新 選 組 大 事 典
万延元年九月三十日、天然理心流近藤周助・勇一門の額が、武蔵国府中六所宮に奉納さ |
れた。当日は奉額の行事の後、拝殿での太々神楽が終了後、近藤勇・土方歳三らにより |
木刀と刃引を用いた形試合が披露された。門弟、地元住民等の寄付金合計は二百二十五 |
両、支出合計は百七十両、利益が五十五両であった。献額の書は本田覚庵で立派なもの |
だったが、慶応四年三月の官軍通行の際に下ろされ、額の周りの竜の彫刻だけが残って |
いたといい、所在ははっきりしない。 |
近藤勇が使い試衛館道場に伝わった木刀が残っているが、握りの太さが普通の三倍位あ |
りがっしりとして太い。現在は勇の菩提寺三鷹市の竜源寺に保管されている。同流の師 |
範では宗家と同じ握りの太い木刀が別に二ヶ所残っている。形稽古に使用され、刀と同 |
じ位の重さがあり、刀に慣れるためにも使用されたという。天然理心流の規格の木刀と |
いうのはなく、それぞれ長さ、重さが違っていた。 |
紀州藩公用人三浦休太郎が、「いろは丸事件」の屈辱から新選組に坂本竜馬を暗殺させ |
たという風説が立ち、坂本の仇と狙う海援隊等から身を守るため、三浦の宿である油小 |
路花屋町下ルの料亭天満屋に新選組隊士たちが護衛として詰める事になった。慶応三年 |
十二月七日夜、天満屋の二階で、三浦や警護役の新選組斎藤一ら十数名が酒宴の最中、 |
海援隊の陸奥陽之助(後の宗光)らと、十津川郷士中井庄五郎らの十六名が斬り込んだ。 |
中井は真っ先に躍り込み、「三浦うじはそこもとか」と声を掛け「左様」という返事を |
聞くと抜き打ちざまに斬り付けた。三浦は身を交わし、切っ先が顔を軽くかすった。中 |
井は新選組隊士に片腕を斬り落とされ、たちまちに乱闘となり、灯火が消え、暗闇の中 |
での死闘となったが、「三浦を討ち取った」という声がして、襲撃側は引き揚げた。こ |
の叫び声は新選組隊士の機転であり、三浦は軽傷で生き残っている。 |
襲撃側では中井が斬殺、負傷者三名。護衛側は新選組の宮川信吉(近藤勇の従弟)が死 |
亡、梅戸勝之進が重傷。 |
(北海道亀田郡七飯町) |
箱館戦争の開幕となった戦い。明治元年十月二十日、蝦夷内海湾の鷲ノ木に上陸した旧 |
幕府軍は来島の趣旨を新政府出先機関で五稜郭にあった箱館府に知らせ、朝廷への嘆願 |
書を取り次いでもらう為の使者を立てたが、使者が峠下(現在の国道五号線大沼の南) |
まで来ると近くに大砲二門と旧式銃を備えた新政府軍が待機しており、二十二日夜半、 |
旧幕使者隊三十余名の泊まる旅館へ発砲した。新政府軍は宿に放火しようとしたが使者 |
隊の兵に追われ、旧幕府軍は後続隊が到着して付近に分宿しており、一斉に小高い所に |
登り、横広く散開して射撃した。七小隊ばかりの新政府軍は南走し、抵抗を試みる兵も |
蹴散らされた。この戦いで伝習士官隊指図役山本参次郎が負傷、鷲ノ木に後送されて死 |
亡した。 |
(京都市南区九条町) |
長州出兵に備えた幕兵の宿陣。慶応二年九月六日夜、幕兵と大手組が争い死者一名、負 |
傷者一名を出し大手組多数が東寺に詰め掛け鉄砲数発を発射した。そこへ新選組が仲裁 |
に入り事なきを得たという。また、同寺は鳥羽伏見の戦い勃発の翌日には薩摩藩等の陣 |
とされ、初めて幕府征討の「錦旗」が立てられている。 |
永倉新八の記録による新選組隊士名簿。原本は散逸し、「新撰組永倉新八」に掲載され |
「新撰組顛末記」に引き継がれている。新選組結成の母体となった京都残留の十三人、 |
京坂募集とする七十一人、江戸募集とする五十三人、箱館脱走の際に募集する十五人等 |
合計百六十五人の同志の名、判明する範囲での出身、死因、役職等が記されている。ま |
た伏見奉行所移転の人員、江戸帰還者の名簿もあるが、いずれも後年の記憶によるもの |
