(文政九〜明治四) |
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前名は松二郎。日野在住千人同心初代井上松五郎の次男として生まれる。天保 |
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十五年、父病気の為、その家督を継ぎ、二代目松五郎となる。嘉永七年、八王子 |
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千人同心の石坂弥次右衛門組世話役となり、切米十俵一人扶持を給わっている。 |
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天然理心流の近藤周助の高弟で日野佐藤道場の世話人の一人であり、多摩地方 |
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では、名を知られた剣客であった。文久三年二月、将軍家茂に従って上洛し、 |
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二条城御小屋番、石清水行幸御警備などを務め、そのころ新選組の幹部となって |
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いた近藤勇、土方歳三らの相談役として活躍した。帰郷してからも甲府表賊徒追討 |
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神奈川警備、日光勤番など、千人同心として多忙を極めた。その間、筆まめな |
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性格から旅日記、大阪見聞記、京都大逆賊首晒しの図、日光勤番帳ほか多数の |
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貴重な資料を残している。明治四年、流行病のため死亡、享年四十五歳。 |
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(栃木県今市市今市五九七番地付近) |
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現在の元今市警察署跡地にあたる。慶応四年四月二十三日、新政府軍の宇都宮城奪還 |
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戦で足指を負傷した土方歳三は、同じく負傷した会津藩士秋月登之助(江上太郎)と |
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ともに戦闘の最中、今市に後送された。翌朝、会津に向けて出発するのだが、恐らく |
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本陣大島半兵衛宅に泊まったものと思われる。この間、土方は日光千人隊詰所から同 |
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郷の土方勇太郎を呼び寄せている。宇都宮城攻めの戦闘中、逃げようとした味方兵を |
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斬り捨てた土方だが、その兵の供養を、この同郷の友に頼んだという。 |
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やがて宇都宮から引き揚げてきた大鳥圭介らが本陣に入り、軍議を開いた。二十七日 |
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は、松平太郎が勝海舟の親書を大鳥に渡して日光での戦闘を起こさぬよう説得しに |
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やって来ている。今市は、このおよそ一ヵ月後、閏四月から五月の初旬にかけて、 |
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新政府軍と大鳥率いる旧幕軍との攻防戦の舞台となった。 |
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呉服店だった岩木升屋に押し入った不逞浪士を、山南敬助が斬殺した事件。文久三年 |
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末か元治元年初頭の出来事と思われる。岩木升屋は大阪船場で寛永六年に創業した、 |
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老舗呉服店だった。この店に金策強談のため、浪士が乱入、山南が二名の部下と出動 |
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し、戦闘となった。山南は戦闘中、愛刀の赤心沖光を折るが、事件後、松平容保から |
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八両の恩賞金を下賜された。新選組上層部は、この栄誉を宣伝すべく、山南の血刀と |
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部下二名の刀をそれぞれ押型にとり、武州の後援者に送った。その押型図を模写した |
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小野路小島家蔵の「異聞録」には「新選組局長助山南敬助、岩木升屋乱入ノ浪士ヲ討 |
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取候処打折ル刀、此時会津公ヨリ為御賞美金八両拝領イタシ候」とあり、激戦を今に |
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伝えている。元治元年以後、山南は病気などで隊中での存在が薄らぎ、おそらく本件 |
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は、北辰一刀流免許皆伝と伝わる山南の剣技の確実さを伝える唯一の記録でもある。 |
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(寛政九〜元治元年・五・二十) |
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大阪西町奉行所与力。名は之昌。内山家は大阪天満与力として歴代その任にあった。 |
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初代治良兵衛兼之(延宝三年没)二代権右衛門之生(享保七年没)三代荻右衛門之継 |
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(享保十一年没)四代林右衛門之孝(宝暦八年没)五代藤三之明(寛政九年没)六代 |
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藤三郎(初め逸平)之允(弘化三年没)七代彦次郎之昌(元治元年没)八代逸之助之 |
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応(明治八年没)と続いた。 |
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七代彦次郎は、天保八年の大塩平八郎の乱を鎮めた男として知られる。久須美佐渡守 |
