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| 現在、土方歳三の写真は上半身像と座像の二ポーズ二枚ずつ、計四枚が確認され、土方 | 
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| 生家、佐藤彦五郎子孫宅に各一枚、縁戚の平忠兵衛子孫宅に上半身と座像各一枚が保管 | 
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| されている。服装や髪型から、二種類の写真は同日に撮影されたものと推測される。土 | 
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| 方家への到来は不明、佐藤家には土方の小姓市村鉄之助が持参したと伝わり、平家は土 | 
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| 方の形見分けによる、と伝わる。 | 
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| 写真のサイズは名刺より一回り小さく、座像写真の右側には、拳銃ケースと思われるも | 
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| のが写っている。よく参照される楕円形の縁取りがあり、目もと等がはっきりした写真 | 
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| は複写修正が施されたもので、真影ではない。 | 
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| 撮影は箱館で写真館を開いた田本研造によるものと言われるが、証明はされていない。 | 
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| 土方が洋装断髪にしたのは甲陽鎮撫隊出陣以前のことであり、それ以後の撮影である事 | 
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| は確かである。明治二十一年、新選組の久米部正親の持参した写真を川村三郎が複写、 | 
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| 永倉新八に送った話があり、久米部は慶応四年三月に会津へ先発、会津戦争中には土方 | 
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| 隊から離脱しているので、撮影が会津行き以前に行われた可能性もある。近藤勇の写真 | 
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| 撮影と同じく、甲陽鎮撫隊出陣前の出征写真として、二月頃の江戸で写したという事は | 
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| 考えられる。 | 
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| 昭和三年、子母澤寛が取材した八木為三郎翁の談話「隊中美男五人衆」が根拠。皆二十 | 
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| 歳前後の青年であり、美男といっても若衆という印象で、子供心にもそれぞれの美しさ | 
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| が記憶に残っていたのかもしれない。五人の隊士は全て文久三年の隊士名簿に見られる。 | 
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| ただし、下記それぞれの逸話には芝居がかった表現があり、創作部分もあると思われる。 | 
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| ・楠小十郎……長州藩の間者として屯所門前で原田左之助に斬殺される。 | 
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| ・馬越三郎……武田観柳斎から執拗に男色を迫られ避けていたところ、武田の薩摩内通 | 
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| を察知して土方歳三に密告、隊中で孤立したため土方の計らいで脱退、商人になって明 | 
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| 治後の壬生を訪れた。(「武田観柳斎の殺害」を参照の事) | 
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| ・山野八十八……京都在隊中に土地の娘と恋仲になり一女を設け、箱館戦争まで転戦し | 
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| て戻り、芸者になっていた我が子と再会、楽隠居の晩年を送った。 | 
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| ・佐々木愛次郎……佐伯亦三郎の罠に落ちて、恋人あぐりと駆け落ちし、佐伯や芹沢派 | 
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| の隊士に殺害され、女も後を追ったという。 | 
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| ・馬詰柳太郎……父親の信十郎と共に入隊したが気弱で隊になじめず、壬生の子守り女 | 
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| を妊娠させたと流行唄でからかわれ、いたたまれず父子一緒に脱走。 | 
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| (不詳〜明治二十五・十・三十一) | 
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| 高木氏。大坂の代表的両替商で、今橋一丁目に店を構え、代々五兵衛を称したので「平 | 
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| 五」と略称した。九代目五兵衛の頃の文久三年四月二日、新選組の芹沢鴨、近藤勇、新 | 
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| 見錦、土方歳三、沖田総司、永倉新八、野口健司の七名が平野屋を訪れ、金子借用を求 | 
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| めた。番頭は奉行所へ助けを求めたが穏便に話し合えと返され、やむなく百両を用立て | 
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| た。この金でだんだら染めの新選組隊服が作られたとされる。翌元治元年十二月、近藤 | 
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| が大坂の豪商二十二家から銀六千六百貫(金七万一千両)を借用した時には、平野屋は | 
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| そのうち三千七百両余を出している。その後も新選組との関係は続き、慶応四年一月六 | 
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| 日、大坂城内で療養中の近藤から差し向けられた島田魁、尾関泉の二人を通じ八軒家で | 
