河井継之助
かわい つぐのすけ

長岡藩家老
 
文政10年1月1日、越後の譜代藩長岡城下の同心町に生まれる。
 
河井家は120石、父代右衛門は勘定頭等を勤めた能吏で茶道や刀剣を好む風流人、僧良寛と
 
も交流があった。母の貞(てい)は女には珍しく算盤が得意という気丈な人で、継之助は母に似た
 
という。夭折した弟を除き、姉3人妹1人という女系家族だが、嫡男継之助はかなりの強情者で、
 
藩校崇徳館で朱子学、剣術、槍術、馬術等を修練、年長者にいじめられても音を上げなかった。
 
継之助は藩学の朱子学(知先行後の考え)・古義学に疑問を感じ、良知は直ちに実行という
 
「知行合一」の陽明学をもたらした藩儒高野松陰に私淑、17歳の時に鶏を裂いて王陽明を祭り、
 
輔国の志を立て、陽明学を自らの基本理念とした。
 
一方では藩士が表向き参加禁止の盆踊りが大好きで長岡甚句が聞こえてくると辛抱できず、
 
浴衣にほっかむり姿の変装で、妹には「母上には黙っていろ」と言い、こっそり出かける
 
お祭り好きの面があったという。24歳の時には参政梛野嘉兵衛の妹すがと結婚、気性の強
 
い母親にもよく仕えた妻に「おすがは偉い」と喜んだが、生涯子供は得られなかった。
 
結婚3年後に念願の江戸遊学を果たし、斎藤拙堂門下から古賀茶渓の久敬舎に入り佐久間
 
象山の木挽町の邸にも寄宿、「李忠定公集」12巻を一字残らず正楷で筆写、象山に激賞さ
 
れ、読書は「多読よりも精読」を主義として研鑚した。ペリー来航の時は、当時老中であ
 
った藩主牧野忠雅に富国強兵、藩政改革を建言して、目付役として国許の改革を任され帰
 
国するが、藩重役の反感で不遇に過ごし、29歳の時には世子(藩主後継者)忠恭の講師を
 
命じられるが、光栄と思うどころか「講釈は講釈師に頼めばよい」と断って譴責を受け、
 
藩政に携わる機会を失う。安政4年家督相続、外様吟味役につき、永年紛糾した宮路村の
 
訴訟問題を解決した手腕が買われ、翌年正月には許されて再び江戸遊学。その夏に、備中
 
松山藩儒で著名な陽明学者の山田方谷の元へ発ち、松山藩改革成功の功労者である方谷を
 
生涯の師とする。長崎へ旅行して西洋文明の一端を実見、四国、九州を旅して松山に戻り、
 
翌万延元年まで滞在、34歳で帰国した。
 
この間藩主は忠恭に替わっており、文久3年忠恭が京都所司代を命ぜられ継之助も京都詰
 
で随行。尊攘過激派が暗殺に跳梁する京の都の情勢を嘆き、全ての人民は王臣なのだから
 
尊皇は当たり前、何の準備もなく攘夷を騒ぐのは臆病者。むしろ通商を開き外国を利用し
 
て富国強兵を進め、日本の綱紀を正せば洋艦来航を怖れる事もなくなるのに、浪士はおろ
 
か薩長の大藩まで不用意に外国船に戦争を仕掛けたとは嘆かわしい、長岡藩だけでも変事
 
に備える努力が急務だと義兄への書簡に書いている。
 
公用人時代、老中になっていた藩主に辞職を勧め、支藩(同じ牧野家)笠間藩主が幕府の
 
意を受けて留任を説得に来ると、継之助は大名を相手に直答して激しく反論、無礼を咎め
 
られて帰国。しかし再び登用されて、山中事件、小諸騒動等、領内や支藩の紛争に自ら乗
 
り込んで解決。短期間のうちに、郡奉行、町奉行、江戸詰奉行格、年寄役、などを経て、
 
家老上席にまで累進した。
 
継之助が藩政改革を実行した例としては、賄賂の禁止、年季御手当(支給米)制の廃止と
 
相対救い(相互扶助)制実施、中ノ口川改修工事、驕奢・賭博・遊郭の禁止、信濃川河税・
 
株の特権廃止、兵制再編(フランス式)、藩士の禄高改正、寄宿(教育)制度の実施、新
 
式銃砲の購入等がある。わずか3年の間に、北陸の小藩7万4千石の長岡藩が政治改革と
 
近代武装化の効を挙げたのである。特権を廃し贅沢や遊興に回す金を切り詰めさせたのも、
 
莫大な軍事費を捻出するには当然だが、急激な断行には反発され、馴染みの芸者衆からは
 
「可愛いかわいと今朝まで思い、今はアイソも尽き(継)之助」との俗謡が作られて城下
 
に流行した。藩士の禄を概ね100石平均になるよう、上は大幅な削減、下は軒並み底上げす
 
るという、思い切った禄高の上下格差改正は下級の有能藩士たちを発奮させ、農民や商人
 
も登用して殖産にも力を入れた。継之助は、「士農工商はいずれ無くなる」と人にも教え、
 
