新 選 組 大 事 典
(不詳〜明治二・一・十六) |
旧名市川宇八郎。元松前藩士。芳賀家の養子になり幕臣。永倉新八の親友で一緒に武者 |
修行をした仲。身長六尺、膂力に優れ剣術、柔術に練達。 |
慶応四年三月、新選組を離れた永倉と原田左之助、矢田賢之助らと図って深川冬木弁天 |
境内で靖共隊を結成、隊長に推される。旧幕諸隊と共に小山、安塚、宇都宮、今市など |
を転戦。八月、西軍が会津若松城下に来襲の折、米沢藩士の志士雲井龍雄に出会い、米 |
沢へ援軍要請のための同行を勧められ、靖共隊を会津藩に託して永倉と共に従う。しか |
し米沢藩が降伏して挫折、十二月に永倉と東京に戻り、浅草三軒町の妻のもとに隠れた。 |
翌月冬木弁天を訪ねる途中で、妻の実兄で新政府に仕える藤野亦八郎と出会い酒の喧嘩 |
となり、藤野の部下に斬殺された。墓は東京都北区滝野川七丁目の寿徳寺境外墓地。 |
(神奈川県横浜市戸塚区平戸町) |
相州鎌倉郡平戸村の直心影流師範、萩原連之助の道場跡。現在は取り壊され残っていない。 |
萩原は優れた剣客として東海道で有名であった。安政五年九月、近藤勇が剣術試合でここ |
を訪問したが、十三代将軍家定が亡くなり鳴り物停止期間中のため試合は出来ず、その旨 |
を萩原の英名録に記して帰った。萩原は明治二十八年十月、京都平安神宮に於ける大日本 |
武徳会成立記念の武道大会に六十八歳で出場。三百人の剣士のうち、技量卓抜で十五人の |
一人として精錬之証を授かった。 |
(岩手県宮古市藤原三丁目) |
明治二年三月二十五日、官軍軍艦甲鉄奪取の奇襲をかけた旧幕軍艦回天との宮古湾海戦 |
の後、旧幕軍士官と思われる首なしの死体が藤原須賀の海岸に漂着。土地の大井要右衛 |
門が、常安寺管理の藤原観音堂脇に埋葬し、明治九年三月二十五日、岩船豊吉が墓石を |
建立した。戒名は「忠岳義剣居士」。同寺の過去帳にも記録があり、昭和五十四年には |
「幕軍無名戦死の墓」と来歴紹介の石碑が建てられた。漂着した遺体は、戦死の伝わる |
新選組の野村利三郎か、一等測量の大塚波次郎ではないかと言われるが判明していない。 |
慶応三年六月、新選組の文久三年以来の働きに報いる為、松平肥後守(会津藩主容保) |
の申し立てにより隊士一統が幕臣に取り立てられた。一般に六月十日付の授与と記録も |
伝わるが、板倉伊賀守から六月二十三日付で発給された文書の写しもありこの間の事情 |
は不詳。 |
・局長 近藤勇……見廻組支配頭格、将軍拝謁を許される「御目見以上」を授かる。 |
・副長 土方歳三……見廻組肝煎格 |
・副長助勤 |
沖田総司、永倉新八、井上源三郎、原田左之助、山崎烝、尾形俊太郎……見廻組格 |
・調役 |
吉村貫一郎、大石鍬次郎、安富才助、岸島芳太郎、安藤勇次郎、茨木司、 |
村上清、谷周平……見廻組並 |
・平同士・仮同士(八十九名)……見廻組並御雇 |
箱館の新選組は仙台出帆直前に編成された時に始まり、島田魁日記に「当隊二十余、然 |
るに桑名、唐津、板倉の三藩六十余人、伝習隊三十余人当隊に加入す」とあり百二十人 |
前後と解される。蝦夷地平定により新選組の総帥土方歳三は陸軍奉行並となる。陸軍は |
四個の連隊編制をとり、新選組は第一連隊第二大隊四番小隊・五番小隊として箱館市中 |
を守備地とする。明治二年一月十五日、陸軍隊から長を青山次郎として兵士二十人・歩 |
卒四人、彰義隊からも兵士八人、計三十二人の大量加入があった。 |
編制は隊本部・会計方・二個小隊の四個分隊となっている。 |
土方が陸軍奉行並に就任した関係から、その補佐役としての出向者は、 |
・陸軍奉行添役……大野右仲、安富才助 |
・同添役介……野村利三郎 |
・土方付属……市村鉄之助、玉置良三、沢忠助、松沢乙三、立川主税、田村銀次郎ら |
