新 選 組 大 事 典


甲賀源吾
こうが げんご
(天保十年一月三日〜明治二年三月二十五日)
 
幕艦「回天」艦長。名は秀虎。掛川藩士甲賀孫太夫秀孝の四男に生まれ、木村軍太郎に
 
蘭学、矢田堀鴻に航海術、荒井郁之助に高等数学等を学ぶ。安政六年に幕府に徴用され
 
文久年間は江戸湾、大坂湾の測量に携わる。軍艦操練所教授方手伝、海軍生徒取締等を
 
経て慶応四年一月に軍艦役、後に軍艦頭並に就任。同八月、旧幕艦隊と品川を脱出して
 
十月に蝦夷地へ渡航。海上から蟠竜艦と共に、土方歳三率いる陸軍諸隊の松前攻略を援
 
護した。明治二年三月の宮古湾海戦では回天に乗艦し、土方、相馬主計、野村利三郎ら
 
新選組、神木隊、彰義隊の奇襲部隊を乗せ、官軍の「甲鉄」艦に接舷攻撃を敢行するも
 
回天上橋で指揮中に負傷、死亡した。行年三十一歳(二十八とする説も)。遺髪を箱館の
 
実行寺に葬るという。新選組中島登の「戦友絵姿」に描かれている。昭和六年、東京都
 
文京区向丘二丁目の光源寺に顕彰碑が建立されたが空襲で破損した。
 
 
 

甲州勝沼の戦い
こうしゅうかつぬまのたたかい
 
 
慶応四年、鳥羽伏見の戦いに敗れた新選組近藤勇ら百十七人は、富士山艦で横浜港に入
 
り負傷者十数人を下船させた後品川に投宿、近藤らは江戸入りし、後に徳川慶喜が恭順
 
のため上野の大慈院に入ると警護にあたった。
 
近藤は甲府城の幕臣と密かに連絡をとり、慶喜を甲府城に迎えて薩長相手に戦い、再度
 
徳川の天下に戻そうと、新たに「甲陽鎮撫隊」を編成する。三月一日に江戸を発ち、途
 
中の笹子峠では雪で難儀して脱走者も相次ぎ、漸く五日勝沼に入った時の人数は百二十
 
一名であった。一方の東山道軍は下諏訪に入った時に近藤らが甲府城をめざし迫ってい
 
るとの情報を得て、偽官軍扱いの赤報隊・相楽総三らを処刑して、板垣退助らが甲府に
 
向かい、三月五日には甲府城を一日早く接収し、谷干城らを勝沼へ向かわせた。近藤は
 
柏尾坂に後退し、六日の午後二時頃から五時頃まで交戦したが戦況は不利で、山中に逃
 
れその後八王子をめざして逃走した。
 
 
 

耕春院
こうしゅんいん
 
 
現・青森県弘前市西茂森一丁目十二番地。現在の名称は耕春山宗徳寺。箱館の終戦後、
 
青森に移された降伏人たちは、明治二年六月、弘前で各寺院に分散、収容された。安富
 
才助ら百名が謹慎した耕春院はその後明治五年に焼失、再建され改称した。
 
 
 

興正寺事件
こうしょうじじけん
 
 
慶応三年十二月七日、紀州藩家老水野大炊頭が宿舎の興正寺で襲撃された、要人暗殺未
 
遂事件。同じ紀州藩の三浦休太郎が襲撃されたのと同日同時刻に起こっており、坂本龍
 
馬暗殺が紀州の手引きによると考えた一派の犯行ではないかとされるが、実体は不明。
 
新選組では護衛として土方歳三、原田左之助、吉村貫一郎、岸島芳太郎、相馬主計(肇)
 
らの隊士を配し、被害はなかった。
 
 
 

高台寺党
こうだいじとう
 
 
新選組を分離した参謀伊東甲子太郎ら孝明天皇御陵衛士・禁裏御陵衛士の別称。慶応三
 
年六月から十一月まで彼等が東山高台寺の塔頭月真院を屯所とした為、一般的には高台
 
寺党と呼ばれるようになった。伊東甲子太郎、鈴木三樹三郎(三木三郎)、篠原泰之進、
 
阿部十郎、新井忠雄、毛内有之助、加納道之助(鷲雄)、橋本皆助、内海二郎、藤堂平助
 
斎藤一、服部武雄(三郎兵衛)、江田小太郎、佐原太郎、富山弥兵衛、清原清ら。
 
⇒別項・御陵衛士
 
 
 

