| 野太刀自顕流 |
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| 薩摩、鹿児島郊外吉野村実方の出身。生没年は天保九年〜明治十年。半次郎の |
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| 身分を郷士とするのが通説だが、これは誤りで、西郷隆盛らと同様に、城下士 |
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| の最下級身分である御小姓与とすべきである。半次郎は西田町にある江夏仲左 |
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| 衛門の道場で野太刀自顕流の修練をしたという。(『西南記伝』では古示現流 |
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| の伊集院鴨居の門人とする。)江夏仲左衛門は寺田屋事件のとき、鎮撫の一員 |
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| に選ばれたほどの手練れである。半次郎は道場に通うかたわら、自宅の庭や近 |
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| くの樹木を相手に、柞でつくった木刀で一日八千回打ちつけるのを日課とした。 |
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| その猛烈な鍛錬のため、付近の径三、四寸の樹木がことごとく折られたと |
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| いう。半次郎が京に上ったのは文久二年で、公武合体派の尹宮(中川宮朝彦 |
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| 親王)の警固にあたった。そのうち「人斬り半次郎」の異名で知られるように |
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| なったが、史実として残っているのは、自身の「京在日記」に記されている洋 |
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| 学者赤松小三郎の暗殺だけである。慶応三年九月三日、京、東洞院五条下ル |
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| あたりで赤松と出会った中村は抜刀した。赤松が短筒に手をかけたところを、 |
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| 左肩から右腹に斬り通している。翌四年五月、上野戦争が終結した頃、半次郎 |
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| は神田三河町で彰義隊の生き残りと思われる刺客数人に襲われたが、そのうち |
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| の一人を斬り捨てた。『西南記伝』によれば、鈴木隼人という一刀流の剣士 |
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| だったという。明治四年、中村半次郎改め、桐野利秋は陸軍少将に任官したが |
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| 同十年、西南戦争に出陣、九月二十四日、城山で西郷とともに討死した。 |
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| ■ 幕末人名鑑 ■ |
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| 小栗流剣術・高木流槍術 |
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| 土佐藩郷士。幼名虎吉。浜田宅左衛門の子として安政十二年生まれる。初め医学を |
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| 志し、剃髪して信甫といったが、安政二年、高岡郡梼原村の郷士那須俊平の養子と |
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| なり、信吾と改めた。剣を小栗流道場、日根野弁治に学び、皆伝を授けられる。 |
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| 槍は高木流、岩崎甚左衛門に学ぶ。膂力は人並みはずれ、健脚馬に過ぐと噂された |
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| という。坂本龍馬と交り、武市瑞山に従い土佐勤王党に加盟した。文久二年四月 |
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| 八日、安岡嘉助、大石団蔵と共に、土佐藩重役吉田東洋を暗殺した。その夜城から |
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| 戻る東洋を帯屋町で襲い、安岡が肩を斬り、那須信吾が首を切り落とした。その後 |
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| 脱藩し上京、国事に奔走した。文久三年八月、天誅組の挙兵に参加、軍監となる。 |
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| 九月、大和鷲家口で彦根藩の侍大将大館孫右衛門を刺殺したが、敵兵に狙撃されて |
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| 戦死。享年三十五歳。明治になって甥の田中光顕によって、信吾の首は京都の霊山 |
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| 墓所に祀られた。 |
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| 野太刀自顕流 |
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| 薩摩、鹿児島城下高麗町の出身。兄喜左衛門は諱を清といい、生没年は天保 |
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| 五年〜慶応元年。弟喜八郎は諱を繁といい、生没年は五年〜大正七年。兄弟 |
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| は早くから薬丸半左衛門兼義の門弟となり、野太刀自顕流を修めた。嘉永元 |
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| 年十二月、鶴丸城二ノ丸で行なわれた野太刀自顕流の演武で、十八歳の喜左 |
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| 衛門が山口金之進、江夏仲左衛門、大山格之助ら著名な剣客と混じって立木 |
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| 打などを披露している。二人の名が相次いで顕れたのは文久二年のことだった |
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| 公武合体運動のため島津久光に従って上京すると、寺田屋事件が起こった。 |
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| 四月二十三日、弟喜八郎は久光の激派鎮撫の命を受けて、八人の朋輩とともに |
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| 伏見の寺田屋に急行した。喜八郎らは激派の首魁有馬新七など四人を階下に |
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| 呼んで説得したが決裂した。その瞬間、道島五郎兵衛が「上意」と叫んで、 |
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| 田中謙助に斬りかかった。これを機に乱闘となった。喜八郎が誰を斬ったか |
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| 不明だが『大久保利通日記』に喜八郎の活躍の一端が記されている。 |
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| 「全く奈良原喜八郎神妙の働を以て取鎮候、各二階へ罷居候に付、刀を投捨 |
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| 大肌抜にて抜身持たるながら立ふさがり、決て御騒成され候にこれなく、 |
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| (中略)何れも必死を約したる者共に候得共、奈良原終に屈伏せしめ候次第 |
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| 感入に堪えす候」(四月二十三日条)喜八郎は諸肌脱ぎで激派たちの前に |
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| 立ちふさがり、裂帛の気合いでこれを屈伏させたというのである。 |
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| 鹿児島の黎明館に喜八郎が寺田屋事件で使用した「肥前住人忠吉」作の太刀 |
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| が展示されている。切っ先あたりは凄まじい刃こぼれでささら状になって |