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祐明の言に「内山彦次郎は昼夜の別なく用談を試み、その性質は貞実堅固にして、 |
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しかも才気あり、大阪出生の者でありながら、身元宜しき町人共と懇意に仕らず、役所 |
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では御用向申談の外一切彼等を私邸に引き入れなかった」と賞賛している。また、 |
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天保十四年、嘉永六年、万延元年の御用金令にも大きな功績を残した。彦次郎は新選 |
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組に斬殺されたと云われているが、土佐中島作太郎、筑前結城一郎、肥後津田小太郎 |
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らの襲撃によるものとの話も残されている。 |
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遺骸は現在の大阪市北区兎我野である、西寺町の寒山寺に葬られた。墓は箕面市に |
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移転した寒山寺と大阪市北区長柄中町の市立北霊園八田五郎左衛門の墓の隣の二箇 |
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所に建立されている。北霊園の墓には「従初代兼之累代至七代之昌西寺町寒山寺二 |
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葬ル」と刻んである。七代之昌が彦次郎の名である。戒名は大機院之道元昌居士と号す |
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元治元年五月二十日夜、大阪西町奉行所与力の内山彦次郎が天神橋で暗殺される。 |
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大阪と京都に斬奸状が出され、私欲によって諸物価の高騰を招いたことが罪状と |
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された。明治二十七年に「新撰組始末記」が発表されるまで、暗殺者は不明だったが |
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同書によって新選組の犯行とされる。前年六月の大阪力士との乱闘事件を奉行所に |
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届けた際に、内山の態度に反発を感じた近藤勇の遺恨によるものという。しかし、 |
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事件を届けたのは東町奉行所であり、西町ではなく、近藤と内山の接点に疑問を生 |
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じる。また、永倉新八は近藤自ら十人ほどの隊士を引き連れて下坂、土方歳三が、 |
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初太刀を入れ、近藤が首級をあげたとするが、この事件を慶応三年冬の出来事と |
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している。同年十一月、新選組は伏見奉行所与力の横田蔵之允を殺害しており、 |
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この事件とを混同した可能性もある。真相は闇の中というところである。 |
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(栃木県宇都宮市本丸町御本丸公園) |
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関東の要衛で、尊王佐幕という立場にあった宇都宮藩が藩論を新政府軍へ恭順と決し |
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江戸板橋の東山道軍総督府からの救援軍が入城したのは慶応四年四月七日である。 |
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この救援隊が途中、流山で近藤勇を捕縛している。土方歳三率いる大鳥前軍は四月 |
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十九日未明、城の東南から攻め入った。土方率いる先鋒隊は簗瀬村で宇都宮藩兵と |
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衝突。戦闘と放火を繰り返しつつ、後退する宇都宮藩兵を追い、本丸をめざした。 |
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戦闘数時間、午後に入り、勝敗は決し、夕暮れを待って救援隊、宇都宮藩兵らは |
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城に放火、脱出を計った。城は一晩中燃え、土方らは火に阻まれて入城出来ず三日 |
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後の二十一日に入城した。この戦闘中、土方が激しい戦闘から逃亡しようとした味方 |
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の兵を見つけ、これを斬り捨てて「退却する者は皆こうだ」とみせしめにし、士気 |
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を奮い立たせたというエピソードがある。 |
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宇都宮藩は七万七千石ほどの小藩で、戊辰戦争が起きると藩論は恭順派と |
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抗戦派との両派に分かれて、連日激論を交わしていた。ところが、慶応四 |
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年三月下旬、会津砲兵隊が宇都宮城下近くに迫り、ひそかに「城を借り受 |
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けたい」と申し込んできたため、藩論の決断を迫られることとなった。 |
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勤王恭順派の老臣県勇記が藩の実権を取り、藩論を強引に恭順に統一し、 |
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板橋にあった総督府に対して、三月三十日、応援の嘆願書を差し出した。 |
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その要旨は「日光にいる松山藩主で老中であった板倉勝静のもとに旧幕士 |
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桑名、水戸藩の脱走者が板倉を頭首とし、会津藩を背後において宇都宮を |