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| 休陣中の新選組へ炊き出しを命じられている。平五一族の墓は大阪市天王寺区餌差町の | 
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| 西念寺にある。 | 
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| (天保元〜明治二十四・二・五) | 
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| 会津藩士、会津若松出身。安任。牧老人。藩校日新館で学び、江戸の昌平黌に入る。 | 
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| 文久二年藩主松平容保に従い上洛、藩の公用方として、新選組とは深い関わりを持った。 | 
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| 文久三年九月二十三日付、広沢及び同役の大野英馬が連名で、近藤勇の実兄宮川音五郎 | 
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| ら多摩の後援者たち五名宛に書簡を書いており、近藤は養父周斎の病気見舞いの為に帰 | 
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| 郷したがっているが、職務多忙であり新選組一同にとって近藤を帰すわけにはいかない | 
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| ので、親子の情は察するが留守を宜しく頼む、と丁寧に情実を尽くしている。 | 
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| なお、「新選組始末記」では広沢らを藩の重役と書いているが、公用方は公用人の下役 | 
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| であり重役とは言えない。維新後、広沢は会津藩士の移された斗南藩の少参事となって | 
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| 旧藩士たちの救済と原野の開拓に尽力。しかし廃藩となり、その後は牧畜に従事し、官 | 
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| 途に就かなかった。享年六十二。墓は青森県三沢市の谷地頭にある。 | 
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| (生没年不詳) | 
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| 幕臣。神奈川奉行所に定役として勤務。近藤勇の養父周斎の門人で、天然理心流の腕も | 
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| 相当に立ち、人柄は親切で近藤勇を父のように尊敬したという。文久三年、近藤一門の | 
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| 上洛に際して道場の世話役の一人となり留守を預かった。慶応三年十一月、周斎の葬儀 | 
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| に参列、翌四年二月、勇の依頼で妻ツネと娘タマを本郷村成願寺に移し、近藤の牛込廿 | 
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| 騎町の家を譲られた。同月甲陽鎮撫隊に加わり、三月五日、西軍の甲府入城を知った勇 | 
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| の命で話し合いに赴くが途中で発砲を受け帰陣。鎮撫隊は福田の伝手で神奈川警備の菜 | 
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| 葉隊の応援を期待したが不可。四月初旬、近藤勇が西軍に捕らわれ、板橋に監禁されて | 
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| いる事を成願寺の家族に知らせ、十四日には勝海舟を訪ねて救護を懇請した。同年、府 | 
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| 中定役となり駿府に移住したが、間もなく神奈川県庁の役人になったという。 | 
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| 明治元年十一月五日、土方軍による蝦夷地福山城(松前城)の攻略が行われた。この日 | 
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| 土方軍は松ヶ崎、及部川で戦闘後、法華寺台地を占拠した。指揮官の土方は、この台地 | 
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| から直下の築島砲台(城下で最新の威力を持つ砲台)を砲撃すると共に、彰義隊を城の | 
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| 正面に配備、額兵隊、陸軍隊を背面に迂回させ、直ちに攻撃を開始した。また、海上か | 
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| らは回天、蟠竜の二軍艦が陸兵と呼応して城を砲撃した。 | 
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| 松前軍は城の搦手門を死守し、門の内側に野戦砲を並べ、弾薬を装填してから門を開き、 | 
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| 発射してすぐに門を閉める、という作戦をとり、時間のかかる砲撃の不利を補っていた | 
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| 為、容易に攻め込めなかった。これに対して土方軍は額兵隊から二十人余の狙撃兵を選 | 
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| 抜、城門の近くに潜伏させ、門の開くのを待った。松前軍がまた門を開いて野砲を発射 | 
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| しようとした瞬間に、狙撃兵が一斉に砲手をめがけて射撃し、大砲方数人が戦死した。 | 
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| 狼狽した松前兵は咄嗟に門を閉める余裕もなく、城内に逃げ込んだため、土方軍は一斉 | 
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| に抜刀して城内に攻め入り、白兵戦となった。 | 
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| 松前藩では、藩主松前徳広ら一行がすでに館の新城に避難して留守であった為、兵は戦 | 
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| 意を失い、同日夕刻に福山城は落城。敗退した松前兵は城下の民家や寺院などに火を放 | 
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| ち、城下の三分の二を焼いて江差方向に敗走した。 | 
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