| (天保九〜明治二・四・九) |
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| 武州忍松平藩新三右衛門の四男で本名は新六蔵。小嶋楓処の実弟。万延元年に出府し幕 |
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| 臣久野家、後に鈴木家の養子となり鈴木蠖之進。外国奉行永井尚志の配下となる。文久 |
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| 二年、京都町奉行となった尚志の上洛に随従して、新選組や見廻組などと協力、市中警 |
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| 護に当たる。剣客今井信郎ともこの頃から互いに心を許すようになる。文久四年(改元 |
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| 後は元治元年)尚志は大目付となって引き続き京都の事態収拾に努めたが、長州征伐後 |
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| 幕議と合わず江戸に帰り、蠖之進も帰郷。今井と共に剣術師範として岩鼻陣屋に迎えら |
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| れ、慶応二年、武州大一揆などに出張。 |
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| 慶応四年鳥羽伏見の敗戦後、古屋作左衛門が、江戸から脱走した幕府軍の諸兵をまとめ |
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| て再起を図ると今井と共に同調、衝鋒隊幹部となる。同隊は勝海舟から砲六門と兵八百 |
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| 五十を認められ天領の信州中野をめざした。蠖之進は永井尚志から養子格として姓を与 |
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| えられ、永井蠖伸斎と称した。途中忍藩の同調を求めて失敗、実兄と生別。梁田で西軍 |
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| の奇襲に遭い道を変えて北進、会津若松へ入ろうとしたがこの時会津藩が恭順の姿勢を |
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| とっていたため拒まれ越後へ入り、去就に迷う諸藩を制圧しつつ天領をめざすが、飯山、 |
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| 高田藩の背盟と西軍東山道軍に攻撃され退却。長岡藩では中立を脱し抗戦を始めており |
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| 卓越した軍略を持つ家老河井継之助と共に、最大の激戦を展開した。一度は落城した長 |
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| 岡城を河井の奇策により奪回するなど、衝鋒隊も活躍したが再度落城。隊は山を越えて |
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| 会津に入ったが西軍の猛攻にあい、丁度仙台に来航の榎本艦隊に投じて蝦夷地へ渡り、 |
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| 周辺の征服と共和国設立に参加。 |
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| 明治二年、新政府軍が海陸から大挙して反撃、蠖伸斎は四月二十九日、五稜郭外の矢不 |
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| 来で戦死した。享年三十。墓は北海道亀田郡大野町光明寺。 |
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| 慶応四年三月六日の甲州勝沼戦に敗れた甲陽鎮撫隊は四散し、永倉新八、原田左之助は |
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| 近藤勇からその一集団を任され撤退、八王子で解散し、十日頃には落ち合うと約束した |
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| 本所二つ目の大久保主膳正邸に三十余名が集合した。しかし近藤が現れず永倉たち十名 |
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| を残して多くが立ち去った。永倉は残った者で会津行きを決意、浅草今戸八幡に住む幕 |
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| 府医師松本良順を訪ね軍資金借用を申し入れ、新吉原金瓶大黒に乗り込み二十余名の離 |
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| 散隊士たちを説いて一任を受け新組織を結成した。当時近藤勇は下谷和泉橋通りの医学 |
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| 所におり、永倉らは近藤や土方も説き入れようと翌朝には訪ねて賛成を求めたが、近藤 |
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| がそれは私議であるとして加盟を断った。すでに新選組再編成への準備を進めつつあっ |
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| た近藤からみれば永倉らの行動は軍律違反、永倉の立場からすれば甲陽鎮撫隊敗戦後、 |
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| これだけの隊士をつなぎとめ尽力した事を否定され心外であったと考えられる。こうし |
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| て試衛館以来の旧知であり、新選組結成からの同志が袂を分かつ事になった。医学所を |
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| 訪ねた三十余名のうち、新選組に復帰する者、離散する者に分かれ、数名が永倉・原田 |
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| らの募った精共隊に加わり野州、奥州に転戦した。 |
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| 新選組隊士中島登が、箱館戦争降伏後は青森の蓮華寺に謹慎、明治二年十月二十四日に |