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| いて、激闘を偲ばせる。兄喜左衛門のほうはそれから間もなく、生麦事件で |
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| 青史に名を残した。島津久光が勅使大原重徳を警固して江戸から京へ上る |
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| 途中、神奈川生麦村で騎乗の英国人四人が行列とすれ違った。四騎は道端に |
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| 押しやられていたが、久光の輿の前で行列の中に乱入する形になった。 |
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| この時、輿の右後方にいた喜左衛門は疾駆して警固の中小姓の前に出た。 |
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| ちょうど一騎が馬首を右に向けたとき、喜左衛門は「無礼者」と叫びながら |
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| 騎乗の英国人リチャードソンの左肩の下、肋骨から腹まで斜めに斬り下げた |
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| 血しぶきが上がった。リチャードソンは痛手を負い、臓物を落としながら、 |
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| 一、二町逃げて落馬したところで止めを刺された。これが薩英戦争の発端と |
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| なる。喜左衛門は三年後、三十五歳の若さで病死したが、喜八郎は薩長政府 |
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| の下で貴族院議員や沖縄県知事などを歴任した。 |
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| 宝蔵院流槍術 |
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| 父は長州萩藩寄組(家老の次席)児玉縫殿。文政六年(一八二三、文政九年ともいう) |
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| その三男に生まれ、天保九年長府支藩家老西義定の養子に入った。名は運長。剣学 |
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| 共に衆を抜いていた。萩明倫館で宝蔵院流の槍、日置流の弓、田宮流の剣を修め、 |
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| 長府に来てからも学館敬業館の武芸稽古掛として剣、槍術を指南し兵法、文学も |
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| 講じた。天保九年九月、十七歳で江戸詰当職(江戸家老)を命じられたことからも |
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| その秀逸ぶりが窺える。安政二年老臣たちと意見の合わないことがあって蟄居を |
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| 申し渡されたが、安政七年には加判役に復した。文久三年馬関攘夷に参戦、沿岸防 |
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| 備再建を受持つ。慶応二年には中軍大隊長として征長軍と小倉口で戦った。翌三年 |
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| 当職に再任、敬業館文武掛として後進の指導に当たった。明治八年五月三十日病没 |
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| 享年五十三歳(あるいは五十歳)墓は日頼寺。 |
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| 北辰一刀流 |
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| 天保九年、広島藩士丹羽勇の子に生まれ、初め勝也と称し、名は秀明、博愛と号す。 |
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| 安政二年、十八歳のとき江戸へ出て、二年の間千葉周作の玄武館道場や斎藤弥九郎の |
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| 練兵館道場で剣術を学んで帰省して、広島藩講武所の助教になり、三十俵三人扶持を |
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| 給される。その後、諸藩を巡って尊攘の志士と交わり、元治元年京都の堀川で、坂本 |
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| 龍馬と共に新選組の六人と斬り合いになって一人を斬ったという。さらに慶応元年 |
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| には、大阪北の新地で近藤勇を追いつめたが、屋根伝いに遁げられたといい。慶応 |
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| 三年三月十三日の深夜、京都木屋町の旅宿で熟睡中を新選組に襲われて殺害されたと |
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| いわれているが、新選組がらみの話はいずれも眉唾物である。津山藩の井汲唯一など |
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| と因備挙兵を画策するが失敗。新選組に斬られたのではなく、会津藩士に斬られた。 |
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| 馬庭念流 |
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| 天明八年、上野七日市藩士横尾恒台の三男に生まれ、弁蔵といった。吉井藩士 |
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| 島丹治の養子になる。名は高茂で、適翁と号す。樋口定雄に師事して馬庭念流 |
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| を極め「今牛若」と謳われた。弓術の素養も並大抵なものではない。佐藤武源に |
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| 学んだが、毎日家で千本の弓を射ち、さらに出仕して百本を射って奥義を極めた |
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| また書を好み、夜毎の手習いは生涯止むことはなかった。十九歳の文化十年に |
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| 出仕し、天保六年、四十一歳の年に、養父丹治に代って代官をつとめた。父丹治 |
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| は致仕して丹斎と号したが、わずか一万石の吉井藩にあって、七石二人扶持を |
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| 食んでいたに過ぎないが、重責を担っていた。島丹蔵は、松平弾正大弼信敬、 |
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| 松平左兵衛督信任、松平左兵衛督信発の三人の藩主に仕えて、元治元年に致仕し |
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| 明治二年七月、八十二歳で没した。 |
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| 流派不詳 |
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| 長府藩仕萩野十郎左衛門二男。天保十年九月九日長門国長府壇ノ上で生まれ |
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| 十一歳で野々村合左衛門の養子となる。後に泉十郎と改名、諱は茂次。養父 |
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| の門に入って剣の腕を磨いた。藩内右に出る者はいなかった。文久三年馬関 |
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| 攘夷戦に出陣の際、高杉晋作と親交を結んだ。元治元年十一月三条実美ら五 |
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| 卿が長府功山寺に潜寓したとき、護衛を兼ねて応接掛を勤め、三条は直垂を |
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| 贈ってその労を感謝している。慶応元年二月十四日藩許をえて同志と長府報 |
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| 国隊を結成し、首席都督におさまる。ところが三月二十六日俗論巨魁の目付 |
