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新選組の主任務。公式には文久三年八月十八日に開始され慶応三年十二月まで続いた。 |
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文久三年三月、当初の名を壬生浪士組といった隊士らは、混乱する京都市中の治安維持 |
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のため、自主的に巡邏を始めていたが、八月十八日の御所の政変に出動した際、京都守 |
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護職松平容保の直命により「市中昼夜見廻」を下命され、「新選組」の隊名もこの日に賜っ |
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た。局長の近藤勇が目指していたものは王城の地京都における攘夷の実践であり、市中 |
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見廻りに専心する現実を憂えた文面を翌年元治元年五月の書面に記し、松平容保に隊の |
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解散をも進言した。しかし翌六月の池田屋事変で驚異的な成果と高名を得たことで、新 |
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選組は京都最強の治安維持部隊として認知されるようになり、在京中は最後までその任 |
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務に邁進する結果となった。 |
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巡邏の地域は期に応じて守護職、所司代、後発の見廻組等と同じく振り分けられ、一例 |
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として慶応三年十一月六日附の幕府通達所には「新選組持(場)」として「北ハ五条通、南 |
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ハ御土居迄。東ハ(鴨)川東より西御土居迄」と記されている。しかし、不審人物の尋問 |
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等は地域を選ばず率先して行った。 |
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新選組生き残りの島田魁が箱館降伏後、謹慎中に書いた記録。研究家釣洋一氏の努力で |
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昭和四十八年に発掘された。「日記」「明治二巳歳日記」という表題だが、実際には謹慎中 |
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まとめて記したもので、内容は新選組の前身浪士組の上洛から、明治二年に自身が名古 |
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屋藩に預けられるまでを記述している。後期入隊の中島登や立川主税の記録とは異なり |
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新選組の主たる活動期間である京都駐屯時代が描かれており、隊士の書いたものとして |
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は唯一の通史として史料価値が高い。この日記によって、「新選組」の名称が文久三年八 |
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月十八日、禁門の政変出動の当日に武家伝奏から下されたものという事実が発見され、 |
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それまでの同年三月に京都守護職御預となった頃に命名という通説を覆した。その他に |
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も新選組及び維新史研究に有益な記事が多い。前半が近藤勇の法名、後半が土方歳三の |
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法名を記して終わる形になっているのは象徴的である。原本は現在、京都霊山歴史館に |
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秘蔵され、全文が「新選組史料集」「続・新選組隊士列伝」「霊山歴史館紀要・第一号」等に |
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収録されている。 |
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(福島県会津若松市大町一ノ一ノ三十八) |
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慶応四年に土方歳三らの宿泊した宿屋。明治後は三度の若松大火にも残り、大正の初め |
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頃廃業し、日掛月掛の無尽会社(銀行の前身)となり、発展的解消の後、現在の大東銀行 |
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会津支店となっている。 |
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戊辰宇都宮戦争で足を負傷した土方歳三は、四月二十六日に会津藩秋月登之助らと田島 |
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に入り、秋月の会津藩への急使で、格式ある宿屋として、会津城下七日町清水屋を手配 |
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される。土方は馬丁沢忠助の口取りの馬に乗り島田魁、中島登、漢一郎、畠山二郎、松 |
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沢乙造の五名を護衛として、四月二十九日に清水屋に入った。ここは城下随一の旅籠で |
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大町四ツ辻から西下する事百数十歩の左側、越後街道に面し、越後新発田藩主一行の江 |
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戸下りの宿所であり、落城後に妙国寺に謹慎していた照姫も江戸行きの直前に奥女中と |
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一時滞在した。明治初年の写真には白壁三階建ての威容が見られる。 |
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土方が到着すると近くに住む馬島瑞園(松平容保の侍医、吉田松陰と交流があった)、そ |
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の親友の古川春英(ポンペ、シーボルトに師事した外科医)らが駆けつけ治療に当たり、 |