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| 箱館弁天台場に移され翌三年四月初めまでの謹慎中に、戦友たちの姿絵を描き、その序 |
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| には、時世に押し流され虜囚となった鬱屈と、戦死した同志への追慕と慰霊の気持ちか |
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| ら筆をとったと述べている。 |
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| 内容は開陽艦蝦夷渡海の図に始まり、自画像、局長近藤勇、副長土方歳三、新選組の山 |
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| 口二郎(斎藤一)、荒井破魔男、池田七三郎、菊池央、高田文二郎、粂部正親、伊藤鉄 |
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| 五郎、栗原仙之介、志村武蔵、木下巌、三好胖、漢一郎、鈴木練三郎、乙部剛之進、千 |
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| 田兵衛、蟻通勘吾、津田丑五郎、河合鉄五郎、粕谷十郎、長島五良作、吉田俊太郎、野 |
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| 村利三郎、小窪(小久保)清吉、幕府回天艦長甲賀源吾、箱館奉行並中島三郎助父子、 |
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| 会津藩の原五郎妹女、最後にアイヌ人風俗も付している。描かれたのは会津如来堂、勝 |
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| 軍山、白河口、箱館の戦死者たちで、山口や池田など、生存している事を知らずに死亡 |
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| として描かれている場合もある。一人一人に簡単な解説と、絵は素人ながら刀を握る手 |
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| の内など丹念に描かれ、浮世絵師国芳の赤穂義士の絵に似たものもあり手本とした可能 |
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| 性もある。 |
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| 長く浜松の中島家に保存されていたが、現在は市立函館博物館五稜郭分館に寄贈、収蔵 |
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| されている。学研歴史群像シリーズの「土方歳三」巻頭に二十九枚が所載。 |
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| 虎徹は近江国長曾禰(滋賀県彦根市)に生まれ、初めは武具甲冑師であった。越前国福 |
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| 井に住み五十歳前後で江戸下谷東叡山寛永寺の近くに居住、刀鍛冶となった。名を興里、 |
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| 法名入道虎徹と称す。刀剣としての虎徹の切れ味は試し斬りの名手山田浅右衛門も最上 |
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| 大業物として称賛しており、現在も新刀期のシンボル的な刀であり、実用・鑑賞ともに |
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| たえ、古今の愛刀家にとっては垂涎の的であった。 |
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| 真偽は定かではないが虎徹は新選組近藤勇の愛刀としても有名であり、大坂の豪商鴻池 |
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| から贈られた等の入手方法から明治後のゆくえまで諸説出ている。当の近藤は池田屋事 |
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| 変の後、養父宛の手紙の中で「下拙の刀ハ虎徹ニ候ヤ、無事ニ御座候」と書いている。 |
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| 八王子千人同心で蘭方医の秋山佐造義方が、八王子で近藤に面会した時に虎徹を見て感 |
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| 激したといい、二つの漢詩を作って近藤に贈り、現在「虎徹之詩」として町田市小野路 |
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| の小島資料館に所蔵されている。(両雄実録「血涙集」) |
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| 咏虎徹所製ニ刀以呈近藤先生 秋山義方 |
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| 両剣霜威海内驚 知他鉄冶究研精 |
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| 英雄佩得無人数 虎吼龍鳴護帝京 |
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| もう一つの詩中には「二百五十年間太平ニ過ギ、宝刀匣ニ在リ未ダ使ハレズ。コノ宝刀 |
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| ハ永キ間富商ノ庫ニ秘蔵サル丶(中略)雄剣(大刀)稍小ヨク研ガレ長大マサニ百錬サ |
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| レ、コレ虎徹ノ打ツタ雌雄ノ刀ナリ」とある。 |
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| 別に刀剣の書(二)を参照の事。 |
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| (文化六・十一・十一〜明治二十一・六・十二) |
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| 公家。山城京都出身。子固。過激派で知られる七男・中山忠光の父であり、また次女の |
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| 慶子が祐宮こと後の明治天皇を産んでおり外祖父兼養育掛でもある。岩倉具視の方法を |
