新 選 組 大 事 典


井上源三郎生家跡
いのうえげんざぶろうせいかあと
(東京都日野市日野本町四丁目)
 
文政十二年、井上源三郎は日野宿北原に生まれ、文久三年に上洛するまで兄の
 
松五郎ら家族と過ごす。井上兄弟は土間や庭で剣術の稽古に励んだと云われる
 
井上家の祖は戦国のころ、この地に移り住んだと伝えられる。現住所は四丁目
 
十一番地で、現在も子孫が暮らしており、蔵の外壁には丸に「井」の字の印が
 
見られる。日野駅から徒歩五分。八坂神社も近くにある。
 
 
 

井上松五郎
いのうえ まつごろう
(文政九〜明治四)
 
前名は松二郎。日野在住千人同心初代井上松五郎の次男として生まれる。天保
 
十五年、父病気の為、その家督を継ぎ、二代目松五郎となる。嘉永七年、八王子
 
千人同心の石坂弥次右衛門組世話役となり、切米十俵一人扶持を給わっている。
 
天然理心流の近藤周助の高弟で日野佐藤道場の世話人の一人であり、多摩地方
 
では、名を知られた剣客であった。文久三年二月、将軍家茂に従って上洛し、
 
二条城御小屋番、石清水行幸御警備などを務め、そのころ新選組の幹部となって
 
いた近藤勇、土方歳三らの相談役として活躍した。帰郷してからも甲府表賊徒追討
 
神奈川警備、日光勤番など、千人同心として多忙を極めた。その間、筆まめな
 
性格から旅日記、大阪見聞記、京都大逆賊首晒しの図、日光勤番帳ほか多数の
 
貴重な資料を残している。明治四年、流行病のため死亡、享年四十五歳。
 
 
 

今井三郎右衛門
いまい さぶろうえもん
(文政二〜元治元・七・十八)
 
名は有忠。但馬国豊岡藩士。文久元年、尊攘の志をもって上京し、宮津三郎と名を
 
変えて国事に奔走した。元治元年には宮部鼎蔵や吉田稔麿らと交わって朝議回復を
 
企てた。新選組の池田屋襲撃は、それ自体を目的にしたというより、京都守護職の
 
会津藩が在京の長州人や尊攘志士を徹底的に捜索排除するきっかけに利用した感が
 
強い。今井もまた、その犠牲者の一人であった。池田屋事変後の浪人狩りで捕えら
 
れて、六角獄において斬られた。四十六歳。墓は京都東山霊山。上京区下立売通紙
 
屋川東入行衛町竹林寺の六角獄刑死者の墓碑にも合葬されている。
 
 
 

今市本陣跡
いまいちほんじんあと
(栃木県今市市今市五九七番地付近)
 
現在の元今市警察署跡地にあたる。慶応四年四月二十三日、新政府軍の宇都宮城奪還
 
戦で足指を負傷した土方歳三は、同じく負傷した会津藩士秋月登之助(江上太郎)と
 
ともに戦闘の最中、今市に後送された。翌朝、会津に向けて出発するのだが、恐らく
 
本陣大島半兵衛宅に泊まったものと思われる。この間、土方は日光千人隊詰所から同
 
郷の土方勇太郎を呼び寄せている。宇都宮城攻めの戦闘中、逃げようとした味方兵を
 
斬り捨てた土方だが、その兵の供養を、この同郷の友に頼んだという。
 
やがて宇都宮から引き揚げてきた大鳥圭介らが本陣に入り、軍議を開いた。二十七日
 
は、松平太郎が勝海舟の親書を大鳥に渡して日光での戦闘を起こさぬよう説得しに
 
やって来ている。今市は、このおよそ一ヵ月後、閏四月から五月の初旬にかけて、
 
新政府軍と大鳥率いる旧幕軍との攻防戦の舞台となった。
 
 
 

今戸神社
いまどじんじゃ
(東京都台東区今戸一丁目)
 
元松林院八幡。永倉新八の記録による沖田総司最期の地。松本良順の今戸神社転
 
居に伴い、沖田も医学所から神社境内の松平伊豆守の祈願所に移り、同所で死亡し
 
たともされる。当時の本殿は現在地より川沿いにあり、現、境内は梅林となっていた
 
祈願所の詳しい位置は不明だが、所在地と推定される場所に本殿が建ち、その左手
 
前に「沖田総司終焉之地」が建っている。
 
 
 