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| 役林郡平が暗殺されるとその首謀者と疑われ、さらに四月、馬関の開港を企 |
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| てた高杉晋作や井上聞多、伊藤俊輔らの命をねらったという理由で、十一月 |
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| 二十七日突然上意をもって功山寺で切腹を命じられた。歳二十七であった。 |
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| 功山寺に墓がある。 |
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| 直心影流 |
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| 文政十年十一月十五日、幕府の御先手鉄砲組内藤近江守忠孝の組与力石垣 |
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| 五郎次郎の次男に生まれる。名を安平、号を玉舟という。天保五年、七歳 |
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| で東叡山龍院純海の従弟となり、純策と称す。嘉永三年、二十四歳で復飾 |
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| して、直心影流榊原鍵吉に師事する。慶応四年三月、松平主税介から野見 |
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| の氏を賜わり、改称する。同年五月十四日、西軍の兵糧運送取締となる。 |
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| 明治二年、下谷原宿に道場を開き、同十一年直心影流十五代をを襲名。 |
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| 直心影流十三代男谷精一郎の宗家直系は十四代榊原鍵吉から十五代野見 |
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| 次郎となり十六代野見浜雄、十七代安垣辰雄、十八代安垣安造と継承され |
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| 現在に至る。明治四十五年九月二十日、八十二歳の天寿を全うし、文京区 |
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| 本駒込の龍光寺と台東区三ノ輪の永久寺、さらに谷中の養寿院墓地に葬ら |
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| れた。安楽院武徳平等居士と号す。 |
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| 直心影流 |
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| 文政十一年、鈴木行孝の子として生まれ、萩原家の養子になる。後に太郎と |
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| 称し、名は行篤といった。天保十三年、早田真太郎養徳に直心影流を学んで |
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| 嘉永四年、免許皆伝となる。現在の横浜市戸塚区平戸町の相州鎌倉郡平戸村 |
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| の代官を務め、同所に道場を開いた。嘉永五年二月に筆を起こした剣客名簿 |
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| によれば、安政五年八月、後に新選組の局長になった天然理心流の近藤勇が |
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| 訪問したが、安政五年七月六日、十三代将軍家定が薨去され、普請鳴物停止 |
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| の御触れが出され、試合は出来なかった。他に、野々村勘九郎が訪ねている |
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| ことと、後に新選組に入る谷三十郎が神明流と書かれた門人の訪問記録は貴 |
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| 重である。萩原は神奈川県の県会議員を務めて、明治三十七年二月十二日、 |
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| 七十七歳没。神奈川県茅ケ崎市小和田の上正寺に墓がある。 |
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| 二葉天明流 |
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| 大和国宇智郡滝村の郷士益田藤左衛門の四男として、文政五年十二月十日 |
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| に生まれた。初称を藤蔵といい、名を綱幸といった。安政六年、三十八歳 |
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| で、吉野郡長谷の丹生川上神社の祠官橋本信政の養子となって神職を継い |
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| だが、若狭、幼少より武技を好み、自ら一流を立てて「二葉天明流」と称 |
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| した。夙に皇威の衰微を慨き、窃に回天を志し、武者修行にことよせて、 |
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| 諸国を遊歴。各藩の形勢を窺った。帰省して練武場を構え、子弟を集めて |
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| 武技を教授する傍ら、尊王精神を説いた。文久三年八月、天誅組の変が起 |
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| こると郷党を説いてこれに投じた。天誅組の壊滅後、材木商大阪屋豊次郎 |
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| と称して、同志会合の便宜を図ったが、捕らえられて京都の六角牢に繋が |
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| れた。慶応元年六月四日、西土居刑場で斬首され、同地に埋められた。 |
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| 行年四十四歳。 |
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| 真心自得流 |
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| 文政元年の生まれで、名は親友。宇野金太郎と並び称される周防岩国の |
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| 剣豪。剣を片山流片山久豊に習い、天保年間に岩国で道場を開いた。 |
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| 宇野はその時の弟子である。弘化四年、学館養老館剣術師範となり、 |
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| 翌年、宇野金太郎と共に直心影流島田虎之助に誘われ江戸に出てその門 |
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| に入った。ついで島田の師男谷精一郎に就き修行を積んだ。自ら新派を |
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| 立てて真心自得流と称した。文久年中は領主吉川監物の親衛士頭を務 |
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| めた。征長軍が防長へ迫るに及び、慶応元年二月領主に建議して、屈強 |
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| の者百人を集めて団を創った。翌年の幕長戦争には芸州口で奮戦。慶応 |
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| 三年三月、岩国諸隊十二隊の剣槍掛として隊士の武術指導に当った。 |
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| 明治二十六年九月二十八日、七十六歳で没し、岩国錦見の普済寺に葬られ |
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| た。藤次郎の嫡男は、後に朝鮮総督となった陸軍元師長谷川好道である。 |
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| 直心影流 |
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| 上州伊勢崎藩士畑野連平の子で、文化四年上州佐波郡境町伊与久に生まれ、 |
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| 初称を和吉、名は敬信で、号を一刀斎ともいった。剣術は、大橋順重から、 |
