新 選 組 大 事 典
| (大阪市中央区天満橋京町一番) |
| キャッスルホテル西側のナニワビル付近。永田屋昆布本店前に「八軒家船着場の跡」の |
| 石碑がある。大坂における新選組の定宿、京屋忠兵衛方は大川の左岸天満橋の下手にあ |
| たる八軒家にあった。天満橋と天神橋の間に八軒の船宿があり、この地名となったが、 |
| 幕末時には十軒あり、京屋はその東端で天満端南詰にあった。新選組が、創設期から |
| ひんぱんに投宿したことは永倉新八の談話にもあり、ここを拠点に大坂の豪商への軍資 |
| 金調達に奔走したらしいことも記録からわかる。 |
| 鳥羽伏見の戦の後、隊士近藤芳助が、山崎烝の重傷、三浦常次郎の死亡を京屋で目撃し |
| ており、永倉の遺稿には「新選組御用達 大坂ニテ病死 京屋忠兵衛」とある。 |
| ・士道に背く事 ・局を脱する事 ・金策 ・訴訟の取扱い ・私闘 の五つ |
| を禁じ、隊士一同の前で朗読され、違背者はすべて切腹となった、という内容で有名な、 |
| 「局中法度書」の名称と五箇条の条文は昭和三年の「新選組始末記」が初出で、子母澤寛 |
| の創作で整えられたものと思われるが、元になった四条の隊規は永倉が述べており、後年 |
| 私闘の禁止が作者によって添えられたものと考える。成立は文久三年五月頃というが、実 |
| 際は慶応元年五月頃、隊規改定により定められたという説もある。池田屋事件の前には、 |
| 「壬生浪士掟」として事変見聞史料に一項目のみ隊規が記されている。 |
| 日野の佐藤彦五郎家に伝わっていた肺結核と肋膜炎の薬で、原料と製法は不明。土方歳 |
| 三が実家の家伝薬「石田散薬」とともに行商に売り歩いた。また、沖田総司が結核の発 |
| 病後に服用したといわれる。第二次大戦後に、薬効成分はなし、との分析が出た。 |
| 新選組の出納記録。横長の和紙で、勘定方によって綴られたもの。慶応三年十一月十四 |
| 日から翌四年三月一日分が現存、東京都三鷹市竜源寺(近藤勇菩提寺)が所蔵している。 |
| 在京末期の「油小路の変」の頃から帰東後「甲州出兵」当時までの、新選組激動期の動 |
| 向を知る貴重な記録であり、研究に欠かせない史料となっている。出入帳は |
| 一「始メ」……………安富才助ら勘定方内の公金支出。三十一件、総額約四千五百両。 |
| 二「手宛入用出口」…隊の支出。百十五件、総額約一万両。 |
| 三「金請取口」………隊の収入。幕府や商家からの調達金等、十九件、約二万三千両。 |
| の三種類の記録から成り、収支が合わないのは戦時の混乱の為であろうが、用途や出金 |
| 先等から様々な推測がなされて興味深い。 |
| (生没年不詳) |
| 近藤勇の馴染みで島原木津屋の抱える遊女。源氏名は金の字を「こがね」と読んだとい |
| う説もあるが、当時の京で五本の指に入ると言われる程の美女で、年齢は二十三位、水 |
| も滴るような風情があった、と伝えられている。 |
| 文久三年八月十八日の政変。朝廷から長州系の尊攘勢力を一掃し公武合体派が主導権を |
| 取り戻したクーデターと言われる。 |
| 当日未明御所において長州藩の堺町御門警備の解任と、三条実美ら長州に親しい公卿の |
| 参内差し止めの勅命が下った。御所九門は会津、薩摩ら、幕府よりの諸藩兵により固め |
| られ、憤慨して堺町御門に詰めかける長州兵との間で一触即発の緊張状態となるが、午 |
| 後に入り長州は退去した。 |
| この日、会津藩公用方から御所警備の命を受けた壬生浪士組も出動し、局長の芹沢、近 |
| 藤、新見らを始め五十二名が誠の旗を立てだんだら染めの隊服を着用して向かった。 |
| しかし、蛤御門から御所へ入ろうとすると、会津藩の守備兵が味方の出動であることを |
| 知らず通行を許さなかった為に押し問答となり近藤や山南らの抗議も受け入れられず、 |
| 会津兵が槍ぶすまを作り(槍を一斉に突き出す事)断固阻止の構えをとると、他の者は流 |
| 石にたじろいだが、筆頭局長の芹沢鴨は悠々とその穂先を鉄扇であおりたて「無礼をす |
| るとそちらが後悔するぞ」という意味のことを、大声であざけった、という。間もなく |
| 会津藩から軍事奉行や公用方が駆けつけ仲裁に入った為大事に至らず通り抜け、仙洞御 |