岩木升屋襲撃
いわきますやしゅうげき
 
 
呉服店だった岩木升屋に押し入った不逞浪士を、山南敬助が斬殺した事件。文久三年
 
末か元治元年初頭の出来事と思われる。岩木升屋は大阪船場で寛永六年に創業した、
 
老舗呉服店だった。この店に金策強談のため、浪士が乱入、山南が二名の部下と出動
 
し、戦闘となった。山南は戦闘中、愛刀の赤心沖光を折るが、事件後、松平容保から
 
八両の恩賞金を下賜された。新選組上層部は、この栄誉を宣伝すべく、山南の血刀と
 
部下二名の刀をそれぞれ押型にとり、武州の後援者に送った。その押型図を模写した
 
小野路小島家蔵の「異聞録」には「新選組局長助山南敬助、岩木升屋乱入ノ浪士ヲ討
 
取候処打折ル刀、此時会津公ヨリ為御賞美金八両拝領イタシ候」とあり、激戦を今に
 
伝えている。元治元年以後、山南は病気などで隊中での存在が薄らぎ、おそらく本件
 
は、北辰一刀流免許皆伝と伝わる山南の剣技の確実さを伝える唯一の記録でもある。
 
 
 

植木屋平五郎
うえきや へいごろう
(天保七・十一・二十三〜明治四十五・七・十)
 
柴田平五良。千駄ケ谷池尻大橋の植木職人。若い頃から庭師として修行し、文久
 
二年に千駄ケ谷に住居を移すと、大名屋敷などにも出入りして腕をふるった。
 
慶応四年には、結核を患った沖田総司を納屋にかくまい、最期まで面倒をみたと
 
伝えられる。享年七十七歳。墓は東京都新宿区住吉町の安養寺。
 
 
 

植野
うえの
(生没年未詳)
 
近藤勇の馴染みの芸者。どこの芸者であり、本名、年齢などは明かされていない。
 
近藤は植野を引かせて、その実父の家で遊ばせて置いたが、美人ではなかったという
 
植野の父というのは、所司代大部屋の部屋頭で、天神の御前通りに住んでいた。
 
この住居からすると、植野は近くの上七軒に出ていたのかも知れない。
 
 
 

内山太郎右衛門
うちやま たろうえもん
(天保十二〜元治元・七・二十)
 
名を直一という。萩藩士小野氏から内山氏の養子となった。文久三年、奇兵隊に入り
 
十一月、探索方として上京、商人に変装して内山太郎と称し、形勢を探った。池田屋
 
事変の当日、市中の浪人狩りで捕らえられ、六角獄に入牢。禁門の兵火が獄に迫る中
 
古高俊太郎らとともに獄中で斬られた。二十四歳。墓は京都東山霊山、萩市川島町善
 
福寺、下関市上新地町桜山神社。京都市上京区下立売通紙屋川東入行衛町竹林寺の
 
六角獄刑死者墓碑にも合葬されている。
 
 
 

内山彦次郎
うちやま ひこじろう
(寛政九〜元治元年・五・二十)
 
大阪西町奉行所与力。名は之昌。内山家は大阪天満与力として歴代その任にあった。
 
初代治良兵衛兼之(延宝三年没)二代権右衛門之生(享保七年没)三代荻右衛門之継
 
(享保十一年没)四代林右衛門之孝(宝暦八年没)五代藤三之明(寛政九年没)六代
 
藤三郎(初め逸平)之允(弘化三年没)七代彦次郎之昌(元治元年没)八代逸之助之
 
応(明治八年没)と続いた。
 
七代彦次郎は、天保八年の大塩平八郎の乱を鎮めた男として知られる。久須美佐渡守
 
祐明の言に「内山彦次郎は昼夜の別なく用談を試み、その性質は貞実堅固にして、
 
しかも才気あり、大阪出生の者でありながら、身元宜しき町人共と懇意に仕らず、役所
 
では御用向申談の外一切彼等を私邸に引き入れなかった」と賞賛している。また、
 
天保十四年、嘉永六年、万延元年の御用金令にも大きな功績を残した。彦次郎は新選
 
組に斬殺されたと云われているが、土佐中島作太郎、筑前結城一郎、肥後津田小太郎
 
らの襲撃によるものとの話も残されている。
 
遺骸は現在の大阪市北区兎我野である、西寺町の寒山寺に葬られた。墓は箕面市に
 
移転した寒山寺と大阪市北区長柄中町の市立北霊園八田五郎左衛門の墓の隣の二箇
 
所に建立されている。北霊園の墓には「従初代兼之累代至七代之昌西寺町寒山寺二
 
葬ル」と刻んである。七代之昌が彦次郎の名である。戒名は大機院之道元昌居士と号す
 
 
 