・裁判局付属…五十嵐伊織 |
降伏前の編制は次の通り。 |
◆新選組隊本部 |
隊長…相馬主計、改役…森常吉、頭取…島田魁・角谷糺、 |
差図役…山形時太郎・指田竹二郎、同並…石井勇次郎、同下役…成合清・天野十郎 |
◆第一分隊 |
差図役…青山次郎、饗導役…粕谷小十郎、西脇源六郎、西脇乾次郎 |
隊士……松井徳三郎ら十三名 |
◆第二分隊 |
差図役…尾関泉、饗導役…佐久間顕輔、中島登 |
隊士……明石覚太郎ら十七名 |
◆第三分隊 |
差図役…山本知文二郎、饗導役…佐久間銀太郎、阿部隼人 |
隊士……吉屋丈之介ら十六名 |
◆第四分隊 |
差図役…谷口四郎兵衛、饗導役…前場喜司馬、横倉甚五郎 |
隊士……大河内太郎ら十五名 |
◆会計方 |
改役下役会計頭取…青池源太郎、隊士…山崎八蔵ら五名、兵卒・甚太郎ら十一名 |
計十七名が輜重方を兼ねる。「輜重」は前線に送る軍需品。 |
明治元年十二月十五日(諸説あり)蝦夷を平定した旧幕軍は、士官以上の投票によって |
閣僚を選出した。開拓奉行となった沢太郎左衛門の記録によると、正・副総裁と海・陸 |
軍奉行はそれぞれに投票され、榎本、松平、荒井、大鳥が一位当選で選出とされる。 |
得票数と決定した役職は次の通り。 |
榎本武揚(百五十六票)・総裁 松平太郎(百二十票)・副総裁 |
永井尚志(百十六票)・箱館奉行 大鳥圭介(八十六票)・陸軍奉行 |
松岡四郎次郎(八十二票)・江差奉行 土方歳三(七十三票)・陸軍奉行並 |
荒井郁之助(不明)・海軍奉行 |
ただし、荒井の名前がこの投票結果に見られないことから、選挙は疑問視する声もある。 |
(北海道函館市) |
明治二年四月、北海道南西部海岸に上陸した新政府軍は旧幕府軍を圧して東部へ敗走さ |
せ、五月十一日を箱館総攻撃の日と決め、海陸挟み撃ちを計画、実行した。当時、箱館 |
は新選組、伝習士官隊、砲兵、工兵など三百余名が守っていた。当日、新選組は一小隊 |
が弁天台場、半小隊が箱館山背面の寒川の守備についていた。新政府軍は未明に上磯沖 |
を出船、夜明け頃、箱館山背後から上陸。守備の新選組は抵抗を試みたが、二箇所から |
の挟撃と多勢に無勢で抗しきれず、街の新選組と共に弁天台場に逃げ込んだ。箱館奉行 |
の永井尚志以下の兵も弁天台場に逃げた。戦闘は朝から各所に及び、五稜郭北方の四稜 |
郭、権現台場も陥落。土方歳三は五稜郭から出陣し、一本木関門の守備に当たっていた |
ことが目撃されているが、交戦中に戦死した。この戦いで新政府軍は蝦夷の首都ともい |
うべき箱館を掌中に収め、旧幕軍は数日のうちに降伏、十八日の五稜郭開城をもって戊 |
辰戦争の終結をみた。 |
(北海道函館市元町十二番の一帯) |
箱館戦争の際、旧幕軍の箱館奉行所は、かつて徳川幕府の奉行所であった箱館山山腹の |
建物をそのまま利用して置かれた。今の基坂を登った突き当たりで、現在は元町公園に |
なっている。 |
明治元年十二月、蝦夷を平定した旧幕軍はアメリカ合衆国の制度を真似て入札(投票) |
を行い、各役職を決めて仮政庁を樹立。当時の箱館市街とは今の若松町以西であり、以 |
東は亀田であり、五稜郭も亀田村の中にあったので、五稜郭を本営とし、箱館奉行所は |
分営ということになる。 |
入札の結果、総裁榎本武揚、副総裁松平太郎、海軍奉行荒井郁之助、陸軍奉行大鳥圭介、 |
陸軍奉行並土方歳三、等全体の要職の他に、地方の首長として箱館奉行永井尚志、箱館 |
奉行並中島三郎助、江差奉行松岡四郎次郎、松前奉行人見勝太郎、等が選出され、箱館 |
奉行が箱館市街を掌握した。 |
(文化十三〜明治八・一・十二) |
名は良成。大坂東町奉行与力。元治元年五月二十日の夜、大坂天神橋に於いて近藤、土 |