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| 免許を得た父に学んで、直心影流の奥義を極めた。父の跡を継いで伊勢崎藩 |
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| に出仕して、下目付小頭をつとめ、剣術指南としては三百人程の門人に指南 |
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| した。剣豪と呼ばれる者には、何かしらの伝承がある。「ある日のこと、夜 |
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| な夜な鎧武者の化物が徘徊することを聞きつけ。一刀司が夜更けに出向いた |
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| 出たか化物〜とそれを一刀両断にして帰った。翌朝、その刑跡を見とどけて |
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| みれば、石碑が真っ二つに割れていた。ただ、その後、二度と化物を見るこ |
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| とはなかった」そんな出来事から一刀司の剣名が高まったという。弘化二年 |
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| 四月二十一日、三十九歳没。空実伝心居士と号す。 |
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| 直心影流 |
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| 常州土浦藩で千二百石に遇せられる早川七代源右衛門貞信の子として、文化 |
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| 元年に生まれた。初め左橘、後に水之助、修理と称し、名は貞烈、貞教と |
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| いった。広間見習を手初めに、書札方見習、書札方本役、執事物頭番火之番 |
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| 打込、中小姓広間番支配、番頭宗門方、旗奉行列昼詰、用人役馬掛、供方と |
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| いった役を歴任した。文政十年六月直心影流剣術の免許を受け、文政十三年 |
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| 十月から天保十四年十二月まで、剣術世話掛となって、城内稽古所で子弟の |
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| 育成に当った。天保五年十一月には、道雪派弓術の免許を授っている。明治 |
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| 五年一月九日、六十九歳で没した。修理の弟辰人は、兄修理の剣術世話役免 |
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| 除の後、剣術世話役を命ぜられた。息首馬は本間新当流槍術の傑物であった |
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| 神道無念流 |
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| 丹波園部藩士原官次の三男として、弘化四年に生まれる。最初に学んだのは |
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| 山内孫右衛門の庄田流剣術で、文久三年江戸へ出て、九段俎橋の斎藤弥九郎 |
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| 道場「練兵館」で神道無念流を学んだ。慶応年間、練兵館最後の塾頭となる |
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| が、慶応三年塾を辞して,京都へ上る。岩倉具視の知遇を得て、慶応四年 |
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| 一月三日の鳥羽伏見の戦いの後、東山道鎮撫総督の岩倉具定に随行し、上野 |
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| 国巡察使兼監軍となる。幕府の大政奉還に反対し、主戦論を展開して容れら |
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| れず、一切の職を離れて知行地の上野国群馬郡権田村に隠棲、形勢を眺望し |
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| つつ再挙を図ろうとしたが、閏四月六日捕らえられ、斬に処された小栗の |
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| 太刀取りが原保太郎であったことは、広く世に知られる。その後、山口県令 |
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| から知事などを歴任。昭和十一年十一月二日、九十歳で没す。 |
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| 種田流槍術 |
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| 伊予松山藩の足軽原田長次の長男として、天保十一年に生まれ、名は忠一という。 |
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| 巷間、大阪の谷万太郎に宝蔵院流槍術を学んだように伝えられていたが、新選組 |
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| 隊士島田魁の親類書に認められた武芸の欄に「種田流槍術、免許皆伝、谷万太郎 |
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| 門人」とあるところから、流儀の修正が施された。文久三年二月八日(一八六三年 |
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| 三月二十六日)近藤勇や土方歳三らと上京浪士隊に加わり、新選組十番隊組長と |
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| なる。新選組としての事跡は、大阪力士との乱闘事件に始まり、池田屋騒動の参戦 |
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| から三条制札事件で、土佐の藤崎吉五郎を斬ったといわれる。伊東甲子太郎を闇討 |
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| ちにした油小路の戦いでは、伊東の亡骸を引き取りに来た服部武雄を斬った。 |
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| 江戸引きあげ後は、永倉新八と新選組を離れ、上野戦争の銃創で慶応四年五月十七 |
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| 日(一八六七年七月六日)本所猿江町の神保山城守邸で没した。 |
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| ■ 隊士名鑑 ■ |
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| 立身流 |
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| 下総佐倉藩十一万石の半沢権九郎の長男として、天保六年に生まれ、 |
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| 駒太郎と称した。佐倉藩の立身流剣術師範の逸見忠蔵信敏に学んで、 |
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| 嘉永五年、十八歳で「刀術立合目録」を受け、翌六年には「刀術居合 |
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| 目録」を授かり、安政三年、二十二歳で「刀術相伝免許」を与えられた |
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| 万延元年、二十六歳のとき、藩命によって江戸へ出て、鏡心明智流桃井 |
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| 春蔵直正に入門。修行を重ねて桃井道場士学館の塾頭を務め、文久三年 |
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| 帰藩。維新後の明治十三年佐倉に立身流立成社を創設、立身流剣術の |
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| 普及発展に寄与した。「我が立身流以外は剣にあらず」と豪語。門人の |
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| 育成にはことのほか、厳しかった。免許はおろか目録を与えることも |
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| 稀であったという。大正四年二月九日、八十一歳で没し、佐倉市の教安 |
