伍長、調役兼監察、軍監役 |
文政十一年(1826)一月十五日濃州厚見郡、元徳川家青木孫太郎知行所の近藤 |
伊右衛門の次男として生まれる、諱は義明。父は、木曽川の氾濫により、御用材木を |
流失した責を負って自刃。母も自害した。外戚永縄家や川島家の養子になるが、29才の |
安政三年、江戸牛込御門内留守居町の御家人で、心形刀流の師範坪内主馬の門人となり、 |
永倉新八と出会う。その後入洛し丹波屋定七方の入婿となるが、大垣藩島田歳に望まれて |
養子となり家督を継ぐ。文久三年に脱藩し、京浪士隊の最初の募集に応じ入隊する。 |
新選組当時の記録によれば、島田甲斐と書かれていた書類があり「かい」と呼ぶが、 |
維新後に改名して「さきがけ」と呼んだ。隊一番の巨漢だが、探索方として池田屋事件に |
奔走。討入りにも参加して、褒賞金十七両を受けている。慶応二年の三条制札事件や、 |
三年の油小路事件も参加しており、暗殺にも加担し、小林桂之助殺害にも加担と伝えられている。 |
鳥羽伏見の戦いでは、奉行所の塀を登れないで助けを求める永倉に、巨漢の島田が、片腕 |
のみ、槍で引き上げるという逸話も残っている。 |
甲州勝沼の戦いから会津戦争、函館戦争にも加わり唯一、池田屋事件の参戦者として箱館 |
戦争からの生還者である。箱館戦争では、土方の戦死を知るや戒名の書を晒しに巻いて、 |
大切にしていた。最後まで土方に従った義の漢である。無論、土方戦死時は、弁天台場で |
戦っていたので、最後を看取っている筈はない。 |
彼は生証人として数々の書を残している。島田の「英名録」や「京ヲリ会津迄人数」「島 |
田魁日記」など数知れない。(京都東山霊山歴史館に秘蔵) |
伍長、調役兼監察、軍監役をこなしながら、土方の側近として、箱館まで転戦。明治二年 |
五月十五日弁天台場で軍門に降る。弘前薬王院で謹慎後、名古屋に預けられた。釈放後は |
京都に戻り、西本願寺の守衛を勤め、新政府に出仕することはなかった。 |
明治三十三年三月二十日西本願寺の境内で |
七十三の天寿を全うした。 |
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