伍長 |
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島田魁の記録に、奥州二本松産とあるが、出羽国由利郡羽広村百姓、阿部多郎兵衛の次男 |
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に生まれる。文久三年六月以降の新選組加盟時には、安部慎蔵を名乗り入隊する。八月十 |
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八日の政変にも出動したが、元治元年池田屋事変以前に脱走したとされる。その後、高野 |
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十郎を名乗って大坂の谷万太郎道場に寄宿、慶応元年一月八日のぜんざい屋事件に谷兄弟 |
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とともに大利鼎吉を討ち取る。その功績と浅野薫の手引きにより、安部信二郎の名前で再 |
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入隊する。後に伍長、砲術師範になるも、伊東甲子太郎らと共に御陵衛士を拝命し、高台 |
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寺党を結成する。 |
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慶応三年十一月十八日油小路の変の際には、巨椋ヶ池へ出かけていた。その後、難を逃れ |
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た篠原泰之進や、鈴木三樹三郎らと共に、薩摩藩に庇護され、十二月十八日には、内海ら |
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と近藤の妾宅で、療養中の沖田総司を襲撃するが、すでに伏見奉行所に出立していたため |
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果せず、市内で近藤勇を発見すると、伏見の薩摩藩邸にとって返し、富山弥兵衛らと、待 |
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ち伏せて伏見街道墨染辺で、近藤勇を射撃し傷を負わせる。鳥羽伏見の戦いでは、薩摩藩、 |
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中村半次郎の隊に属して戦い、赤報隊の結成に盟約を結び、偽官軍事件の難を逃れて、そ |
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の後に奥州まで転戦した。明治二年弾正台少巡察、同五年には開拓使として、札幌に赴く。 |
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以後、農商務省から民営に転じ、札幌の南六条に、北海道果実協会の事務所を開設し、り |
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んご園を開いたと言われている。その後、東京に戻り、明治四十年一月六日下谷において、 |
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病没。行年七十一歳であった。 |
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■ 御 家 紋 ■ |
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伍長 |
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天保十四年五月、江州国友村の出生といわれている。新選組への加盟は、伊東甲子太郎ら |
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と同期の元治元年十月で、伍長に任じられている。慶応三年六月十日の幕府召抱えの義で |
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は、平隊士として名を連ねている。島田魁の「英名録」で江州と記されているが、永倉新 |
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八は、江戸表御用により近藤勇、永倉新八、尾形俊太郎、武田観柳斎と出張し、御用済み |
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のうえ同志として、加盟せしむという一項で御府内浪士伍長近藤芳助、川村三郎と称して、 |
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現存と書き添えられている。横倉甚五郎と中島登は、近藤芳輔と書き、中島の方は、什長 |
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と役付けをしている。また、横倉は、会にて脱走と記載してある。芳助の新選組の事績に |
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ついては「新選組往時実戦談書」なる書簡に詳しいが、慶応四年八月二十一日の母成峠の |
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激戦で、新選組本陣と離れてしまい、米沢藩雲井竜雄の一行に加わり、九月二十七日には、 |
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旧友永倉新八にも出会って行動を共にする。以後、米沢城下に滞在するも、江戸に向かう |
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永倉新八と別れ、蝦夷への渡航を目指しての仙台下りも、捕虜となって江戸送りになり、 |
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静岡に引き渡される。後に許されて、横浜に住む。捕虜になった時点から、新選組は語ら |
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ずに幕臣川村三郎と称す。横浜は住吉町に住み、現在の弁護士にあたる代言人から、明治 |
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二十一年横浜市会議員選挙に当選。以後、市会議員や、神奈川県県会議員などを歴任した。 |
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大正十一年七月五日、横浜滝頭の自宅にて死去する。 |
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伍長 |
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天保十二年四月十七日生まれ。永倉新八の「同志連名記」には、御府内浪士、伍長久米部 |
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正親と記載し、島田魁の「英名録」には、浪花、久米部と記載するも、同人の「京都より |
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会津迄人数」には、粂部と書いてある。慶応元年七月までの京坂における隊士募集に応じ |
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て入隊。同年七月には伊東甲子太郎らとともに奈良潜伏の浪士捕縛に向かい、戦闘となっ |
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て足を負傷した。慶応三年の幕府召抱えでは、平士として見廻組並御雇の格を受け、のち |
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に伍長。鳥羽伏見の戦いを経て勝沼の戦いと参戦し、江戸の今戸から負傷者を会津に移送 |
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する為、先発した。会津では軍目をつとめ、如来堂守備中に襲撃を受けた。横倉甚五郎は、 |
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粂部正親会津にて討死と書き、中島登も、春辰九月五日如来堂にて死すと記し、軍目粂部 |
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とす。さらに同人の新選組絵姿集においては「山城京都ノ産ナリ。新選組ヱ同志シ、会津 |
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二来テ軍監役タリ。辰ノ九月四日、如来堂二テ山口次郎ト共二敵二取囲レ手痛ク働キ同シ |
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ク討死セリ」と書いてあるが、粂部は虎口を脱して「猪野忠親」を名乗って、水戸で転戦。 |
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十月一日の弘道館の戦いに敗れ、玉造から松岸へ上陸するも、高崎藩に降伏。東京で謹慎 |
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後釈放され、新政府の陸軍に出仕した。明治五年少尉、同十二年中尉に昇格。同十九年退 |
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任した。明治四十三年九月二十五日、仙台で、六十九歳の生涯を閉じた。 |
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父親は、大阪天満の与力といわれるが、未だ解明されていない。彼の除籍簿によれば、明 |
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治三年猪野忠五郎絶家再興とある。明治平定後も近藤芳助こと、川村三郎と親交を深めた。 |
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■ 御 家 紋 ■ |