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| 寺に葬られた。 |
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| 馬庭念流 |
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| 馬庭念流十七代目樋口十郎右衛門定輝の長男として、文化四年に |
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| 生まれた。通称を和蔵、十郎兵衛、そして十郎右衛門などと称し |
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| た。父から家伝の馬庭念流の剣術を学んだが、十七歳のときに父 |
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| が亡くなったことから、その後は、御見人になった伯父の樋口十 |
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| 郎兵衛定雄を師に学んだ。定雄の薫陶よろしきを得て、馬庭念流 |
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| の奥義を極め、さらに「矢留術」を創案して、同歴代中最高の傑 |
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| 物と称されるようになった。嘉永二年、江戸神田明神下に広大な |
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| 道場を構え、さらに下谷和泉橋通りに移転した。この年の四月、 |
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| 水戸藩主徳川斉昭から小石川の藩邸に招聘され、矢留の秘術を |
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| 披露。以後、同藩への出入りを許され、剣術の教授を行なった。 |
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| 嘉永六年、ペリーの来航に際し「国防私見」を上申し、慶応三年 |
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| 四月十四日六十一歳で没し、識善院定伊了儀居士と号す。 |
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| 大石神影流 |
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| 土佐藩士。名は武。字は士文。彬斎。斌斎。愚庵。南溟。文化十二年、土佐 |
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| 国幡多郡中村の郷士の家に生まれる。十九歳で学問を志し、遠近鶴鳴に学び |
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| 剣術、槍術、砲術などの武術修行に専念する。天保八年、故郷を旅立って、 |
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| 諸国を歩き、筑後柳河で大石進に入門し、帰国後、中村に道場を開き、多く |
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| の門人を教えた。安政三年八月藩から終身二人扶持の手当を受けている。 |
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| 門弟は千人に及んだという。文久元年土佐勤王党結成にあたって多くの門下 |
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| 生を加盟、西部勤王党の首領となっている。同二年六月、藩主の上京に随行 |
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| し、徒士目付となり、勅使東下にも随従した。武市瑞山の下獄後、勤王党員 |
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| の自重論を唱えた。戊辰戦争のとき、小監察、軍裁判役となり、凱旋後に功 |
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| により留守居組に昇進。明治三年、徳大寺家の公務人となり、同年六月十四 |
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| 日、病没した。 |
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| 天然理心流 |
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| 天保六年五月五日、武州多摩郡石田村の土方隼人義淳の四男に生まれたが、 |
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| 父は歳三の生前に亡くなっていた。母も六歳の天保十一年に没して、次兄喜 |
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| 六夫婦に養育された。名を義豊。号を豊玉といった。安政六年天然理心流宗 |
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| 家三代目近藤周助邦武に入門したが「免許」に至らず「目録」を与えられた |
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| に過ぎない。文久三年二月四日近藤勇や沖田総司らとともに上京浪士に加わ |
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| り、京都に残って新選組の副長として、組織の運営に辣腕を振るった。 |
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| 大阪西町奉行与力内山彦次郎殺害の指揮を取ったといわれているが、この |
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| 一件は、新選組の所業とは思えない。内山の裔内山昌居氏は未だに、西国浪 |
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| 士の仕業と信じて疑わない。そのことは、榊原鍵吉の高弟野見℃沽Yの「内 |
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| 山彦次郎の殺害報告書」に凝縮される。永倉新八の懐古譚は信をおくわけに |
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| はいかない。土方の修羅場を求めるとすれば、芹沢鴨の粛正と池田屋騒動、 |
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| そして、箱館における最後の戦闘ということになるだろうが、フットライト |
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| を浴びる場面がない。京都新選組の土方は、近藤勇の右腕として、智謀の人 |
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| といった感じをまぬがれない。下総流山における近藤との袂別は、近藤の宰 |
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| 将としての士道に押し切られた感じだが、京都で直接の上司であった松平 |
| |
| 容保の城下で忿怒玉砕の闘志をみせずに箱館へ渡ったのは、近藤ら新選組 |
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| 同志の汚名を雪ぐための道であったろうか。明治二年五月十一日三十五歳没 |
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| 歳進院殿誠山義豊居士と号す。 |
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| ■ 隊士名鑑 ■ |
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| 小野派一刀流 |
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| 文政元年生まれの孫兵衛は、篠沢甚五左衛門良智の五男で、名を高幸、 |
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| 字が弘道で緑山と号した。父良智は林崎流居合術を山本嘉兵衛勝久に |
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| 学んで奥義を極めた達人。長男文輔は、父良智の家督を継いだ。次男 |
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| 木村孟介は弓術に達した。三男青山泰助は、小野派一刀流の師範代を |
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| 務めて、達人の誉れが高い。四男は武芸には関わらず、医者になった |
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| 塩田硯庵である。五男が本項の主人公孫兵衛だが、日夏権右兵衛の養子 |
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| になり、藤田三郎兵衛直方から小野派一刀流を学んだ。嘉永二年、三十 |