甲鉄艦
こうてつかん
 
 
徳川幕府がアメリカに発注した軍艦で原名はストーン・ウォール・ジャクソン。船体を
 
鉄板で覆われていたので甲鉄と呼ばれた。排水量1358トン1200馬力。全長48m幅9m。
 
前部に300ポンド砲1門、後部に70ポンド砲2門、24ポンド砲6門を備え、さらに毎分
 
180連発のガトリング砲を搭載していた。
 
慶応四年四月二日に横浜に到着した時点では日本国内が内戦状態であったため、米国
 
の局外中立宣言により、発注者の旧幕府軍、新政府軍(官軍)のどちらにも引き渡されず
 
翌明治二年一月、戊辰戦争の帰趨が決したとして新政府軍が受領した。それまで、旧幕
 
府艦隊に比べ海軍力で劣っていた新政府はこれに力を得て、三月九日に箱館をめざして
 
発進する。箱館の榎本艦隊は甲鉄艦奪取を計画し、宮古湾海戦が起こった。その後は、
 
「東艦」と命名され、「鉄道唱歌」にもその名で歌われている。
 
 
 

鴻池善右衛門
こうのいけ ぜんえもん
(天保十二・八・二〜大正九・六・十六)
 
山中氏、諱は幸富。今橋二丁目に店を構える。大名貸しなどを営む大阪随一の豪商。
 
代々、善右衛門を襲名「鴻善」略称した。幸富は十代目にあたる。
 
文久三年七月四日、芹沢鴨、近藤勇が六人の隊士を引き連れて鴻池を訪れ、武器料とし
 
て二百両、他に三十両を出させた。翌元治元年十二月、近藤が鴻池ら大阪の豪商二十二
 
家から、合わせて銀六千六百貫を借用した際には、金換算で五千六百両に相当する最高
 
額を引き請け、慶応三年十二月八日にも四百両を貸し出すなど、新選組の有力な資金源
 
とされた。屯所を訪れた番頭に対し、近藤自ら短刀でカステラを切って出してくれたと
 
いう話も残っている。近藤の佩刀虎徹は鴻池が贈ったものともいい、箱館称名寺に土方
 
歳三の碑を建てた大和屋友次郎は当家の手代だったとも伝えられている。維新後、鴻池
 
と改姓。墓は大阪市中央区中寺二丁目顕孝庵にある。
 
 
 

光明院
こうみょういん
(千葉県流山市流山六丁目)
 
慶応四年四月二日から六日、五兵衛新田から脱走してきた新選組が駐屯した寺院。
 
現、真言宗豊山派の赤城山信楽寺光明院で、俳人小林一茶関連史跡や千葉県下はじめて
 
の教員伝習学校として知られている。岐阜揖斐の旗本岡田家(五千三百石)から従軍した
 
富田重太郎の「官軍記」によれば「称名院」として新選組が屯集していたとされる。
 
地元資料は未発見である。四月三日、流山を急襲された折、野外練習中の大部分は不在
 
で、彦根藩は銃二百五十挺を接収し、大久保大和を責任者として総督府へ同道した。
 
光明院に残された二百余の隊士は、安富らに先導され、布佐から銚子を経て、陸路平潟
 
へ出て、会津で再び土方、山口らと再会し、会津戦争の一翼を担ったのである。
 
 
 

小栄
こえい
(生没年不許)
 
島原の桔梗屋の遊女。文久三年九月十八日、副長助勤の平山五郎は角屋で遊んだあと、
 
小栄を連れて帰って寝た。真夜中、小栄は厠へ行こうと唐紙を開けると、目の前に抜刀
 
した男が二人立っていて、その一人が「危ない、このまま家へ帰れ!」と云われ、逃げ
 
出して命拾いした。その後の消息は不明である。
 
 
 

蚕養口
こがいぐち
(福島県会津若松市蚕養町)
 
鶴ヶ城から北東に一・五キロほど行った所に、東に向かう江戸街道と北に向かう大寺街
 
道の分岐点がある。ここに会津では最も古い神社、蚕養神社があるので、ここを蚕養口
 
といった。慶応四年八月二十三日、猪苗代を突破した西軍が破竹の勢いで城下に迫って
 
きた。猪苗代から滝沢本陣に戻っていた土方歳三などの新選組隊士や桑名藩主松平定
 
敬らが、会津藩主松平容保とともに城内に入ろうとして、蚕養口まで来ると、敵の銃弾が
 
かすめ、倒れる者も出てきた。ここで評議が行われ、土方歳三や松平定敬は蚕養口から
 
大寺街道を北に進路をとり、塩川を経て米沢に向かうことになった。二本松藩主丹羽夫
 
人、長岡藩主牧野夫人も相前後して、米沢に向かった。
 
 
 

御香宮
ごこうのみや
(京都市伏見区御香宮門前町)
 