内山彦次郎暗殺事件
うちやまあんさつじけん
 
 
元治元年五月二十日夜、大阪西町奉行所与力の内山彦次郎が天神橋で暗殺される。
 
大阪と京都に斬奸状が出され、私欲によって諸物価の高騰を招いたことが罪状と
 
された。明治二十七年に「新撰組始末記」が発表されるまで、暗殺者は不明だったが
 
同書によって新選組の犯行とされる。前年六月の大阪力士との乱闘事件を奉行所に
 
届けた際に、内山の態度に反発を感じた近藤勇の遺恨によるものという。しかし、
 
事件を届けたのは東町奉行所であり、西町ではなく、近藤と内山の接点に疑問を生
 
じる。また、永倉新八は近藤自ら十人ほどの隊士を引き連れて下坂、土方歳三が、
 
初太刀を入れ、近藤が首級をあげたとするが、この事件を慶応三年冬の出来事と
 
している。同年十一月、新選組は伏見奉行所与力の横田蔵之允を殺害しており、
 
この事件とを混同した可能性もある。真相は闇の中というところである。
 
 
 

宇都宮城跡
うつのみやじょうあと
(栃木県宇都宮市本丸町御本丸公園)
 
関東の要衛で、尊王佐幕という立場にあった宇都宮藩が藩論を新政府軍へ恭順と決し
 
江戸板橋の東山道軍総督府からの救援軍が入城したのは慶応四年四月七日である。
 
この救援隊が途中、流山で近藤勇を捕縛している。土方歳三率いる大鳥前軍は四月
 
十九日未明、城の東南から攻め入った。土方率いる先鋒隊は簗瀬村で宇都宮藩兵と
 
衝突。戦闘と放火を繰り返しつつ、後退する宇都宮藩兵を追い、本丸をめざした。
 
戦闘数時間、午後に入り、勝敗は決し、夕暮れを待って救援隊、宇都宮藩兵らは
 
城に放火、脱出を計った。城は一晩中燃え、土方らは火に阻まれて入城出来ず三日
 
後の二十一日に入城した。この戦闘中、土方が激しい戦闘から逃亡しようとした味方
 
の兵を見つけ、これを斬り捨てて「退却する者は皆こうだ」とみせしめにし、士気
 
を奮い立たせたというエピソードがある。
 
 
 

宇都宮城攻防戦
うつのみやじょうこうぼうせん
 
 
宇都宮藩は七万七千石ほどの小藩で、戊辰戦争が起きると藩論は恭順派と
 
抗戦派との両派に分かれて、連日激論を交わしていた。ところが、慶応四
 
年三月下旬、会津砲兵隊が宇都宮城下近くに迫り、ひそかに「城を借り受
 
けたい」と申し込んできたため、藩論の決断を迫られることとなった。
 
勤王恭順派の老臣県勇記が藩の実権を取り、藩論を強引に恭順に統一し、
 
板橋にあった総督府に対して、三月三十日、応援の嘆願書を差し出した。
 
その要旨は「日光にいる松山藩主で老中であった板倉勝静のもとに旧幕士
 
桑名、水戸藩の脱走者が板倉を頭首とし、会津藩を背後において宇都宮を
 
占領して、北関東の支配を狙っているので至急に総督府の出兵を願う」と
 
いうものであった。これに対して、総督府は香川敬三(水戸脱藩後、岩倉
 
具視の家臣になる)の指揮する宇都宮救援隊を派遣した。四月七日宇都宮
 
に到着した救援隊は、まず日光に進み、会津砲兵隊を破り、小山方面に
 
出撃して東軍大鳥軍本隊と激戦になったが、ここでは敗走し、宇都宮城に
 
戻った。そこへ下妻、下館両城を開城させてきた土方歳三率いる新選組
 
などによって編成された大鳥軍右縦隊(司令江上太郎ー別名秋月登之助・
 
会津藩士、参謀土方歳三)が奇襲し、わずか五〜六時間ほどで落城させて
 
しまった。この報を聞いた大鳥軍の本隊は、日光進軍を中止し、翌二十日
 
には宇都宮城に入り、合流した。二十二日にはこの勢いに乗って、宇都宮
 
西南十三キロの壬生城の攻撃に向かったが、第二次宇都宮救援隊と安塚
 
で戦闘になり、多くの死傷者を出して宇都宮に敗走した。さらに翌日、伊地
 
知正治の指揮する第三次、第四次の救援隊が宇都宮に到着し、大激戦と
 
なり、大鳥軍は銃弾を使い果たしたうえ、大鳥、土方、江上をはじめとする
 
幹部が負傷したため、宇都宮城を明け渡し、その日のうちに日光に向か
 
って退却した。
 
 
 