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| 二歳で江戸へ出て、同流中西忠兵衛子正に入門。子正から流儀の秘伝を |
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| 預かり、帰藩後は、藩校の撃剣師範を命ぜられて、剣術指南に当った。 |
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| 明治二十六年十二月一日、七十六歳で没した。二本松市の大隣寺に墓、 |
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| 同市神宮寺に弘道の碑がある。 |
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| 関口流 |
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| いわゆる『天保水滸伝』における悲劇の主人公平手造酒のモデルである。 |
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| 平手造酒は、俗に紀州の浪人で神田お玉ヶ池の千葉周作道場で修行した |
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| 辣腕剣士といわれながら、生来、酒を好んで失行多く身を崩して破門され |
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| て流浪の旅を続け、下総笹川繁蔵の食客になった。天保十五年八月六日の |
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| 早朝、飯岡助五郎一家と笹川繁蔵一家が、大利根河原で大乱闘を演じた。 |
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| 飯岡の方は、永井の政吉こと下永井の彦四郎に、同じ下永井の利兵衛、 |
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| さらに木ノ内の金治の三人が殺された。一方、笹岡の方は、平手造酒が、 |
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| 全身十一箇所の切り傷を受けて、七日の早朝に死んだ。 |
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| 巷間「大利根河原の血闘」と呼ばれる飯岡と笹川の喧嘩で討死した平手 |
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| 造酒の墓は、千葉県香取郡東庄町笹川い五九七の延命寺にある。 |
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| 昭和三年に建立された巨碑の裏側面に嘉永三年八月十五日土地の名望家 |
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| 土屋半左衛門が建てた小さな「平田氏之墓」がある。土地の史家は、平手 |
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| 造酒の本名を隠して、平田深喜と称したものと云うのだが、同じ香取郡 |
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| 神崎町松崎七九四の浄土宗心光寺の墓所「儀刀信忠居士」と刻んだ自然石 |
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| 墓碑の裏面に「天保十五甲辰年八月六日、平田三亀墓」が発見された。 |
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| そして『考証、天保水滸伝』の今川徳三氏は、水戸の北辰一刀流渡辺清兵衛 |
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| の門弟平田三亀であるといっている。ところが、下関の笹尾羽三郎正矩が |
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| 認めた『諸国武術修行者姓名簿』の天保元年十一月十五日の試合。関口流 |
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| 阿州佐藤雄太門人、讃岐高松家中、平田三亀の一項が発見されたことで、 |
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| 平手造酒の実名が証明された。 |
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| 柳生新陰流 |
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| 文政九年、岩国吉川家臣松田訓徳の二男に生まれ、同じく福原至方の養子となった。 |
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| 名は至信、竹斎と号した。幼少から剣術に長じ、岩国の柳生新陰流桂六左衛門の |
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| 道場に入る。さらに萩に出て柳生新陰流指南内藤作兵衛のもとで腕を磨いた。その後 |
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| 筑後久留米藩の柳生新陰流加藤田平八郎に就いて奥義を極め、九州諸藩や伊予松山藩 |
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| の道場を巡って剣名を高めた。帰国して領主吉川監物の世子芳之助の守役に選ばれた |
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| 慶応二年の幕長戦争では、農兵敢従隊の隊長として芸州口で勝利した。十一月には、 |
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| 建尚隊を創ってその参謀となる。戊辰戦争でも建尚隊率いて北越に出征、明治元年 |
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| 九月、高田に進んで会津落城の報を聞いた。十二月凱旋、功により上士に列せられた |
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| 廃藩後は新湊に住んで子弟に剣術を教えながら、明治二十六年九月二日六十八歳で |
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| 永眠。錦見の普済寺に墓がある。 |
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| 直心影流 |
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| 藤川次郎四郎近徳の次男で、寛政三年に生まれ、初め鵬八郎と称し、弥次郎右衛門 |
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| と改称。名は貞近から貞といった。父近徳が若くして没したことから、兄弥八郎近 |
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| 常と祖父弥司郎右衛門近義の高弟赤石郡司兵衛孚祐の両人から十三年にわたる薫陶 |
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| によって、二十三歳の文化十年沼田藩主土岐山城守頼潤に三十五俵三人扶持で召し |
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| 抱えられた。兄弥八郎が病のために文政元年隠居。整斎は、いたずらに試合をして |
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| 勝負の優劣を決める事を好まず、ひたすらに心身の鍛練に心血を注いだ。 |
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| 「剣法は勝敗を争う道具ではない。専ら心胆を練って、一朝、事ある時には君恩に |
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| 報ゆる予備である。平常の稽古で勝って誉められ、負けて誹られたとて、何の名誉 |
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| も羞恥もあったものではない。武道の本意は卻って精神の修養にあって、太刀打ち |
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| にあるわけではない」これが整斎の持論である。 |
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| 彼はこの一念をもって、直心影流の古習を頑固なまでに守り続けた。それ故に九州 |
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| 柳河の大石進が用いた五尺三寸の長竹刀には批判的であった。その後、剣術の稽古 |
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| 繁多のため、諸役は免じられたが百石十人扶持を給された。剣の子弟として、息藤 |
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| 川太郎憲のほか、伊予大洲の高山峰三郎長富や越後高田の洒井良佑成大などの傑物 |
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| を排出した。整斎には『天保雑記』『整斎随筆』『出石紀聞』などの著書がある。 |
