新 選 組 大 事 典


小島楓処
こじま ふうしょ
(文政十一〜明治三十七・三・二)
 
武州忍松平藩代々の臣新左衛門の家に生まれる。本名は鉄之助智臣。
 
このころ、諸外国の黒船がしきりにわが国沿海に来航し、鎖国を守っていた我が国に、
 
開国を要求する状況にあったので、忍藩は房総沿岸に海防のための陣屋を造り、また、
 
品川第三台場の築造を命じられるなど、繁忙を極めた。鉄之助もこのため、砲術修練の
 
主命を受け、近くの岡部藩に流罪になっていた砲術の第一人者高島秋帆のもとに学び、
 
のち、砲術指南に取り立てられた。鉄之助はこれらの陣屋に出張、また、ペルリ来航に
 
際し、その国書受領に出動するほか、桜田門外の変、坂下門の変、和宮下向警護、天狗
 
党の乱などの事態に出兵を命じられている。さらに大政奉還、王政復古、鳥羽伏見の戦
 
いなど、動乱のさなか、慶応二年から四年にかけて三度、藩公のお供をして上京、市中
 
や御門の警備にあたった。幕軍の敗退後、忍部隊は藩公を奉じて東帰、郷里にあって謹
 
慎したが、やがて西軍のうち、東山道軍が忍城に迫り、勤皇か佐幕かを難詰するに及び
 
二分していた藩論は、恭順を決した。この時、鉄之助の実弟永井蠖伸斎は幕軍の一隊を
 
組織し、忍藩の知己を頼り、これを味方にしようと説得に来ていたが、兄との会談も不
 
調に終わり、ついに両者はそれぞれの道に生別となった。この後。忍部隊は西軍の先鋒
 
となり、鉄之助は「忍の大砲」といわれた巨砲を率い、那須野、関谷、板室と転戦、
 
さらに東軍大鳥隊に奪われた白河城を奪還、進んで棚倉、本宮、二本松を制し、陣中総
 
督から賞詞を受けている。鉄之助はその後、福島から帰還したが、その為、すでに会津
 
に投じていた蠖伸斎と戦場で相見えることは避けられたのであった。
 
武人鉄之助は、また文の人でもあった。若年から俳諧の道に志した彼は秋帆に師事した
 
時も、その途次、本庄の伊丹渓斎の門を叩いて教えを受けている。維新の後は俳友との
 
交流を楽しみ、武州八俳人の一人として名を残した。
 
 
 

小塚原刑場跡
こつかっぱらけいじょうあと
(東京都荒川区南千住二丁目)
 
鈴ヶ森とともに江戸の二大刑場。明治三年十月十日、大石鍬次郎が坂本龍馬暗殺の件で
 
取り調べを受け、小塚原で処刑された。刑場は間口六十間余(百八メートル)、奥行き
 
三十間余(五十四メートル)の広さで現在はその一角に浄土宗延命寺(南千住二丁目三
 
十四ー五)があり、刑死者を弔うための延命地蔵(首切り地蔵)が立つ。以前は貨物線
 
路の南側にあった。JR南千住駅から徒歩三分、地下鉄南千住駅南口前。歩道橋の横に
 
案内板がある。線路を隔てて吉田松陰など安政の大獄の死者の墓所がある回向院がある。
 
 
 

古東領左衛門
ことう りょうざえもん
(文政二〜元治元・七・二十)
 
淡路三原郡津井村出身。古東万次郎の長男。文久二年から上洛を重ね、同三年八月の天
 
誅組の挙兵に参加、転戦ののち京都に潜入。三条木屋町に潜伏中の八月二十四日、新選
 
組によって捕縛され、六角獄につながれる。元治元年七月の禁門の変において獄中で殺
 
害された。享年四十六歳。墓は京都府京都市東山区清閑寺の霊山墓地。
 
 
 

駒飼村
こまがいむら
(山梨県東山梨郡大和村日影小字駒飼)
 