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また古川の学友で新選組旧知の幕医松本良順らの診立てもあり、足の負傷は化膿しやす |
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い時期を乗り越え順調に回復した。地元医師らのすすめで土方は近郊の東山温泉の湯治 |
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も実行し、戦列復帰が叶った。この間、閏四月五日には負傷癒えぬまま藩主父子、容保 |
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と喜徳に謁見、激励と金子若干を下賜されている。 |
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清水屋から東山に通う湯本道の奥に天寧寺という古刹があり、会津藩大身の武士の眠る |
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由緒を知った土方はここに近藤勇の墓を建て菩提を弔いたいと願い、住職に鶴ヶ城への |
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同道を頼む。登城して先の下賜と宿、医師の世話の礼と合わせ近藤の墓建立の希望を述 |
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べると快諾を受け、住職に「貫天院殿純忠誠義大居士」の戒名を授かり、天寧寺山腹の墓 |
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が建てられた。その後会津戦争の間、有名な白虎隊自刃の前日に中島登らがこの寺に一 |
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泊し前線に出動している。 |
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真壁郡下館(下館市)周辺を領有した譜代二万石の中小藩。慶応四年四月、土方歳三は下 |
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妻藩を恭順させ、秋月登之助(江上太郎)に任せると兵を率いて下館に向かう。十七日未 |
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明下館城下に入り、四斤山砲の照準を城の大手門に合わせ完全包囲してから、新選組の |
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島田魁らを軍使として送った。藩主石川若狭守はすでに笠間へ逃走しており藩はあっさ |
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りと恭順したが、軍資金五百両、米味噌など兵糧は差し出すものの兵は出せぬという。 |
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島田らと同道してきた家老が言葉巧みに時間稼ぎをし、翌十八日、ついに土方は兵糧の |
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みを受け取り真岡へ進軍している。藩主石川若狭守は笠間からさらに水戸に逃れ、大鳥 |
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軍が宇都宮から退却した後で下館に戻っている。土方らが去った後、下館藩は新政府軍 |
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総督府の命令で藤原口出兵や後方警備のため兵四百五十を出すことになった。 |
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譜代で一万石、城を持たず土塁をめぐらせた陣屋が藩主の居館という小藩。慶応四年四 |
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月十二日、土方歳三率いる旧幕府脱走軍前軍は市川を発し、小金、布施と泊まりを重ね |
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利根川を渡る。十六日、下妻南方三キロの宗道に至る。下妻藩陣屋は家老吉沢三郎右衛 |
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門と今村昇が守っており藩兵わずか百名ほどで、到底脱走軍には対抗出来なかった。土 |
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方使者として新選組古参の島田魁他四名が陣屋に赴き開城を迫り、翌十七日朝、家老の |
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今村以下藩士十名、卒十数名を差し出す事に決し、焼き討ちは免れた。土方は事後処理 |
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を会津藩秋月登之助(江上太郎)に任せ、早々と下館城攻略に向かう。事なきを得た下妻 |
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藩は、数日後には岩井から敗走してきた旧幕府純義隊に占領され、その後は新政府軍に |
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恭順、閏四月十五日には新政府軍に一小隊を差し出すことになる。 |
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慶応三年六月新選組総員が幕臣取り立てを受けるが、これに反対し脱退を願い出た隊士 |
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十名があった。茨木司、佐野七五三之助、富川十郎、中村五郎、岡田克己、中井三弥、 |
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木幡勝之進、松本俊蔵、高野良右衛門、松本主税である。彼らは六月十三日、京都守護 |
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職屋敷に連名の嘆願書を提出するが、会津藩公用方の連絡により、新選組から近藤勇、 |
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土方歳三、山崎烝、吉村貫一郎、尾形俊太郎の五名が屋敷に急行して談判となる。 |
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翌十四日に再度の会談が持たれたが、願いは聞き入れられず、佐野が突然中座し茨木、 |
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富川、中村を別室に招き入れ、四人ともそこで切腹してしまった。佐野だけはまだ息が |
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あり、検死に来た大石鍬次郎に恨みの一太刀を加えたが、志村武蔵らにとどめを刺され |
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た。残る岡田以下六人は隊に用なしとして追放処分となり落着。 |
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