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占領して、北関東の支配を狙っているので至急に総督府の出兵を願う」と |
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いうものであった。これに対して、総督府は香川敬三(水戸脱藩後、岩倉 |
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具視の家臣になる)の指揮する宇都宮救援隊を派遣した。四月七日宇都宮 |
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に到着した救援隊は、まず日光に進み、会津砲兵隊を破り、小山方面に |
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出撃して東軍大鳥軍本隊と激戦になったが、ここでは敗走し、宇都宮城に |
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戻った。そこへ下妻、下館両城を開城させてきた土方歳三率いる新選組 |
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などによって編成された大鳥軍右縦隊(司令江上太郎ー別名秋月登之助・ |
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会津藩士、参謀土方歳三)が奇襲し、わずか五〜六時間ほどで落城させて |
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しまった。この報を聞いた大鳥軍の本隊は、日光進軍を中止し、翌二十日 |
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には宇都宮城に入り、合流した。二十二日にはこの勢いに乗って、宇都宮 |
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西南十三キロの壬生城の攻撃に向かったが、第二次宇都宮救援隊と安塚 |
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で戦闘になり、多くの死傷者を出して宇都宮に敗走した。さらに翌日、伊地 |
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知正治の指揮する第三次、第四次の救援隊が宇都宮に到着し、大激戦と |
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なり、大鳥軍は銃弾を使い果たしたうえ、大鳥、土方、江上をはじめとする |
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幹部が負傷したため、宇都宮城を明け渡し、その日のうちに日光に向か |
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って退却した。 |
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(文化五〜明治二・六・六) |
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長鋭・民部少輔。熊倉茂寛の子で、文化十四年、鵜殿長快の養子となった。幕臣として |
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活躍したが、将軍継嗣問題では一橋派として井伊直弼の大老就任に反対した為に安政五 |
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年五月、駿府町奉行所に左遷され、翌年九月、免職、差控・隠居に処された。 |
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浪士組の結成で松平主税介が隊長に命じられたが、幕府の方針では五十人、一人五十両 |
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計二千五百両の予算であったが、清河八郎らは勝手に募集したため、小石川伝通院に二 |
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百五十人以上が集まった。これに驚いた松平は降りてしまった。対策に困った幕府は、 |
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鵜殿がよいであろうという話になり、引っ張り出された。だが、烏合の集団であったの |
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で、問題が続出し、鵜殿は手を焼かされ通しであった。そこを何とかなだめながら京都 |
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まで行ったが、清河の建白書から江戸へ引き返すことになり、江戸へ戻って浪士の引き |
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渡しを終えると、静岡へ戻って再び表舞台に立つ事はなかった。 |
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明治元年八月十九日、開陽艦以下八隻が品川沖から北に向け、出帆した。途中、暴風 |
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のため銚子沖で艦隊は離散し、松島湾に集結した時には美嘉保・咸臨を失い、新たに |
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仙台に預けていた大江と鳳凰を加えて、陸軍部隊を乗せ、仙台湾を出帆。新選組は伝 |
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習士官隊、工兵隊などと大江に乗船した。気仙沼で千秋を捕獲し、宮古湾で薪炭、水 |
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を補給し、十月十八日、蝦夷地に向かう。再編の艦隊は開陽を旗艦とし、回天、蟠竜 |
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の軍艦と輸送船の長鯨、神速、大江、鳳凰、千秋改め回春の八隻が鷲ノ木沖に船影を |
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見せたのは十月十九日から二十三日である。この時、千代田形は酒田へ派遣されてい |
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て、十一月に到着している。五稜郭を制した直後、秋田藩籍高雄を捕獲し、戦力とし |
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たが、江差沖で開陽、神速を失い、宮古湾奇襲で高雄が自焼、大江、鳳凰、回春は外 |
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国商人に売却された。特筆できるのは箱館湾海戦で朝陽を撃沈した蟠竜の活躍くらい |
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で榎本艦隊は北の海で壊滅した。 |
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