江戸時代の甲州街道の宿場。難所の笹子峠西麗の山村で勝沼宿まで一里二十一町。キリ
 
シタン大名有馬晴信(一五六七〜一六一二)の終焉の地として知られる。
 
慶応四年二月二十日、新選組兵に会津藩兵など入り交じり数人、駒飼村に到着。これか
 
ら毎日四、五人ずつ笹子峠を越えて来村、たちまち数十人に達す。先発隊は周辺の土民
 
と謀り、石和、甲府方面に出向き、西軍および甲府城下の状況を調べて、甲府城が西軍
 
に無血占領されたことを知る。隊長大久保剛(近藤勇)、副隊長内藤隼人(土方歳三)
 
の入村を待って勝沼宿に入り、三月四日柏尾山(同郡勝沼町勝沼)に布陣した。三月六
 
日の柏尾山での西軍との戦いに敗れて、笹子峠を越えるときも駒飼村を足早に通過した。
 
 
 

駒野
こまの
(生没年不詳)
 
京都三本木(京都市上京区鴨川西、丸太町上ル)の芸妓で近藤勇の愛人。近藤に落籍され
 
男児を産む。慶応四年、板橋で刑死した近藤の首が三条河原に晒されると、駒野は辻講
 
釈師に金を与え京都での手柄や追悼の一席を口演させた為、官軍に捕まり髪を切られて
 
追放された、という。明治十三年に深雪太夫(木津屋の遊女で近藤のもと愛人)が三本木
 
の駒野を訪ねて近藤の忘れ形見の男の子の消息を尋ねたところ、「五つまで里子に出し、
 
七つまで手元で育てたが人の勧めで東福寺に預けて仏弟子にしたところ、和尚も力を入
 
れて教育したので、今では末頼もしい智識になった」と答え、その子は立派な僧となり、
 
亡父勇の菩提を弔った、という話が伝えられている。
 
 
 

小楽
こらく
(生没年不詳)
 
京都北野上七軒の舞妓。土方歳三の馴染んだ妓女の一人と思われるが、出身、年齢、所
 
属などは不明。文久三年十一月に土方歳三が、武州多摩の小野路村庄屋・小島鹿之助に
 
あてた書簡に、自分の相手とした色里の女性たちの名前を列記した中に小楽の名がある。
 
 
 

御陵衛士
ごりょうえじ
 
 
慶応三年三月、新選組参謀の伊東甲子太郎が同志を連れて分離隊を作り、その職名とし
 
ていたのが御陵衛士である。職務は先帝孝明天皇の陵墓を守る、という事であり、形式
 
上は山稜奉行戸田大和守の支配下にあった。後に屯所とした場所の名から、一般には高
 
台寺党とも呼ばれる。伊東と共に衛士となったのは実弟三木三郎(鈴木三樹三郎)、篠原
 
泰之進、阿部十郎、新井忠雄、毛内有之助、加納道之助(鷲雄)、橋本皆助、内海二郎、
 
藤堂平助、斎藤一の十名。この他に服部武雄(三郎兵衛)、江田小太郎、佐原太郎、富山
 
弥兵衛、清原清らが行動を共にした。
 
 伊東は慶応年間になり、佐幕的傾向を強める新選組にいては自己の政治信条を実戦で
 
きぬと考え、同志らを連れて隊から分離し志士的活動を行った。大宰府や長州に赴いて
 
西国諸藩の志士に接近したり、長州藩の処分を寛大にすべきとの建白書を朝廷、幕府に
 
奏上している。この間、土佐の坂本竜馬や中岡慎太郎等とも面識を持っていたようであ
 
り、両人の殺害にあたり新選組犯人説を示唆したともいう。しかし、同年十一月十八日
 
油小路の決闘によって伊東、藤堂、服部、毛内の四名が死亡し、御陵衛士としての集団
 
活動は終息した。
 
 
 

五稜郭
ごりょうかく
(北海道函館市五稜郭町)
 
