富山弥兵衛

とやま やひょうえ


伍長
 
薩摩脱藩浪士。一説によると、新選組の動向を探る為に大久保一蔵が送り込んだ間者とさ
 
れており、脱退後の行動にも思い当たる節がいくつもあるのがわかる。
 
伊東甲子太郎を通じて新選組に入隊し、伍長に任ぜられる。
 
慶応三年十一月油小路の変で、加納道之助、鈴木三樹三郎、篠原泰之進らと虎口を脱出し、
 
薩摩藩に身を置く。阿部十郎らと近藤勇を襲撃し、手傷を負わせるが逃してしまう。
 
慶応四年閏四月二日、越後出雲崎で、會津の探索中、敵兵に訊問されて、逃走を計るが、
 
草生水深田で囲まれて応戦するも五十余ヶ所串刺しにされて、絶命する。
 
 




茨木 司

いばらぎ つかさ


伍長
 
島田魁は、會津の出身としているのだが、阿部十郎は「史談会速記録」では、奥州中村の
 
脱藩と述べている。名は、信忠。義忠、昌業とも称している。慶応三年六月十日の幕府召
 
し抱えで、見廻組並として幹部に名を連ねているが、幕臣として取り立てられるのに新選
 
組を抜ける為に、京都守護職屋敷に新選組離脱願いを申し出たが、受け入られず、四人と
 
共に切腹し果てたとされているが、新選組大石鍬次郎らの手によって斬殺されたという方
 
が信憑性が高い。京都東山の戒光寺の墓碑には「奥州之人茨木司平昌業、慶応三丁卯六月
 
十四日、下立売於會津邸為国事自尽」と刻まれている。
 
 



林 信太郎

はやし しんたろう


伍長
 
永倉新八は、大阪浪士と言うが島田魁は武州の産としている新選組初期の調役であり、伍
 
長でもある。元治元年池田屋事件では、参戦し褒賞金十七両を賜っている。
 
慶応三年六月十日の幕府召抱えでは、見廻組並平士に名を連ねている。副長助勤諸士調査
 
役兼監察の山崎烝とは従兄弟同志とされているが、島田魁の記録を見る限り、山崎烝の徳
 
島と林信太郎の武州では、考えられないのである。
 
元冶元年、池田屋事変では、土方隊に属し、池田屋到着後は屋内で戦い、褒賞金十七両を
 
賜っている。同年十二月の編成では旗役として土方歳三の脇を固めている。
 
鳥羽伏見の戦いを経て、甲陽鎮撫隊の敗走後、永倉、原田の靖共隊に参加して新選組を去
 
り、北関東から会津まで転戦するが、同年八月ごろ、水戸街道での久留米藩兵との戦いで
 
討死する。山崎烝の従兄弟で、明治後期に八木邸を訪ねて山崎烝の水葬を語ったとされて
 
いるが、死亡時期から成立しないのである。これは、明治元年十月二十七日「大政官日誌」
 
で、水戸街道で殺害されていたのが明らかになったのである。恐らく水葬話は子母沢寛の
 
偽構であると思われる。だが山崎烝の本姓が「林」であったことが判明した為に、信太郎
 
が従兄弟だった可能性が残る。
 
 



橋本皆助

はしもと かいすけ


伍長
 
天保六年、大和郡山で生まれる。本名は藤井勇三郎である。新選組では、橋本皆助といい、
 
伊東甲子太郎と同期入隊する。入隊早々、伍長に抜擢され、慶応二年の三条制札事件では、
 
大活躍し、褒賞金十七両を賜っている。慶応三年、伊東甲子太郎らと御陵衛士を拝命し隊
 
を離脱。名を改め水野八郎とし、王事に奔走する。慶応三年七月二十九日、白川藩邸に居
 
を移した。土佐の中岡慎太郎が組織した陸援隊に水野八郎として参加、十月十五日の薩長
 
並びに十津川郷士らの倒幕挙兵の密勅を伊東甲子太郎に報告している。
 
十一月十五日坂本竜馬、中岡慎太郎らが襲撃された時に新選組から潜入している村山謙吉
 
を売った。新選組が、竜馬殺しの下手人扱いされた理由がこれである。
 
中岡亡き後、陸援隊幹部の改組があり、東一番隊伍長になる。その後新政府に仕えて軍曹
 
になったが、明治五年病死する。永倉新八の記載では、伍長橋本皆助切腹と書き残され、
 
古賀茂作「新選組隊士総覧」には明治四年四月十六日に死去。病死もしくは、殺害と記さ
 
れている。
 
 


加納道之助
かのう みちのすけ

伍長
 
天保十年十一月九日、加納伴平宗通の嫡男として相模伊豆で生まれる。文久三年、服部武
 
雄、篠原泰之進、佐野七五三之助ら十二名ばかりで、尊王攘夷を誓い同盟を結ぶ。
 
元治元年、伊東甲子太郎らとともに入洛し、新選組に加盟する。その時の名簿には、加納
 
鷲宅とあるが、新選組再編成の際は伍長、加納G雄となっている。彼は幾度となく名を変
 
えて、伊豆太郎、鷲雄、G雄、鵬雄、政道等と称する。
 
慶応三年油小路の変では、篠原泰之進、富山弥兵衛、鈴木三樹三郎と虎口を脱出し、薩摩
 
藩に身を置くも、安部十郎、篠原泰之進らと近藤勇を襲撃し手傷を負わせる。その後江戸
 
探索方になるも、江州水口で赤報隊に加わる。慶応四年四月四日流山で捕縛された大久保
 
大和が、敵将近藤勇であると看破した。それ以降、薩摩に属して野州並びに奥州に転戦し、
 
會津や仙台では、降伏人調査役を務めた。
 
明治四年開拓使として札幌に赴き、明治十五年、農商務省に勤め、明治十九年民間会社に
 
転じて、明治三十五年十月二十七日に東京、麻布の自宅で没する。
 
■ 御 家 紋 ■
 
 

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