印四日後の6月23日に外交の責任の責めにより、老中からおろされ、
 
8月には隠居処分になり、更に文久2年蟄居を命じられ、元治元年3月21日、
 
佐倉で病死した。享年55歳。墓は千葉県佐倉市、甚大寺にある。
 
 
 

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