幕府の箱館(現在は函館)開港に伴い、北辺防備の拠点として築かれた、わが国最初の洋
 
式城郭であり、蘭学者武田斐三郎(大洲藩士)の設計で、安政四年春に着工、元治元年六
 
月に完成をみた。石垣積みの土塁を五稜星形に巡らせて水堀で囲み、中に書院風木造庁
 
舎を建てた。郭・二十五万一千四百平方メートル、堀・五万五千六百二十平方メートル。
 
 従来、箱館山の山腹にあった箱館奉行所の機構をこの五稜郭に移していたが、大政奉
 
還後に明治新政府に引き渡され、箱館裁判所、のち箱館府と改められた。明治元年十月
 
蝦夷内浦湾鷲ノ木浜に上陸した榎本武揚率いる旧幕府脱走軍は、自分達に蝦夷地開拓と
 
北辺警衛を許すようにとの嘆願書を五稜郭に届けようとして逆に攻撃され開戦。連勝し
 
てここを占領、府知事らは青森へ逃げた。その後、新選組を含む旧幕府軍の本営が置か
 
れ戊辰戦争最後の拠点となったが、明治二年五月十八日に降伏開城。庁舎も明治五年に
 
解体された。一説に現在の郭内には土方歳三や伊庭八郎の遺体が眠っているとも伝わり
 
五稜郭タワーから蝦夷戦跡の眺望や、市立博物館分館に多くの展示品が見られ、往時を
 
偲ぶ人が絶えず訪れている。
 
 
 

五稜郭降伏
ごりょうかくこうふく
 
 
明治元年十月の旧幕府軍蝦夷地上陸以来、七ヶ月間に渡る「蝦夷共和国」の夢は翌二年五
 
月十八日で幕を閉じた。五月十一日、箱館総攻撃開始により陸軍奉行並土方歳三の戦死
 
を機に、明治新政府軍は表面上は攻撃の手を緩めず砲撃を続けながら、一方では降伏勧
 
告工作を進め、医師高松凌雲を通じ、弁天台場の新選組相馬主計から総裁榎本武揚に、
 
降伏勧告書が手渡された。榎本は一端拒否したがこれ以上の犠牲者を出す事を考え受諾
 
に至った。
 
 十八日、榎本武揚、松平太郎、大鳥圭介、荒井郁之助の四人は五稜郭を出て敵の軍門
 
に降り、隊士・卒、負傷者ら一千余人が箱館の各寺院に分散して謹慎となる。兵器の引
 
渡しは会計奉行榎本対馬によって引き継がれ、その内容は小銃千二百七挺、短銃四十八
 
挺、加農砲(カノン砲)十門、四斤施条砲山門、臼砲十六門、米五百俵、味噌、干魚等で
 
ある。弁天台場で降伏した新選組隊士たちも、弘前城下薬王寺で謹慎した。
 
 二十一日、首謀者四人に弁天台場の降伏者、永井玄蕃、松岡盤吉、相馬主計を加え、
 
熊本藩兵の手で東京に護送となった。
 
 
 

金地院
こんちいん
(東京都港区芝公園三−五−四)
 
天然理心流三代目宗家で、近藤勇の養父である近藤周斎の墓所。周斎は慶応三年十月二
 
十八日、四谷舟板横丁の隠居所で亡くなった。同寺過去帳や勇の生家宮川家の菩提寺・
 
竜源寺の香典控帳によれば、周斎は「仁功院殿義山道周居士」という法名であるが、金地
 
院の墓碑正面には「法名人切院殿義山道周居士」とあり「功」を「切」と誤って刻まれている。
 
 
 

近藤勇妾宅跡
こんどういさみしょうたくあと
(京都市御方紺屋町四九四・醒ケ井通り木津屋橋下ル四九四番地。現在堀川通)
 
元安寧尋常小学校の校庭付近。塩小路通(三哲)を横切り、不動堂町に入っていく広大な
 
地区の一部で、慶応三年秋頃に新選組が新築移転した屯所のすぐ側であり、警備範囲の
 
内にあった。新選組の新屯所所在地については在営期間が短いため幻の屯所といわれ、
 
諸説あるが、元安寧尋常小学校を含む辺り、と現在の堀川通り塩小路西南角のグランド
 
ホテル辺りの説に分かれる。子母澤寛著「新選組異聞」にある花昌町というのは存在しな
 
い。御方紺屋町に住む平安高校教諭川崎泰市氏が、安寧尋常小出身の母堂と明治四十一
 
年生まれの橋本艶氏、古くから油小路で両替商を営む池田長兵衛氏の証言で地図を作製
 
している。現在、道路拡張の為同小学校はなく、校舎の裏側、西北辺りであった近藤の
 
妾宅も失われ、広い道路となっている。
 
 
 