| 所前の警備につき、夜は御所南門を固めた。この働きでそれまでの「壬生浪士」から当 |
| 日夜「新選組」という正式な隊名を武家伝奏から賜り、会津候から京都市中見廻りの任 |
| を命ぜられた。芹沢最後の勇壮な活躍場面の逸話と共に、新選組にとって記念すべき日 |
| となっている。 |
| 前年の八月十八日の政変で京を追われた長州勢は、元治元年六月の池田屋事件の報に激 |
| 怒し、朝廷に汚名をそそぎ会津・薩摩に報復する(「討薩賊会奸」)為、大挙して都を取 |
| り囲んだ。三国老の福原越後、国司信濃、益田右衛門之介が率い、久坂玄瑞、来島又兵 |
| 衛、入江九一、寺島忠三郎らを含む長州藩兵や西国浪士の軍勢は嵯峨、山崎、伏見付近 |
| に滞陣し、七月十九日、ついに進軍を開始して御所に向かい、蛤御門を守備する会津藩 |
| や薩摩、桑名等の守備兵ら幕府方諸藩の連合軍と激戦に及び、以後の数日間の戦による |
| 火事で、新選組が前月未然に防いだはずの京都大火は現実のものとなり、「京のドンド |
| ン焼」とまで呼ばれ、御所近辺から町家まで都の広大な範囲を焼き尽くした。この大火 |
| で六角獄舎では、通常なら解き放ちと再出頭の措置をとるはずの囚人らに尊攘派国事犯 |
| が多く含まれていた為、急遽彼等を一斉に処刑するという惨劇が起こった。後年新選組 |
| の所業とされたが関係がない。この「禁門の変」を、最激戦地の名から別名「蛤御門の |
| 変」ともいう。 |
| 新選組は開戦前から川島勝司らが情報収集にあたり巡察を強化、長州方の斥候を捕縛し |
| 軍中法度を定め、四塚関門の警備を経て九条河原に布陣した。十九日は長州勢の進軍に |
| 伴い伏見稲荷関門の大垣藩の応援、急使を受けて御所に向かうが、すでに敵本隊が敗走 |
| した後で残兵との戦闘に当たる。その後は山崎天王山へ長州勢掃討に進撃したが、敵将 |
| 真木和泉(久留米出身)らはかなわぬと見て自らの陣に火をかけ、ことごとく自刃した。 |
| 新選組はその後橋本、枚方を経て大坂に至り市中を探索して壬生に帰った。後、老中か |
| らこの参戦に対する賞状が下賜されている。 |
| (滋賀県草津市草津一丁目一二三一番) |
| 草津は東海道五十三次の一つで、中山道の分岐点でもあるので本陣、脇本陣が各二軒、 |
| 設けられていたが、現在は田中家本陣のみ現存している。総敷地一三〇五坪、建坪四六 |
| 八坪、寛永十二年の開設以来、浅野内匠頭、吉良上野介、シーボルト、皇女和宮など、 |
| 数知れぬ人たちが本陣を利用し、草津宿を通り過ぎて行った。 |
| 本陣宿帳には慶応元年五月九日の条に「同土山立 一、新選組 土方歳三様 斎藤一様 |
| 伊東甲子太郎様 藤堂平助様 右上下三十二人、二百五十文宛御払、外二十四文蝋燭 |
| 二十丁扣」の記載が見られ、土方歳三や伊東甲子太郎らが江戸で新入隊士を募集し、五 |
| 三名の入隊者を引き連れて京に帰る途中、一泊したことが知れる。現在は公開しており、 |
| 日祝の翌日及び、年末年始は休館している。 |
| (弘化元・三・二十五〜明治三・十二・二十八) |
| 米沢藩士。諱を守善、本名を小島竜三郎。慶応四年六月、越後の米沢藩陣営で「討薩檄」 |
| を起草し、八月に関東諸藩遊説の目的で上州に入るが前橋藩兵らに銃撃を受けて会津領 |
| に逃れる。二十五日頃田島付近で元新選組の近藤芳助らと合流、若松城が敵に包囲され |
| た事を知り故国米沢への援軍要請を考え、本郷村で加わった永倉新八、芳賀宜道、望月 |
| 光蔵らを従え向かうが、藩境に着くとすでに米沢藩は降伏の方針に決まっていた。雲井 |
| は永倉、芳賀、近藤、望月らの三ヶ月間米沢滞在を世話して訣別。望月が「大志あるが |
| ごとし」と評したが、その通り雲井は明治三年になって新政府転覆を企てた嫌疑により |
| 身柄を拘束され、間もなく斬罪梟首となった。永倉は小塚原の処刑場に駆けつけ、彼の |
| 首を見て慟哭がやまなかった、という。墓は山形県米沢市城南五丁目の常安寺。 |
| (京都市左京区黒谷町) |
| 文久二年、京都守護職を拝命し、洛内外の秩序保持に努めた会津藩主松平容保は、浄土 |
| 宗黒谷金戒光明寺を本陣とした。在京中に亡くなった藩士、二百五十人余りの殉難者の |