で人名、人数に相違がある。 |
明治二十九年六月に創刊、昭和十六年十一月の六十五号まで発行された同方会の機関誌。 |
同方会は旧幕臣と関係者によって組織された会で、会長は榎本武揚。当初は「同方会報 |
告」の名称だったが後に雑誌の体裁となり二十号以降「同方会誌」と改題された。現在 |
は立体社から全十巻に合本復刻されている。幕末の貴重な史料が掲載され、新選組につ |
いても次のようなものが収録されている。( )内は号数。 |
・武田酔霞「近藤勇の略伝並に墳墓」(42) |
・石橋絢彦「新選組池田屋夜襲一件」(43)、「三条大橋の制札外し一件」(57) |
・千葉弥一郎「清川八郎・近藤勇と土方歳三」(60) |
(弘化三・十・十〜元治元・六・五) |
所山五六郎とも称した。名は輝郎。土佐藩足軽山野辺寿万平の次男。文久三年六月、京 |
都土佐藩邸警備御用を命じられ勤皇の諸士と交わる。翌年の池田屋事変の当夜は同僚の |
藤崎八郎と、洛東大仏日吉山にある板倉槐堂の文武館を訪ねようとして、たまたま事件 |
現場の三条小橋を通りかかった時に二人の武士に誰何され、同道を求められた。そこへ |
(会津藩兵とも新選組ともいう)壮士二十人ばかりに襲撃され、深手を受けながらも脱 |
出、河原町御池の長州藩邸に逃げ込み絶命した。長州藩では池田屋から脱出してきたも |
のと思い東山正法寺に手厚く葬った。一説には池田屋で背中を三太刀斬られて同所へ逃 |
れ死んだともいい、死亡日も六月二十七日、二十九日、七月二日等諸説ある。墓は京都 |
市東山区東山霊山と高知市薊野真宗寺山。 |
「野老山吾吉郎」の項を参照。 |
(京都市左京区北白川、京都大学農・理学部の北部構内付近) |
陸援隊屯営跡。土佐藩の京都藩邸は河原町にあったが、藩兵上洛時に駐屯させる為の陣 |
屋が洛東白川村に放置状態にあったのを中岡慎太郎が借り受け、同志を糾合して慶応三 |
年七月に陸援隊を発足させた。同年十一月に中岡が暗殺されるまでの間、この屯営では |
薩摩の兵学者鈴木武五郎による洋式銃隊訓練が行われ、十津川郷士五十名も調練に加わ |
り倒幕挙兵に備えた動きがあった。 |
新選組では隊士村山謙吉を密偵として陸援隊に潜入させその情報を得ていたが、中岡が |
坂本竜馬と共に近江屋で襲われた知らせは菊屋峰吉によって白川邸にもたらされ、その |
翌日に村山は邸内で捕らわれ、河原町藩邸の牢に映されて取り調べを受けたというがそ |
れ以降の生死は不明。 |
文久三年三月、浪士隊が江戸へ戻る事が決まると、八日または十日、浪士取扱の鵜殿鳩 |
翁が一番組の殿内義雄、家里次郎に対し残留希望者をまとめて会津藩の指図に従うよう |
に指示した。会津藩側の記録では閣老から十日に残留浪士の差配を命じられたとある。 |
殿内グループは家里の他、根岸友山、清水五一、遠藤丈庵、鈴木長蔵、神代仁之助の計 |
七名である。一方の近藤勇の書簡によれば、この十日会津藩に提出した残留願には「同 |
意者十七人」とあり、その中に殿内・家里の名はない。これは近藤らが彼等とは別個に |
同志を募った事を示しており、こうした事がその後の派閥抗争の引き金となったと考え |
られる。十二日、近藤・芹沢を盟主とする十七人と殿内ら七人の計二十四人が会津藩預 |
りとなるが、近藤芹沢派は殿内派を真の同志とは見ていなかったようである。十五日、 |
病気の者を残し、両派二十名で守護職邸へ挨拶に出かけたが、二十二日、将軍東帰延期 |
を求める建白には、殿内派からは根岸、清水、遠藤しか加わっていない。更に二十五日、 |
会津藩士数人が壬生を訪れた際に同志として紹介された顔ぶれの中には、殿内派の者は |
一人も含まれておらず、同日夜、殿内は四条大橋の上で近藤らに斬殺された。危険を感 |
