| (天保三〜明治三十六・五・二十二) |
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| 宗順、名は信則、号は霞山、石油斎。信濃国水内郡桑名川村、現、長野県飯山市 |
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| の生まれ。十七歳の時、江戸に出て町医立川宗達の内弟子になった。のちに立川 |
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| の師の両国山伏町の幕府の針医石坂宗哲の養子になって宗順と称した。事情が、 |
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| あって千葉県神崎(香取郡神崎町)で医者をやった。 |
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| 佐原(佐原市)で剣術の道場を開いていた村上俊五郎と知り合い、江戸に行って |
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| 清河八郎の主宰する虎尾の会に加わった。虎尾の会は尊王攘夷を目的にしていた |
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| ので、幕吏に睨まれていたが、清河が岡つ引きを斬ったことで石坂も捕らえられ |
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| 伝馬町の牢に入ったが、文久二年暮、清河の赦免により、出牢して浪士組の道中 |
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| 目付として上洛した。八郎が暗殺されると、いち早く現場に駆けつけ、親の仇で |
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| あると偽って、見張り人を追い払い、八郎が持っていた同志の連名帳と、八郎の |
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| 首を持って山岡鉄舟の家へ届けた。 |
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| 明治に入って静岡県榛原郡相良町で、石油事業に手を出した。妻の桂子は山岡の |
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| 妻英子の妹であった。清河八郎との関係や浪士組結成などの証言を「史談会」で |
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| 三度行っている。七十三歳で亡くなった。墓は東京都台東区谷中五丁目の全生庵。 |
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| この薬は土方歳三生家が代々、宝永年間から伝える骨つぎ、打ち身の妙薬。原料は |
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| 多摩川、浅川などに野生する牛革草(みそそば)を、土用の丑の日に採集、陰干し |
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| にして後、黒焼きにし、粉にする。服用の際には必ず酒で飲む。これと同じ原料と |
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| 製法の「虚労散」は、佐藤彦五郎家家伝のものだが、これは白湯で服用する。両薬 |
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| とも新選組の常備薬である。 |
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| 「虚労散」は肺病の薬で、石田散薬原料の牛革草は当時、村総出で採集され、まるで |
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| 戦争のような騒ぎであり、その大勢の人々を指揮したのが若き日の土方歳三で、その |
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| 采配は見事だったという。さらにその薬を売り歩いたのも歳三だが、成績はあまり |
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| 芳しくなかった。行商先は武州、相州二十里四方に及び、甲州までわたるといわれる |
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| 土方家に現在、当時の卸先台帳が保存され、また薬を売り歩いた薬箱、薬つぼ(木製 |
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| 京都から歳三が送ってきたもの)などがある。第二次大戦過ぎまで薬は売られていた。 |
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| 古刀、関の孫六兼元とともに美濃を代表する刀工和泉守兼定の子孫である。初代 |
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| 和泉守兼定の孫、四代兼定が奥州会津に移り住み、数えて十一代目が通称「会津 |
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| 十一代兼定」和泉守兼定であり、幕末当時、実践刀として重宝された。新選組副 |
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| 長土方歳三は、この十一代兼定を何振りも所有していたようだ。歳三佩刀中の一 |
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| 振り、二尺二寸八分、慶応三年二月日の裏年記がある兼定が現在、日野市の土方 |
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| 歳三生家に遺品として残されている。 |
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| この会津十一代兼定は、会津藩主松平容保が京都守護職を拝命の折、上洛して、 |
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| 鍛刀した。在洛中、門人の刀工大隅守広光が記録した師の刀剣注文帳が現存して |
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| おり、慶応三年一月四日付で「新セン組」「脇差一本一尺六寸 新選組 島田魅」 |
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| と記載されている。土方歳三をはじめ、刀の消耗の激しい新選組隊士たちは、斬れ |
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| 味の鋭い、この十一代兼定をこぞって帯び、市中巡回の任についていた。 |
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| (北海道函館市若松町三十三番) |
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| 江戸時代に一本の柏の大木があったので一本木の地名が生まれ、ここが箱館と |
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| 亀田の境であった。旧幕府軍が蝦夷を占領すると、ここに南北にわたる柵を設け |
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| 関門を構えた。明治二年五月十一日、土方歳三は新政府軍の掌中に落ちた箱館の |