鵜殿鳩翁
うどの きゅうおう
(文化五〜明治二・六・六)
 
長鋭・民部少輔。熊倉茂寛の子で、文化十四年、鵜殿長快の養子となった。幕臣として
 
活躍したが、将軍継嗣問題では一橋派として井伊直弼の大老就任に反対した為に安政五
 
年五月、駿府町奉行所に左遷され、翌年九月、免職、差控・隠居に処された。
 
浪士組の結成で松平主税介が隊長に命じられたが、幕府の方針では五十人、一人五十両
 
計二千五百両の予算であったが、清河八郎らは勝手に募集したため、小石川伝通院に二
 
百五十人以上が集まった。これに驚いた松平は降りてしまった。対策に困った幕府は、
 
鵜殿がよいであろうという話になり、引っ張り出された。だが、烏合の集団であったの
 
で、問題が続出し、鵜殿は手を焼かされ通しであった。そこを何とかなだめながら京都
 
まで行ったが、清河の建白書から江戸へ引き返すことになり、江戸へ戻って浪士の引き
 
渡しを終えると、静岡へ戻って再び表舞台に立つ事はなかった。
 
 
 

英名録
えいめいろく
 
 
島田魁の遺品として伝わる、慶応元年七月ごろを時点とした隊士名簿。基本的に、
 
それ以前から在隊している近藤勇ら隊士六十二人と、同年四月に江戸で入隊した
 
四十三人、同時期に京坂で入隊した二十九人の計百三十四人が出身地とともに網羅
 
されている。末尾に異なった筆跡で、芹沢鴨らの造反隊士十六人が列記されている
 
が、この部分は本来の記録ではない。
 
 
 

江戸会誌
えどかいし
 
 
栗本鋤雲・内藤耻叟ら水戸の出身者によって構成された江戸会の機関誌。明治二十二年
 
六月に創刊され、翌二十三年十二月の第二冊第十二号まで通算十九号が発行された。
 
内容的には旧幕府の諸制度および沿革、江戸時代の風俗などが紹介されているが、新選
 
組に関する記事も鳥居華村「近藤勇の事」(二冊三号)岸上操「近藤勇の事に疑ひあり」
 
(二冊四号)江戸浪人「近藤勇土方義豊碑銘」(二冊十号)などが掲載されている。
 
特に「近藤勇の事」は寄稿者の鳥居華村が旧新選組隊士の島田魁から直接に取材した
 
貴重な史料である。
 
 
 

江戸帰還隊士
えどきかんたいし
 
 
慶応四年一月、鳥羽伏見の戦いを経て江戸に帰還した隊士の数は永倉新八「同志連
 
名記」に記された四十四人といわれていたが、実際には横倉甚五郎「元新選組連名」
 
から数えることのできる百十七人が正しい。この記録には江戸に着いた百十七人全員
 
のその後が明記されていて、信憑性は極めて高い。ただし、内訳を見ると、五十四人
 
が正規の隊士で、残る六十三人は局長附人数、両長召抱人と呼ばれる仮同志となって
 
いる。五十四名ならば、永倉のいう四十四人にかなり近い数字といってよい。
 
あるいは永倉の認識では、仮同志は隊士と見なしていなかたったのかもしれない。
 
 
 

榎本艦隊
えのもとかんたい
 
 
明治元年八月十九日、開陽艦以下八隻が品川沖から北に向け、出帆した。途中、暴風
 
のため銚子沖で艦隊は離散し、松島湾に集結した時には美嘉保・咸臨を失い、新たに
 
仙台に預けていた大江と鳳凰を加えて、陸軍部隊を乗せ、仙台湾を出帆。新選組は伝
 
習士官隊、工兵隊などと大江に乗船した。気仙沼で千秋を捕獲し、宮古湾で薪炭、水
 
を補給し、十月十八日、蝦夷地に向かう。再編の艦隊は開陽を旗艦とし、回天、蟠竜
 
の軍艦と輸送船の長鯨、神速、大江、鳳凰、千秋改め回春の八隻が鷲ノ木沖に船影を
 
見せたのは十月十九日から二十三日である。この時、千代田形は酒田へ派遣されてい
 
て、十一月に到着している。五稜郭を制した直後、秋田藩籍高雄を捕獲し、戦力とし
 
たが、江差沖で開陽、神速を失い、宮古湾奇襲で高雄が自焼、大江、鳳凰、回春は外
 
国商人に売却された。特筆できるのは箱館湾海戦で朝陽を撃沈した蟠竜の活躍くらい
 
で榎本艦隊は北の海で壊滅した。
 
 
 

(参考 新人物往来社)
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