じた根岸は伊勢参詣を口実に京を脱出、清水、遠藤、鈴木、神代も従ったらしく、全員 |
江戸の新徴組に入隊。一人残された家里が四月二十四日に大坂で切腹し、幕府の息がか |
りだった殿内派は消滅した。 |
近藤は郷里に宛てた書簡に、「同志の内、失策等仕出かし候者は速やかに天誅を加え候」 |
とこの粛清の事を書いているが、根岸は「浪士中趣意を心得たる者は去り、又は暗殺等 |
にて、其余は趣意を忘却したる輩のみ」「近藤勇という者、思慮もなき痴人なり」と、 |
近藤側の剣に訴えるやり方を非難、罵倒を込めて書き残している。 |
大坂に前将軍慶喜が下った後、鳥羽、伏見方面で対峙していた東軍(旧幕府・会津・桑 |
名を主力とする軍)と西軍(薩摩長州両藩兵)との間で、慶応四年一月三日夕刻に戊辰 |
戦争の戦端が開かれた。鳥羽街道赤池、小枝橋で薩摩軍の第一弾が放たれた後、戦闘は |
鳥羽伏見両方面でほぼ同時に開始され激戦となったが、東軍は西軍の火砲に制圧され、 |
夜に入って後方に退いた。新選組はこの日、最前線の伏見奉行所に詰め、目前の御香宮 |
にある薩摩軍と戦い、銃砲に押されて退却している。 |
二日目の一月四日は東軍が反撃に転じ、一時は西軍を圧する優勢であったが、前線司令 |
官である佐久間近江守と窪田備前守が銃弾に倒れた為、指揮に混乱を生じて淀方面に退 |
却。新選組も上鳥羽で戦い淀へ退陣した。またこの日に嘉彰親王が征夷大将軍に補せら |
れ、朝廷の威光の象徴である錦の御旗を賜っており、錦旗に弓引く者は朝敵、という西 |
軍側の大義名分が初めて明らかに発生した事にもなる。 |
三日目の一月五日。富の森、千両松などで激戦が続いたが、譜代の淀藩が東軍の淀城入 |
城を拒否した為に東軍は拠点を失い後退。この日の戦闘で新選組草創の幹部井上源三郎 |
も戦死し、山崎烝らが重傷を負った。翌六日に山崎を守備していた譜代の藤堂藩兵が寝 |
返り対岸から砲撃するに及んで、東軍は戦意を失い、八幡、橋本と後退の後、大坂へ向 |
けて敗走した。両軍の兵力は東軍一万五千(戦死者二百八十、うち新選組十数名)西軍 |
五千(戦死者約百十名)であった。 |
(文政七〜明治四十) |
武蔵国日野領蓮光寺村(現在の多摩市連光寺)名主の次男。政怒。幼名は日出丸、長じ |
て準平、後に十五代忠右衛門。晩年は松翁、または松園と称す。 |
日野宿寄場組合南組の大惣代で、府中宿の医師内藤某、関戸村の寺僧等と和歌を楽しむ。 |
天然理心流三代目の近藤周助に剣を学び、近藤勇の兄弟子に当たる。小野路村小島家へ |
勇が出稽古に赴く時には、必ず富沢家に立ち寄った。 |
文久四年一月(二月に元治と改元)、旗本八百石の地頭天野雅次郎の上洛に用人格とし |
て随行し、京都で近藤勇、土方歳三、沖田総司、井上源三郎らと交歓した。富沢の著書 |
に「旅硯九重日記」があり「立川の里」平喜楼一歩の序と「日野の里」春日庵盛車(佐 |
藤彦五郎の俳号)の跋が付され、日記の記事には近藤勇の金扇が記されている。 |
墓は高西寺(多摩市連光寺二ノ二十四ノ一) |
(弘化四〜不祥) |
上洛前の近藤勇の愛妾と伝わる。沢は武州八王子の商人鳥山某の娘で、幼くして両親と |
別れ江戸八丁堀亀島町の叔母の家で育ち、評判の美人で慎み深く性質のやさしい娘だっ |
たので勇に深く愛され、数え十六歳の時に三河町(千代田区内神田一丁目付近)に囲わ |
れたという。この場所は勇が学んだとされる神田昌平橋北詰の溝口誠斎の塾に近く、鳥 |
山姓の家が戦前から八王子にあった事も事実である。文久三年に勇が上洛してからの二 |
人の仲については明らかではないが、沢は慶応四年の勇の刑死を聞くと食事も喉を通ら |
ぬ程の悲嘆にくれ「世の中に憂きもつらきも我身ほどはかなきものは又とあるまじ」と |
いう和歌を残して仏門に入ったと伝えられる。 |