方ら新選組に斬殺された、といわれる大坂西町奉行与力内山彦次郎之昌の斬奸状に「八 |
田は内山と同腹の者ゆえ、態度を改めなければただちに誅戮加えるべく候」という内容 |
が記されていた。墓は大阪市北区長柄中町の市立北霊園、戒名は徳章院神応良成信士。 |
(生没年不詳) |
京都島原の太夫の名。文久三年十一月下旬、土方歳三が小野路村名主小島鹿之助宛に出 |
した手紙に書かれている。(君菊の項を参照) |
往時の島原の遊女には太夫、天神、端女郎、鹿恋(囲い)、引舟という位付けがあり、 |
太夫はその最高位で、諸芸、教養を身につけ格式高いものとされていた。花君太夫の出 |
自、年齢、抱え元、その後の消息などは不明。 |
(嘉永元〜不詳) |
新選組原田左之助の妻。まさ子。仏光寺の町人菅原某の娘で、慶応元年夏頃に原田と結 |
婚し、醒ヶ井通七条下ルの釜屋町に所帯を持った。翌年に長男の茂が誕生。慶応三年十 |
二月十七日、次男を産むが七日間で死亡し「禅雪童子」と戒名をつけ葬る。当時、夫の |
左之助は鳥羽伏見の戦いに向けて出陣し留守であり、開戦の頃は従兄の井上新兵衛方や |
知人宅に避難していたが、戦後は数度にわたって薩摩、長州、土佐の尋問を受けた。茂 |
は後に新兵衛へ養子に出されている。明治になり、江戸で新選組を離脱した岸島芳太郎 |
が京都を訪れ、原田の死亡と戒名を伝えたという。マサは八十三歳まで存命し、作家の |
子母澤寛へ談話を残しているが、その後の消息は不詳。 |
元治二年一月二十五日、見廻組が出動、武装して朝廷に見方すると標榜していた佐々木 |
六角源氏太夫の一統捕縛に向かい、佐々木ら十四人を捕らえた。翌々日、その同志が大 |
坂の旅宿播磨屋庄兵衛方に多数潜伏、との情報に、新選組隊士三十人ほどが出動し、二 |
十三人を捕縛。手向かった鈴木四郎(二十六歳)が斬殺された。 |
(生没年不詳) |
屋号を加嶋屋といい、幕末期の大坂商人。会津藩邸や桑名藩邸に出入りし、経済面での |
御用達をしていたと思われる。新選組にも融資を行っており、次のような証文が確認で |
きる。 |
借用申込一札 |
一 金弐百両也 月利息四朱 |
右金子要用差支前書 |
金子借用申処実正也 |
来辰三月晦日限元利共 |
返済可致者也 |
慶応三 |
卯九月 近藤勇(印) |
樋口重郎兵衛殿 |
(日野市石田六十) |
土方歳三の生家は、もとは石田寺(土方家の墓がある)の裏手に建っており、歳三はそ |
こで生まれた。しかし、天保十一年に河川の氾濫があり、生家も水に浸かってしまった |
ので、現在の場所に移った。平成二年、建物は改築され幕末の面影は失われたが、玄関 |
横には新たに資料室が作られ、歳三の遺品を収め、「土方歳三資料館」として第三日曜 |
日の午後一時から四時に限り一般公開している。資料室の造作には、生家のもとの家屋 |
を支えていた柱が用いられている。また、歳三手植えの矢竹が今も見られる。 |
京王線高幡不動駅より徒歩またはバスか多摩モノレール。 |
元治元年一月十日付の土方歳三から祖母の生家日野の平忠右衛門、作兵衛親子宛の年賀 |
状に付された、自筆の幕軍布陣図。この年、上洛する将軍家茂の警備のため、新選組も |
一月二日に下坂。六日に家茂の大坂入港を迎え、十五日の上洛とともに帰営した。土方 |
はこの間の十日に、将軍警備陣の布陣図を描き添えて、郷里へ誇らしげに送っている。 |
会津藩家老神保内蔵助陣所など五ヶ所の友軍陣地に、人数と目印の白旗を記し、さらに |
持ち場の安治川川口付近に「松平肥後守御預 新選組百人」とし、旗には誠の文字を記 |
入している。しかし、この当時の在隊者は六十名程度と考えられ、土方の報告にある数 |
字は信じ難い。なお、本図の他に土方の描いたイラストは発見されていない。 |