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| 文久二年八月十一日、七十二歳で没す。大整院剣光道喝居士と号し、文京区本郷五 |
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| 丁目の喜福寺に墓がある。 |
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| 円命流 |
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| 越中射水郡仏生寺村の出身。江戸へ出て、同郷の斎藤弥九郎に師事。練兵館での |
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| スタート時は吉村豊次郎と称し、風呂焚きから身を起こし、神道無念流二代目、 |
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| 岡田十松利貞の手解きを受け、たちどころに腕をあげ、天才剣士と謳われた。 |
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| 名を仏生寺弥助と称し、流儀も自ら仏生寺流と称したといわれるが『東西紀聞』 |
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| の五巻目によれば、円命流の達人と記されている。長州藩に新規召抱えになった |
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| 弥助は、武具並びに馬具が無く、京都松原通りの大丸に三百両の借金を強要。 |
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| 遊行費に使ってしまった。大丸の訴えを受けた長州藩は三百両を返済し、五条 |
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| 河原でなぶり殺しにした。死骸は松原河原に晒したが、町内の人が棺に入れて、 |
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| 金方寺に葬ったという。時に文久三年六月二十四日のことである。享年不詳。 |
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| 神道無念流の斎藤新太郎が襲撃者の一人にあげられている。 |
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| 立身流 |
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| 下総佐倉藩の立身流師範の逸見忠蔵信敏の長男で、天保十四年に生まれた。安政 |
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| 六年二月、父忠蔵から「立身流立合目録」を与えられた後、同流「居合目録」を |
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| 伝授された。文久元年、藩から一年の暇をあたえられ、江戸浅蜊河岸の鏡心明智 |
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| 流桃井春蔵道場「士学館」で剣術の修行に精励した。帰藩後は藩の演武場で剣術 |
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| 師範並として指南を続けた。維新後の廃藩によって、暫時、帰農に従事していた |
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| が、上京して後の警視庁になる警視局に入って、平巡査から巡査部長、警部補 |
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| から警部に累進した。その勤務については、警視庁本部武術課撃剣専務教師と |
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| いう立場で、上田馬之助らと撃剣世話掛の上司として、剣術の一切を取り仕切っ |
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| ていた。その後、学習院御用掛を務め、本郷元町に道場の「尚武館」を開き、 |
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| 隆盛を極め、巷間、天下無双の名人と讃えられたが、その没年は定かでない。 |
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| 甲源一刀流 |
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| 甲源一刀流宗家三代目の逸見兵馬義豊の長男として、文政元年武州秩父郡 |
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| 小沢口に生まれた。通称は初め小源太といい、後に襲称して太四郎になった。 |
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| 流祖の逸見太四郎義年は祖父で、五歳のとき没し、後見役の叔父右輔義隆に |
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| 学んだ。体躯にめぐまれた小源太は、天賦に加えて、努力をいとわずに精励。 |
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| やがて一流剣客の仲間入りをして、十九歳の正月を迎えた天保七年正月十六日 |
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| 自邸道場「耀武館」において、神道無念流の達人大川平兵衛と他流試合を行 |
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| なって勝ったことから、この日を記念して、鏡開きの日に定めた。 |
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| 明治十四年二月十一日、六十四歳で没した。戒名を逸倫院英誉著雄居士と号す |
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| 墓は小沢口の逸見家代々の墓地にある。長男の愛作は、父を凌駕するほどの名 |
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| 人といわれ、群馬県岩鼻陣屋の剣術師範を務め、戸長として村政にも尽くした |
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| 天然理心流 |
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| 増田蔵六は、現在の東京都八王子市戸吹町の武州多摩郡戸吹村坂本右衛門信明の |
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| 子として、天明六年に生まれ、初め専蔵と称した。坂本専蔵が天然理心流の二代 |
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| 目近藤三助方昌に入門したのは、二十歳の文化二年のことだった。その後、同じ |
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| 村の三沢家の養子となって、三沢蔵六と改称した。蔵六は剣術に限らず、柔術から |
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| 棒術まで師の三助に学んだ。師の近藤三助が文政二年四月二十六日急逝した。その |
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| 為、流祖近藤内蔵助長祐の高弟小幡万兵衛から指南免許を伝授された。 |
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| 文政八年、四十歳で、八王子千人同心増田磯蔵の養子となり、邸内に道場を設けた |
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| それまで携わってきた戸吹村の道場は、後輩の松崎正作に委ねた。天然理心流の宗 |
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| 家三代目を継承できるだけの技量をもった蔵六は、明治四年、八十六歳で没した。 |
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| 溝口派一刀流 |
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| 会津藩における溝口派一刀流の祖池上安道の孫町野庄三郎重祥の長男として、 |
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| 寛政九年に生まれた。初め忠次郎と称し、名は重虎から秀虎で、素餐軒と号す |
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| 文化十年、十七歳で、父庄三郎とともに、十一歳で肥後守を叙任したばかりの |
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| 藩主松平容衆の剣術稽古の相手を命ぜられる。 |
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| 文政二年、二十三歳で小姓に召し出され、八両四人扶持を給され、同五年三月 |
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| 御膳番見習となり、五月には、前月二十一日八代藩主に任じたばかりの松平容 |