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| 追認することが多く、安政五年の日米修好通商条約には反対し関白九条尚忠排斥運動に |
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| 加わったが、和宮降嫁による公武合体策には反対から賛成派に変わって御用掛を務め、 |
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| 尊攘派から激しい非難を受けた。しかしその後、長州藩に理解を示し、元治元年七月の |
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| 長州兵上洛に尽力した事から禁門の変後は逼塞させられる。 |
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| 中山家では、息子の忠光が勤皇家の田中河内介や土佐の武市半平太らの影響を受け、公 |
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| 武合体派(当時は岩倉具視ら)公卿の天誅を計画して父忠能にとどめられた後、文久三 |
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| 年の天誅組挙兵の主将となって敗走、元治元年十一月に逃亡先の長州で刺客に襲われ、 |
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| 弱冠二十歳で死去している。 |
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| 父の忠能は慶応二年十二月に処分が解かれてからは、岩倉らと共に王政復古の策謀に邁 |
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| 進。慶応三年一月に孫の明治天皇が即位する。忠能の日記等には新選組に関心を示す記 |
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| 事が散見され、同年四月に隊士「入崎丞」「田中一」と名乗る者の面会を追い返したと |
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| 記述している。同年十月、討幕の密勅に暗躍、十二月の王政復古で議定に任ぜられ、維 |
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| 新後も明治新政府の要職を歴任、皇太子時代の大正天皇の養育掛も務め、長寿を得て没 |
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| した。享年八十。墓は東京都文京区大塚五丁目の豊島ヶ岡墓地。 |
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| (北海道亀田郡七飯町) |
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| 七重村は飯田村と合わせて七飯村となり、今は七飯町である。明治元年、峠下で新政府 |
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| 軍を蹴散らした旧幕府軍は、十月二十三日、南下して藤山村でも敵を圧し、峠下の仮陣 |
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| 営で協議、二十四日、さらに分進南下を計画、一団は新選組、遊撃隊、工兵隊などで七 |
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| 重村へ、一団は大鳥圭介隊として大野村へ進む。七重村では四百五十人余の新政府軍が |
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| 山地三段に分かれて攻撃を仕掛け、旧幕軍は大苦戦した。退却しようとの意見に対し、 |
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| 遊撃隊頭取大岡幸次郎が斬り込みを主張。新選組の三好胖(肥前唐津藩小笠原家十代藩 |
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| 主の四男)ら数名が同意、林の中から躍り出、白刃を振るって縦横に斬り込みをかけた |
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| ため新政府軍が動揺、そこへ旧幕軍後続の兵が駆けつけたため、新政府軍は南走した。 |
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| この戦いで大岡、三好、唐津出身の隊士小久保清吉(清七とも)他が戦死。三好の遺体 |
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| は七重村の宝林庵で埋葬されたと伝わる。 |
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| 新選組三局長の一人新見錦が祇園の貸座敷「山緒」で遊興中、近藤派の隊士に踏み込ま |
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| れて罪状を列挙され強引に詰め腹を切らされた、という話がいつのことであったかは判 |
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| 然としないが、同時代の名簿に、新見と入れ替わるようにして名を現し、芹沢派の一人 |
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| で近藤の意に反し処断されたと伝わる「田中伊織」が同一人物とも考えられ、壬生寺に |
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| ある田中の墓に刻まれた文久三年九月十三日が新見切腹の日と見ることが出来る。芹沢 |
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| 派の一斉粛清が九月十八日(十六日と推定)に計画されたのに対しなぜ新見のみ別途で |
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| 先に処分されたかという理由も不明だが、新見は意外なほどに芹沢と一緒には行動して |
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| おらず、同じ神道無念流水戸出身という経歴から芹沢派の一人ではあっても、純然たる |
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| 芹沢の同志とはいえなかった可能性もあり、自身に処分相当の理由が発生していたとも |
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| 考えられる。 |
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