| 墓所が塔頭西雲院に定められ神霊として祭られている。慶応四年一月の鳥羽伏見の戦で |
| 戦死した藩の軍事奉行林権助ら百十四人の藩士の名を刻んだ追悼碑が墓地入口左側にあ |
| る。池田屋事件の後、新選組と共に残党捜索に当たって土佐藩士を誤って傷つけ(明保野 |
| 亭事件)引責自刃をした会津藩士、柴司の墓も同所にある。 |
| (東京都台東区上野公園一番地) |
| 東叡山寛永寺の総門を通称「黒門」という。黒門は上野公園の南入口近く、京成上野地 |
| 下駅付近にあったが、現在は円通寺に移されている。慶応四年五月十五日、彰義隊が寺 |
| 内に立てこもり、黒門付近で新政府軍と激戦になり、多数の死者が出た。原田左之助ら |
| 新選組隊士も加わっていたと伝わる。 |
| 公園の道を南入口から少し入った右側に黒門を復元して観音堂の門になっており、右方 |
| に石碑が立つ。上方には西郷隆盛の銅像や、彰義隊士の遺体を荼毘に付した場所として |
| 彼等の墓所がある。復元した門の向かい側、不忍池弁才天へ下りる階段の上からは、池 |
| の対岸、そこから大砲を撃ち込んだという旧加賀藩邸 (現・東京大学。文京区本郷七丁 |
| 目) 跡付近を望むことが出来る。近藤勇の絵等も残した絵師・大蘇芳年は、上野戦争の |
| 直後に彰義隊士の遺体を見て回り、作画の参考にしたと伝えられている。 |
| (京都市東山区粟田口華頂町) |
| 慶応元年八月八日、武田観柳斎ら新選組隊士が出動し薩摩藩士二名を捕殺した茶屋で、 |
| 場所の特定は伝わらないが、蹴上浄水場付近と推定される。薩摩藩士橋口四郎、隈本壮 |
| 助の二人が茶屋へ金策の強談に押し入り、店主の通報で新選組の武田は隊士六名を率い |
| て捕縛に向かうが、相手が混乱して抜刀し反抗した為、応戦、橋口は斬殺、隈本は捕縛 |
| され屯所へ連行、尋問後に二本松、薩摩藩邸に送還された。橋口の墓所、隈本の履歴も |
| 現在不明。戦闘中、武田は愛刀を打ち折られたという。 |
| (京都市東山区八坂下河原町四六三番地) |
| 慶応三年三月二十日、伊東甲子太郎ら十五名が新選組を分離し、東山泉涌寺塔頭戒光寺 |
| の長老、湛然の肝煎りで孝明天皇の御陵衛士を拝命した。同年六月八日には、五条通り |
| 善立寺から、臨済宗建仁寺派月真院(高台寺の塔頭)に屯所を移した事から、御陵衛士を |
| 高台寺党とも呼ぶ。同年十一月十八日、新選組の近藤勇の妾宅へ招かれた帰路斬殺され |
| た伊東の遺体が油小路に置き去りにされている、との知らせを受けた時、月真院屯所に |
| 残っていて引き取りに出向いた七人のうち、藤堂平助、服部武雄、毛内有之助の三人は |
| 闘死し、鈴木三樹三郎、篠原泰之進、富山弥兵衛、加納道之助の四人は脱出して薩摩藩 |
| 邸に庇護され、高台寺党は事実上この日に消滅した。 |
| 現在月真院は素泊の民宿も兼ねている。 |
| 真剣勝負の場において、道場での強者、巧者が強いとは限らない。優れた技を所持して |
| いる事と修羅場での技の使い方に習熟していることは次元が異なる。新選組が幕末最強 |
| の剣客集団となり得たことは、それぞれの隊士が、実戦の場に即した得意技の使い方に |
| よく習熟していたからである。さらに、絶対に討ち果たすという激しい使命感が常に先 |
| 行して、相手を圧倒していたことによる。度重なる白刃の下をくぐり抜けた近藤勇や土 |
| 方歳三、沖田総司は勿論、明治後まで生き抜いた永倉新八、斎藤一、島田魁などの隊士 |
| たちの在り方も、この事実を物語っている。 |
| (京都市下京区綾小路通大宮西入四条大宮町三七) |
| 浄土宗満月山普照院光縁寺と称し、天正年間に創建された。本堂と山門は、まさに当時 |
| のままである。墓地には文久三年十二年二十七日に切腹した野口健司を筆頭に山南敬助 |
| 松原忠司、谷三十郎らの新選組隊士の墓石と隊士ではないが大石造酒蔵の墓、そして、 |
| 昭和五十一年に建立された沖田氏縁者の女性の墓石が並んでいる。墓地は現在よりも、 |
| 北に広がっていて、今日、京福電鉄が通っている場所に墓はあったという。 |
| 伊東甲子太郎ら高台寺党の遺骸も当初は光縁寺に埋葬されたが、のち戒光院へ改装された。 |