実力主義を推進し「民は国の本、吏は民の雇い」と言い、藩民には藩の会計出納を公表。
 
封建時代にここまで先取した政治家は希有である。また、よく「沈香も焚け、屁もこけ。」
 
と人に語った。沈香も焚かず屁もひらず(良い匂いも嫌な匂いもさせない)というのが元
 
の諺だが、継之助は、自ら行動しない事なかれ主義の人間は駄目だ、と言ったのである。
 
慶応3年長岡藩主は24歳の忠訓に替わる。忠訓上洛に継之助も随行し、大政奉還後は徳川
 
復権を建言、藩主名代として御所に参内。「臣が君を討つ非道」と薩長他の討幕を否定し
 
て道義を訴えたが、朝廷はこれを無視。翌4年鳥羽伏見の開戦、幕軍の敗北に至る。長岡
 
藩主と藩兵は江戸に戻り、継之助は江戸藩邸の財物を売却、当時日本に3門しかなかった
 
毎分150連発以上のガトリングガン2門を1万両で購入、大量に武器を整えて帰国する。
 
新政府軍は恭順した前将軍慶喜の代わりに、会津を朝敵として攻撃目標に定め、東北・北陸
 
の諸藩に帰順と会津討伐を求め、これに服さない会津や旧幕臣、佐幕方諸隊との間で各地
 
の戦闘が始まった。長岡藩内でも西軍恭順か東軍参加の抗戦かで藩論が激したが、継之助
 
は大義の為の孤立を辞さず、両軍どちらの要請にも与せず武装中立を保とうと考え、5月
 
2日、殆ど単身で西軍の小千谷本営を訪れた。藩主の書状を携え、長岡が天皇に反する意
 
思はなく、自国を安定させ天下治平の為に御奉公すると述べ「日本国中協和力を合わせ、
 
世界へ恥なき強国になし候わば天下の幸これに過ぎず」と切々とした真情の嘆願書を提出
 
するが、西軍は土佐の岩村精一郎という弱冠23歳の軍監が応接。継之助の、真の官軍なら
 
ば恭順しても良いが、討幕と会津討伐の正当な理由は何か、長岡領内への侵入と戦闘は断
 
る、との理論を受け付ける度量は岩村になく、一小藩の勝手な言い分と怒った事で強圧的
 
に服従を言い渡し、交渉は僅か30分で決裂する。この対応が西軍の大誤算であった。
 
継之助は遂に「西軍こそ不正暴虐非道の奸賊。長岡は義の為に戦う」と、全藩士に開戦を
 
宣言、軍総督となり北越戦争の激戦に突入する。藩兵1500といっても、フランス式修練を
 
積み、大砲14門、新式小銃2000挺、軍医団まで整えていた長岡藩が継之助の作戦、指揮下
 
に自国山野の地の利を得ての徹底抗戦は凄まじかった。長岡城は落城、炎上したが後日に
 
これを奪還。藩兵は胸までの深田や沼地や川を渡渉し、海では小舟を使って奇襲し、戦法
 
は多彩に渡った。東軍は会津、米沢、桑名や旧幕諸隊等の応援が加わり総数8000、西軍は
 
参謀黒田了介(清隆)、山県狂介(有朋)ら率いる薩長主力の連合軍3万であり、攻防は
 
三ヶ月に及んだ。東軍の圧勝した局面もあり、黒田が辛くも戦場を逃げ出し、江戸の西郷
 
隆盛が急遽増援を求めて薩摩に帰国、横浜等では長岡一藩も制圧できず官軍は負けるだろ
 
うと噂されたのである。しかし数の限られた東軍は次第に疲弊し、戦略を率いる継之助が
 
7月25日に左足に銃弾を受けて負傷した後は敗勢、壊滅へと追い込まれていった。長岡城
 
は再び落城し東軍諸藩兵や婦女子までが越後と南会津を結ぶ「八十里越え」の険路を会津
 
目指して落ちて行った。担架で運ばれる継之助は「八十里 こし抜け武士の 越す峠」と
 
自嘲の句を詠み、道中で長岡藩士山本帯刀の母から、貴方が我が軍は勝つと言ったのに、
 
この有様は何かと問われると、国言葉で「イヤハヤ」と謝った。確かに継之助の開戦決意
 
は味方の夥しい死傷者を出し、故郷を焦土に荒廃させ、朝敵の汚名を受け、永年の恨みも
 
残されたが、明治維新史の「勝てば官軍」が決して常に正義ではないという事実と共に、
 
義戦を信じて戦った北越の小藩長岡の名を不朽に刻み付けた。継之助の戦傷は悪化して破
 
傷風になり、8月16日会津塩沢村の医師宅で、首は敵に渡さぬようにと遺言し、従僕松蔵
 
に自分の火葬の為の火を庭に焚かせながら、もっと勢いよく燃やせと命じてから死亡した。
 
享年42歳。
 
■ 御 家 紋 ■
 

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