近藤勇狙撃事件
こんどういさみそげきじけん
 
 
慶応三年十二月十八日の事件。前月の油小路事件の難を逃れた旧御陵衛士の残党は伏見
 
の薩摩藩邸に保護されていたが、阿部十郎、佐原太郎、内海二郎の三人が、この日に外
 
出先の京都寺町通で、少数の部下を連れ騎馬で通行中の近藤勇を見かけ、急ぎ伏見に戻
 
り、居合わせた篠原泰之進、加納道之助、富山弥兵衛と共に、伏見街道墨染南方の丹波
 
橋筋付近、尾張藩邸の近くで襲撃の為待ち伏せた。阿部と富山は銃を携行し、近藤が視
 
界に入ると富山が狙撃したが右肩に重傷を負わせたのみで、気丈な近藤はそのまま馬を
 
駆けさせて、自陣である伏見奉行所へ逃れ去った。阿部らはその際、抜刀して新選組の
 
中へ斬り込み、隊士石井勇之進と馬丁一人を斬殺したが、変事を知って奉行所から駆け
 
つけてくるであろう人数との遭遇を避けて、今出川の薩摩藩邸まで長駆して逃れた。
 
近藤はこの時の銃創の治療を受ける為、適した医師のいる大坂へ下り、翌年正月の鳥羽
 
伏見開戦時には戦列を離れていたため、陣頭指揮をとる事は出来なかった。
 
 
 

近藤勇の漢詩
こんどういさみのかんし
 
 
近藤勇の辞世の詩として二つの七言絶句が有名であるが、この他に直筆の書が二幅、軸
 
装されて残っている。近藤の漢詩で残っているものは少ないが、書簡文面等からはその
 
教養の深さが感じられる。京においては頼山陽の書を手本として書道に励み、長文の書
 
簡を郷里に多く送っている。
 
 
 
「感懐に作る」  (小島資料館蔵)
 
富貴利名、豈羨む可けんや  悠々として、官路浮沈に任す
 
此の身、更に苦辛在るに有り  飽食暖衣は我が心に非ず
 
 
 
「外史に読む 丙寅仲秋」  (佐藤福子氏蔵)
 
摩裟す源将の木人形  自ら盛功を説く爾は我儔
 
猶一般の優劣有る処  鉞矛をもって他日明州を凌がん
 
 
 

近藤勇の稽古着
こんどういさみのけいこぎ
 
 
現在、都内町田市小野路の小島資料館に保存されている。近藤勇は武州多摩郡小野路村
 
の小島鹿之助宅にしばしば剣術指南に訪れ、妻ツネの手で背中に髑髏の刺繍をさせた稽
 
古着を持参して、稽古の際に常時着用した。小島家では近藤が帰るとこれを洗濯して次
 
の来訪に備えた。髑髏は決死の覚悟を表していると思われる。
 
 
 

近藤勇の写真
こんどういさみのしゃしん
 
 
現存する近藤勇の写真は二種類で両方共座像であり、腕を組んだものと下におろしたも
 
のの二ポーズがある。背景や小道具、着衣から同日同所で撮影されたものと特定できる。
 
これまでは、佐藤彦五郎子孫宅所蔵の写真裏面に慶応二年撮影、近藤が持参したものと
 
ペン字で後世書かれた内容から、一般には慶応年間京都での撮影と思われてきたが、真
 
相は不明であった。しかし最新の研究では敷物の柄や文献から、慶応四年二月頃、江戸
 
の医師松本良順の医学所頭取役宅で内田九一の手により撮影されたものとの推定がなさ
 
れ、甲陽鎮撫隊出陣前の出征写真の意味で写させたものと考えられている。後、五兵衛
 
新田の金子家から流山に転陣する際は謝礼とともに腕組みの写真を与えている。
 
 
 

(参考 新人物往来社)
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