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副長助勤 諸士調査役兼監察 |
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肥後熊本産、山崎烝らと同じく、一次募集で集まった隊士である。沖田、永倉、井上、原田、 |
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山崎と並んで副長助勤の大幹部である。学の才にも長、武田観柳斎や毛内有之助らと文学教 |
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授方となる。元治元年、池田屋騒動の後、江戸へ隊士増員の為に下る際に近藤、永倉、武田、 |
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藤堂らと共に下っている。伊東甲子太郎参加後の役割は、山崎、篠原、新井、服部、芦屋、 |
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吉村ら六人と一緒に諸士取扱役兼監察役になっている。慶応三年六月十日、幕府召抱えの義 |
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では、見廻組格を受ける。大目付永井主水正の広島出張に、近藤、伊東、武田らと同道し、 |
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二度目の出張にも近藤、伊東、篠原らと共に西下している。鳥羽伏見の戦いを経て、江戸に |
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帰還後、甲州勝沼から、会津までを転戦するが、会津戦争中に離隊。会津三代の正福寺に、 |
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松本喜次郎とともに「尾形」という隊士の墓もあったという伝承があるが、同一人物かは、 |
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不明。横倉甚五郎の記載には、会城二残ル、とある。 |
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局長、副長 |
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常州水戸の脱藩者で、天保七年に生まれる。局長筆頭芹沢鴨と、同門の神道無念流、岡田 |
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助右衛門の門人。免許皆伝である。水戸天狗党の同門でもある。文久三年二月の上洛の際 |
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は、二十八歳で三番組小頭となり、沖田総司の義兄林太郎や井上源三郎らを引率した。清 |
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河八郎らの帰東に際して、芹沢、近藤と京に残留して、新選組母体である、壬生浪士の三 |
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番目の局長として役に就も、以後は副長職に降格になったことが、書簡にて読み取れる。 |
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文久三年四月には大阪、平野屋五兵衛方での金策にも名を連ねており、日常の振舞いすこ |
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ぶる悪く、祇園新地の貸座敷「山緒」にて、土方歳三らに詰腹を切らされたとされるが、 |
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山緒の所在も日時も不詳である。九月十三日に、近藤の意に反するところから殺害された |
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といわれる田中伊織と時期的に似通っており、その後の書簡にも新見錦の名が見当たらな |
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い事で同一人物と考えられる。また、新見錦の名が長州側に残っている事から、長州の間 |
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者となって動いていたところに近藤らに察知され、幹部である新見錦が処分されるのは、 |
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浪士隊を創設したばかりで、対面上の関係から、名を変えさせて意に反したとされて斬ら |
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れたのではなかろうか。そのような理由なので芹沢鴨も新見錦の斬に同意したと思われる。 |
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副長助勤 |
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文久三年の清河八郎らとの上洛時に、三十五歳だった事から、逆算すると、文政十二年の |
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生まれではないかと思われる。早川文太郎の「尽忠報国勇士姓名簿」に『播州姫路浪人三 |
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十五歳上京ノ儘新選組トナル』と記載されている。安政六年五月二十四日、横浜の戸塚に |
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ある、直心流萩原連之助の道場を訪ねていることが、そこの「剣客簿」に、姫路藩、神道 |
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無念流堀川○○門人平山五郎○○未五月二十四日面会と記載されている。この道場には、 |
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前年の八月に近藤勇が、訪ねている。これも何かの因縁であろう。 |
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平山五郎が、水戸の芹沢一派と行動を共にしたのは、撃剣の流派において、同門であった |
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ことによる。文久三年二月浪士隊に加わって、芹沢鴨らと同調して残留す。六月の大阪力 |
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士との乱闘にも加わっている。暗殺された当日の平山五郎は、島原桔梗屋の小栄(吉栄?) |
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という女と床を共にしたのだが、土方らが逃がして、平山のみが斬殺された。壬生寺の墓 |
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所には、芹沢鴨と並列した墓碑がある。なお、現在の墓碑は二代目である。 |
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副長助勤 |
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文久三年、清河八郎らとの上洛の際は、四十歳とある事から、逆算して、文政七年の生ま |
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れであろう。芹沢鴨と同郷人である。天保十五年三月二十二日、水戸烈公臨席の下に郊外 |
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の千波原においての調練が行われた際に、三十六名いたが、その中の一人に平間重助の名 |
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が、記載されている。上洛後の平間重助は、芹沢鴨、新見錦と行動を共にして、悪行を共 |
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に重ねている。勿論、六月の大阪力士との乱闘にも加わっている。文久三年九月十六日の |
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夜半、折りからの降雨の中で、勅命を受け暗殺者となった近藤、土方らの奇襲に遭遇する。 |
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芹沢鴨は、愛妾お梅とともに斬り殺され、平山五郎も斬殺されるが、平間重助だけは、死 |
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を装って隙をみて逃走した。平間は、輪違屋の絲里と添寝をしていたが、絲里もまた厠に |
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立っていて、この襲撃から難を逃れたと伝えられている。 |
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流泉小史の「新選組剣豪秘話」の中で、岩手県江刺において、明治二十三年の旧暦九月四 |
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日に亡くなったと記している。その時の名を「諏訪部重助」と称したそうだが、内容にお |
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いて、確証を得るものはない。 |
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■ 御 家 紋 ■ |
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