松平容保 
 まつだいら かたもり 

會津藩主、京都守護職
 
  天保6年12月29日  

  美濃高須3万石の城主松平義建の第6男に生まれた容保は、弘化3年4月数え12歳で會津  

  松平家23万石の養子に迎えられ、先代容敬の愛姫(4歳)と将来の結婚が約束されたが、  

  嘉永5年閏2月15日養父容敬の病死によってその名跡を相続したのは弱冠18歳の春である。  

  文久2年閏8月朔日に京都守護職に就任したときは、容保28歳の秋である。幕府から役料  

  5万石を賜り、金3万両を貸与されても、自ら望み喜んで就任したわけではなかった。  

  2年前の万延元年3月3日、桜田門外の変で大老井伊直弼が非業の死を遂げ、続いて老中  

  安藤の暗殺未遂事件と幕府の威信が落ちている最中で激動の情勢であったからである。だ  

  が、それだけではなく、容保の近辺にも文久元年10月虚弱体質の妻敏姫が風邪をこじらせ  

  て逝去。行年18歳であった。6年前に結婚したとき、井伊大老は大そう喜び「我が子が2  

  人ふえたぞ」と新婚の2人を招いて祝ってくれた。直弼に愛されたという容保の強い印象  

  が最後まで 幕府の為に保守派を貫く立場に後押ししたのだろう。  

  敏姫の死を悲しんでいた容保に京都守護職になるように求めたのは、将軍後見職一橋慶喜  

  と政治総裁職松平春嶽であった。諸外国の開港要求と朝廷や西南諸藩の攘夷要求との板ば  

  さみになり、経済的にもぐらついてきた幕府の屋台骨を一時的にも守ろうとした慶喜と春  

  嶽であったが、2人は京都守護職という新制度を設け強力な軍事力を持つ親藩を就任させ、  

  将軍上洛を前にした京の治安を守り、西南諸藩に勝手な事を言わさぬような体制をつくる  

  必要があった。しかし、風邪で病床にあった容保は再三固辞した。この時代は幕命でも辞  

  退した前例があって逃れる事も出来た。家臣たちも揃って辞退するように進言したし、特  

  に城代家老西郷頼母は「薪を背負うて火の中に飛びこむ如し」と會津の自滅行為に反対を  

  した。だが、會津には藩祖保科正之の遺訓があって、将軍に忠誠をつくすを藩の使命とし、  

  徳川宗家と盛衰存亡を共にするのを家風としてきた。婿養子の容保はそれを春嶽から言わ  

  れると断ることはできなかった。君臣の一致した結論は「いまは義の重きをとり、将来の  

  行方を論ずべきではない。ただ吾等は京都を死所としよう」と覚悟、君臣相抱いて涙を流  

  したという。   

  京都に入って、黒谷の金戒光明寺を本陣とした松平容保と會津藩兵の活躍は目覚ましい。  

  それまでは「天誅」の名のもとに攘夷過激派浪人が乱暴の限りを尽くして毎晩のように、  

  いや、白昼から暗殺が続いた。容保は初めから武力によって鎮圧するのではなしに言論を  

  自由にして話せば分かる方式をとろうとしたが、生易しい事では解決出来なかった。相手  

  が暴力で混乱を狙ってくるのだから実力行使以外に方法がない事を容保は悟らざるを得な  

  かった。容保がこの仕事に感動をもって夢中になれたのは孝明天皇に対する忠誠の実行で  

  あった。帝は容保を心から信頼し、何度も褒賞して「汝の忠誠を喜ぶ」という宸翰(帝の  

  手紙)や御製をくだされた。容保の考えは公武合体策である。孝明天皇に忠誠を尽くす事  

  は徳川将軍への忠誠でもあって、真心で全力を振るつて尽くす事であった。  

  このような時に現れたのが新選組であった。會津藩庁記録には文久3年3月10日、幕臣鵜  

  殿鳩翁の指示で京に留まるのを願う浪士24人が我が公の附属を命じられたとある。同年4  

  月21日、下坂する将軍家茂を近藤勇ら浪士組が道中警護で随行したが、「時ニ浪士一様ノ  

  外套ヲ製シ長刀地ニ曳キ或ハ大髪頭ヲ掩ヘ形貌甚偉シク列ヲナシテ行ク、逢フ者皆目ヲ傾  

  ケテ之ヲ畏ル」とある。また容保はその間「適々閑アラセラルレバ浪士ヲ召シ慰撫シ玉ヘ  

  テ其技芸ヲ上覧シ玉フ」ともある。容保が守護職屋敷に壬生浪士たちを呼んで剣術の技な  

  どを嘆賞していたものであろう。容保からすれば壬生浪士たちを一国を動かすような戦力  

  と考えていたかは疑わしいが、同年の8・18の(七卿落ち)事件のとき、會津と薩摩が同  

  盟を結んで長州一派を京から一掃する急変式実力行使を敢行した。「新選組」の名称も実  

  はこのと日初めて公表されたものであろう。従来は島田魁が武家伝奏の野宮・飛鳥井の両  

  名によって近藤らの壬生浪士を「新選組」と命名されたと解説されてきたが、この日の京  

  都町奉行触書には、「肥後守殿御預リ浪士新選組、市中昼夜見廻候様、肥後守殿ヨリ仰付  

  ラレ候条、左様心得」とある。新選組の名はこれが最初である。そのうえ容保も會津藩士  

  も、目的は孝明帝と将軍家茂に全力を傾けて忠節を尽くす事であり、自分たちが正義を貫  

  いていることを信じていた。新選組も次第に数を増やし、統制もとれ、翌元治元年の池田  

  屋事件やそれに続く禁門の変では、新選組は確実に會津藩の配下であり、強力な軍事力の  

  一端を担っていた。いつ離れるか分からない薩摩藩の権謀術数策とは根本から違っていた。  

  ところが、正義感に燃えて走り続けてきた容保と會津藩士、それに新選組の前に、大きな  

  落とし穴が待ち受けていた。運命であろう。慶応2年7月に将軍家茂が急死し、長州征伐  

  は中止されたが、同年12月に孝明帝が他界された。死因は長い間維新史の謎とされてきた  

  が、現在では明らかに毒殺であった事が立証された。(佐々木克著『戊辰戦争』中公書455)  

  容保にとっても新選組にとってもこの二人の死は一大衝撃であった。呆然としているうち  

  に次の将軍慶喜の心変わりもあって、敗戦という深い穴に落ちていったが、敗れることは  

  分かっていても最後まで共に信義は失わなかった。戦争で勝った者が、必ずしも正義とは  

  限らないことは、歴史が判断することである。 明治26年12月5日永眠  

(みやざきとみはち 会津史学会会長)

■ 御 家 紋 ■




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