延喜式以来の古社で、徳川氏の再建に成り、神功皇后、仲哀天皇、応神天皇を祭る。
 
慶応四年正月二日から三日にかけて、伏見方面へ詰めかけた幕軍の先鋒は、三千名に及
 
んだ。そのうち、新選組百五十名は伏見奉行所跡に入っていた。対する薩摩藩兵八百余
 
名は御香宮と竜雲寺高地を占め、長州兵百二十五名はその他の寺院に駐屯していた。
 
戦いの火蓋は三日夕、鳥羽で切られた。伏見では西軍は御香宮を、東軍は奉行所を拠点
 
として戦いが始まった。新選組の土方以下の活躍もむなしく、刀槍に頼り、火力におい
 
て劣る東軍は、竜雲寺高地からの砲撃に圧倒され、奉行所は火を発した。やがて敗色濃
 
い東軍は、火災の延焼とともに日没ごろ退却し始めた。御香宮には京都城南会の調査作
 
成(明治三十年〜大正十五年)の「戊辰戦之役東軍伏見鳥羽淀八幡ニ於テ戦死乃殉難者
 
人名簿」があり、新選組の戦死者二十四名の名も載っている。
 
 
 

小芝長之助
こしば ちょうのすけ
(文政十二〜大正五・九・二)
 
幕臣。元将軍家御庭番。慶応四年四月十日夜、江戸城明け渡しに憤慨し、城内にある自
 
分の宿直部屋に放火して脱走。榎本武揚や大鳥圭介の命を受け、探索方となって密書の
 
往復および敵情偵察などに活躍した。六月には蝦夷に渡り、箱館の状況を下見したとも
 
伝えられる。蝦夷平定後、差図役頭取格探索主任となり、また箱館市中取締を兼任した
 
が、この上司が土方歳三であった。翌明治二年五月十一日、土方歳三が戦死すると、五
 
稜郭から遺体引取りの使者として一本木に派遣された。降伏後、松江藩、ついで土浦藩
 
に預けられて謹慎。同三年四月放免された。身寄りが無く晩年、逓信大臣林薫の世話で
 
東京三ノ輪円通寺にある同志たちの墓守となって世を終わる。大正元年頃、土方の生家
 
を訪れたこともあり、山岡鉄舟の題字による「追懐録」一冊を終生の宝とした。
 
墓は東京都荒川区南千住一丁目の円通寺。
 
 
 

小島鹿之助
こじま しかのすけ
(文政十三・二・一〜明治三十三・三・九)
 
為政、号は韶斎。武州多摩郡小野路村寄場名主。菊地菊城、遠山雲如、大沼枕山について
 
漢学を学ぶ。剣術を近藤周助に学び、佐藤彦五郎、近藤勇と義兄弟の契りを結んだ。
 
勇は周助の跡を継いで剣を教え、鹿之助は漢学を教授したという。勇は新選組を結成し
 
しばしばその動静を書簡で鹿之助や彦五郎に知らせている。
 
小野路村ほか三十四ヶ村組合村の寄場名主として尽力し、慶応二年七月には小野路農兵
 
隊を組織して隊長となった。甲陽鎮撫隊の勝沼戦争の折には援軍として参加する予定で
 
あったが、間に合わず、のちに解散した。幕府瓦解後は病気を理由に引退し、最後まで
 
幕府に忠節を尽くした近藤勇、土方歳三の汚名回復に力を注ぎ、明治六年に「両雄士伝」
 
を撰した。享年七十一歳。著書「韶斎遺稿上下」
 
 
 

小島鹿之助邸
こじましかのすけてい
(東京都町田市小野路町九五〇番地)
 
天保十三年十月に寄場名主の家として新築された。小島家では小島角左衛門、鹿之助親
 
子が天然理心流三代近藤周助に入門し、周助、勇親子が剣術指南に天保六年から文久二
 
年まで訪れている。屋敷は九百坪あり、母屋の建坪は九十坪あった。剣術の稽古は母屋
 
の前庭で行い、夜は宿泊して翌日、次の出稽古場に赴いた。昭和四十年に改築され、昭
 
和四十三年十一月から小島資料館として公開されている。当時の柱や上段の間などは、
 
そのまま残され、当時の面影を伝えている。小島家に剣術師範で訪れた人は、土方歳三
 
沖田総司、山南敬助がおり、一泊している人が多い。沖田は文久二年七月十五日の「小
 
島日記」に、小野路村の橋本道助宅で剣術を教えているときに流行の麻疹にかかり、馬
 
で布田宿(現調布市)へ送ったことが記されている。
 
 
 

小島誠之進
こじま せいのしん
(慶応三〜昭和二十六・三・一)
 
号は渓南。東京都出身。衆議院速記技手。小島鹿之助の四男で明治二十九年に京都に旅
 
行し、友人の書家で漢詩を好む本田退庵と画家田中柏蔭と東山の古蹟を訪ねた時に、退
 
庵が「清水寺の近くに近藤勇の首が埋めてあるから案内する」というので三人で、ある
 
大きな寺の裏山へ登り、そこに高さ二尺くらいの石碑があるのを発見、墓標に「近藤勇
 
首級を埋む」と刻んであり、その傍に彼の別当を務めた者の小さな墓も発見したという
 
談話の記事が、昭和十二年六月二十五日の「東京朝日新聞」府下版に掲載されている。
 
 
 

(参考 新人物往来社)
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The music produced byDR(零式)さん


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