(愛知県岡崎市本宿寺山一丁目) |
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大宝元年、行基の開基で徳川家由縁の末寺。近藤勇の首塚とされる石碑台座が伝わる。 |
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寺伝では、慶応四年閏四月十一日、京都の三条制札場に梟首された近藤の首級を、旧隊 |
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士たちがひそかに持ち去り、新京極裏寺町に常住で近藤の知己の称空義天和尚に埋葬を |
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依頼。義天はこれを快諾、その後法蔵寺三十九代貫主として転任したため、近藤の首を |
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同寺に埋葬、供養したという。依頼した隊士が斎藤一であるとも伝わっている。埋葬時 |
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に建立されたといわれる石碑の台座が昭和三十三年に境内から出土、そこには土方歳三 |
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を筆頭に十名の伝習隊士の名が刻まれ、現在同寺境内に近藤勇の胸像と共に祭られてい |
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る。台座末尾には内山勝行という建立者の名と「慶応三辰年」との建立年とされる文字 |
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が刻まれ、近藤の没年(慶応四年の辰年)と一致せず論議を呼んでいたが、昭和六十年 |
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頃に欠損し、現在年記のみ判読不明。土方以外に刻記された十名は新選組とは無縁であ |
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り、この台座は彼ら十一名の慰霊碑として作られた可能性が強い。法蔵寺には近藤の過 |
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去帳、位牌、境内出土の近藤佩刀と伝わる古刀も蔵されている。 |
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戊辰戦役中、会津藩境の一つ母成峠の守備に当たっていたのはおよそ八百名。隊長土方 |
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歳三、副隊長山口二郎以下七十名ほどの新選組隊士、会津藩兵、旧幕府伝習隊、二本松 |
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藩兵、仙台藩兵、唐津藩兵、高田藩兵などである。 |
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一方の西軍(官軍)は八千名で、二本松城を落城させ会津若松城攻撃に向かっていた。 |
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西軍は土佐の板垣退助や薩摩の伊地知正治らが作戦を練り、母成峠〜猪苗代を経由して |
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若松に入る湖北ルート(薩摩・佐土原・大村の藩兵)と、御霊櫃峠〜中地・三代を経由 |
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して若松に入る湖南ルート(長州、土佐、大垣の藩兵)の二手に分かれたが、十九日に |
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なって急遽、湖北ルートに絞って全勢力を投入することに決し、前進する。 |
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東軍は湖南ルートが有力と考え、主力を備えていたのが裏目に出てしまったことになる。 |
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この母成峠付近は国境であるだけに東軍は陣を石筵、将(勝)軍山、母成峠と三陣に構 |
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えて射撃に良好な地を選び、竹矢来を組んで五門の砲を備え、控兵の休息小屋、糧食庫、 |
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弾薬庫なども急造して長期持久戦に備えていたのだが、陣地が広大なのに対して守備兵 |
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が少なすぎ、大鳥圭介自身が「防ぐに甚だ難渋なり」と嘆いている。また、峠の東方に |
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は防御第三陣よりやや小高い台地があるなど弱点もあった。慶応四年八月二十日(二十 |
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一日早朝とも)、大山弥助の作戦により三方から母成峠に攻撃してきた西軍と東軍が激 |
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突、数の上でも圧倒的な西軍が二十一日には東軍を破った。母成峠の戦いによる東軍全 |
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体の死者は合計百名以上に及んだ。 |
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この戦いで新選組は六名の戦死者を出して四散し、土方が「兵を全て差し向けられたい」 |
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との急報を会津藩に書き送ったがかなわず敗退、滝沢、天寧寺を経て仙台へ出発する組 |
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と、山口二郎ら会津に残留して如来堂の戦いに参加する組に分かれることになる。 |
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文久三年二月十日、浪士隊上洛の途中、児玉郡本庄宿(現・埼玉県本庄市)の路上で、 |
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芹沢鴨が激昂して大篝火を焚いたという事件。永倉新八の遺談にのみ見られる。同月十 |
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五日、宿舎や往来で火の用心を慎むようにという旨の浪士隊取締役名での通達書が残っ |
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ており、芹沢が翌十六日に小隊長から小隊取締役に転出していることから、事件は本庄 |
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宿でなく十四日夜宿営地の下諏訪で起きた可能性が強い。 |
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伝承によると、上洛当初、先番先役として隊士の宿割りなどにあたった近藤勇が、本庄 |
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宿で芹沢鴨小隊の宿舎手配を忘れたため、芹沢が激怒し、野陣を張るとして配下の隊士 |
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たちに路上で大篝火を焚かせた。芹沢は近藤の陳謝や宿役人の説得にも承服せず、さら |
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に自分を浪士隊一番隊の隊長に栄転させるよう恫喝するなど、傍若無人の行動をとった |
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という。この時芹沢の小隊には土方歳三ら試衛館派も在隊しており、彼らが芹沢に同調 |
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した可能性もある。 |
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(兵庫県姫路市亀山三二四) |
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霊亀山本徳寺といい、西本願寺の別院。歴史は古く、寛正三年飾磨区英賀御坊に始まり |
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天正八年現地に移されて以来四百年余の歴史を持つ山門、茶所、太鼓堂、裏門などの他 |
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六千坪の境内にそびえる本堂及び大広間と付属の建物は明治維新の後、京都から解体・ |
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移築されたもので、もと西本願寺の北集会所であり新選組屯所であった建物という。 |
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本堂は百六十畳敷きで、慶応元年春から同三年春まで新選組屯所に使われた西本願寺北 |
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集会所であり、近年の部分調査の結果、移築の跡が明らかになった。また、庫裏と本堂 |
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の間にある大広間は百二十畳敷きと中陣の仕切り欄間の彫刻が見事であり、その裏手の |
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表書院は別棟で、十畳と八畳の部屋が二列に十ほど並んでいる。大広間と表書院は新選 |
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組の新築した不動堂屯所の移築であると言い伝えられているが、まだ確証が発見されて |
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いない。 |
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