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| 弁天台場を奪回するため、額兵や伝習の小隊を率いて亀田側から一本木関門を |
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| 出たところで、敵弾に狙撃され、落命とする書がある。 |
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| 土方歳三戦死の地については、他にも「異国橋」「鶴岡町」などとする書もあるが |
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| 函館市では一本木の大木のあった付近と想定される場所に「土方歳三最期之地」と |
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| した石碑を建てている。この辺一帯は一本木町に合併されて廃町となった。今は |
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| 「土方歳三最期之地」の碑を小緑地に移し(もとは若松小学校の所にあり、のち、 |
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| グリーンベルトに移していた)若松小学校も廃校し、関門の模型を建てて小公園 |
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| にしている。 |
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| 一本木とは、函館市若松町、旧若松小学校付近の旧地名。古来、この付近に一本の |
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| 柏の大木があったことから地名になったとされる。明治二年五月十一日、新政府軍 |
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| は総攻撃の日、前夜、箱館山の背後に陸軍部隊を上陸させ、早暁から奇襲攻撃によ |
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| り、箱館を突き、弁天台場を孤立させた。旧幕府軍の状況は五稜郭の裏手の神山四 |
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| 稜郭、権現台場を早朝に撤退し、本拠地五稜郭では千代ヶ岱陣屋を残すのみとなる |
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| ため、孤立した弁天台場を奪回するべく、陸軍奉行並土方歳三は添役の安富才助と |
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| 少数の手兵を指揮して一本木関門に進み馬上、敵の銃弾を受け、戦死した。 |
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| しかし、土方歳三の戦死場所を一本木、鶴岡町、栄国(異国)橋ともいい、いまだ |
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| 確固たる場所は不明である。新選組嚮導役中島登は[一本木関門ヨリ打込進ンデ |
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| 異国橋辺ニ至リ馬上ニ指揮シ遂ニ銃丸ニ当リ落命被致」と。同頭取差図役島田魁は |
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| 「砲台ヲ援ト欲シ一本木街棚ニ至リ戦フ己ニ破リ異国橋近ク殆ド数歩ニ官軍海岸ト |
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| 砂山トヨリ狙撃ス数人斃ル、然ルニ撓ム色無シ己ニ敵丸腰間ヲ貫キ遂ニ戦没」と。 |
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| 土方歳三付属の立川主税は日記に「一本木ヲ襲ニ敵丸腰間ヲ貫キ遂ニ戦死シタモウ |
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| 土方氏常ニ下万民ヲ憐ミ先立テ進シ故ニ士卒共々勇奮フテ進ム故ニ敗ヲトル事ナシ」 |
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| とある。立川主税によって土方の郷里にもたらされた歳三最期の状況メモには「五月 |
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| 十一日朝四ツ時/一本木鶴岡町/土方討死 小芝長之助使者/一本杉(木)江来リ |
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| /土方引渡ス/安富才輔ハ馬ヲ牽キ五稜郭江行」とあり、四人の土方戦死の場所は |
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| まちまちである。 |
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| 小芝長之助は探索掛として活躍し、明治年間を生きているが、現在時点では、この時 |
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| のことを書き残したものはない。土方の戦死場所が諸説ある中、現在は一本木が定説 |
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| 化し、平成四年暮れ「土方歳三最期之地」が近くの交通分離帯のある通称グリーン |
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| ベルト内から隣接する小公園に移され、新選組ファンに親しまれている。 |
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| 本格的な勤王活動に邁進する為、新選組からの脱退を企む伊東甲子太郎は、その後も |
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| 京に留まる必要から、分離という形での脱退を計画する。そのために慶応三年一月、 |
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| 伊東は新井忠雄を従えて九州太宰府に出張し、勤王派五卿や護衛の志士らと会見し、 |
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| 分離に対する理解と協力を要請した。前年の十二月に崩御した孝明天皇の御陵衛士と |
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| なるという分離の為の策は、この九州行きによって成り立ったものと考える。 |
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| 三月十二日に帰京した伊東らは翌十三日に壬生で近藤勇、土方歳三と会談し、すでに |
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| 自分たちが御陵衛士を拝命したことを告げた。先帝の墓守りを勤めながら外部から |
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| 新選組を応援するという伊東らの主張を、近藤、土方は認めざる得なかったのだろう |
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| この日、分離は承認され、二十日になって伊東一派十三名は隊を去っている。 |
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