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| 敬の剣術直方を命ぜられる。天保七年、父の死によって、百石を継承。藩主の |
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| 剣術相手となる。弘化元年、日新館内武学寮の師範になるが、二年後に弟の忠 |
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| 五郎にゆずり、後に九代藩主容保の剣術相手に任じられる。元治元年十一月 |
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| 三日、六十八歳で没する。指法院忠勝誠意居士と号す。 |
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| 神陰流 |
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| 久留米藩家老岸家の家臣で松崎八右衛門の次男で、天保四年に生まれた。 |
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| 名は直之、柳雨老人と号す。天保十四年、十一歳のとき、藩の剣術師範 |
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| 加藤田平八郎重秀に入門して神陰流を学んだ後、十四歳で「目録」十六歳 |
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| で「免許」を授けられ、十七歳で宝蔵院槍術の「免許」を森平右衛門から |
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| 授かり、居合術まで修めているのは尋常でない。以後、多芸を誇らず剣一 |
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| 筋に修行して「奥免許」を授与されたのは、安政元年二十二歳であった。 |
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| 明治三年十一月、久留米藩の剣術指南役となり、四十三俵を給されるが、 |
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| 廃藩によって廃止となる。明治十七年上京。翌年宮内省入りの後、二十一 |
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| 年正月には、京都府警察部武科教師となり、同二十九年六月十九日、六十 |
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| 四歳で没す。戒名は剣光院玄叟了空居士と号し、京都市右京区の妙心寺内 |
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| 隣華院に墓碑が建立されている。 |
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| 小野派一刀流 |
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| 天保六年、服部山蔵の子として生まれ、弘化四年十三歳で、武州忍藩士の |
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| 松田氏へ養子に入り、名を貞好といい、字が士順で号が楽山といった。 |
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| 浅山一伝流の片山新右衛門に学んで免許を受け、久保村武助に師事して |
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| 夢想流柔術を修める。二十歳を超えた頃には、多数の門弟を抱えていたが |
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| 文久二年になって江戸へ出て、大久保九郎兵衛の門を叩き、小野派一刀流 |
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| を学ぶこと一年にして免許を授かった。帰藩するや否や、忍藩の剣術師範 |
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| に迎えられた。その頃、藩で招聘した鏡心明智流の桃井春蔵直正に師事し |
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| て「九重巻印可」を与えられた。維新後も門人たちの育成に尽力した。 |
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| 精進に精進を重ね、数千人の門人たちを指南する熱血剣士であった。 |
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| 大正三年二月二十日、八十歳で没し、行田市持田の成正寺に埋葬された。 |
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| 柳剛流 |
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| 文化十五年正月六日松平愛之助親芳の三男として、三州宝飯郡長沢村に |
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| 生まれ、後に兄源七郎忠道の養子になった。通称を春之丞、帯刀、源七郎 |
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| 主税之助といい、さらに上総介と改めた。名は親年から忠年、そして忠敏 |
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| と変った。剣術を志し、柳剛流二代目の直井勝五郎秀堅に学んだ。その後 |
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| 江戸で道場を開き、同門だった橘内蔵正以を師範代に招いた。安政三年 |
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| 三月、講武所の開設にあたり、男谷精一郎組の「剣術教授方」に任命された |
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| 文久二年十二月には「浪士取扱」になる。文久三年正月十四日剣術師範役 |
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| 並と進み、諸大夫仰つけられ上総介と称す。これまでの三百俵が八十人扶持 |
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| となる。この月二十六日、浪士取扱を免ぜられ、四月に復帰再役。四月は |
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| 新微組支配となる。明治十五年四月五日、六十五歳で没した。戒名を松巖院 |
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| 殿温誉厚賢忠敏大居士と号す。 |
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| 心形刀流 |
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| 肥前平戸藩六万一千七百石の八代藩主松浦壱岐守誠信の三男政信の |
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| 子として、宝暦十年正月二十日、江戸で生まれた。名は清、称は壱岐守 |
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| を叙任。字を小白といい、静山は号である。心形刀流の号を常静子と |
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| いう。父政信が早世したため祖父誠信の養嗣子となり、安政四年二月 |
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| 十六日襲封、九代藩主になった。そして文化三年致任するまでの三十 |
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| 一年間を、逼迫した藩財政の再建に心血を注いだ。武術については、 |
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| 心形刀流の印可状を伝授し古我流槍術、宮田流居合極意を授っている |
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| 幕府の儒官林述斎や佐藤一斎と親交を結び、林の奨めもあって『甲子 |
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| 夜話』を出した。天保十二年六月二十九日八十二歳の天寿を全うした |
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| 豊功院殿静山流水大居士と号す。墓は墨田区本所の天祥寺にある。 |
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| 開平三知流 |
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| 文政十三年、現在の青梅市下長渕である武州多摩郡下長渕村の三田貞次郎 |
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| 宗相の子に生まれ、姓は相馬で称が初め総次郎といい、名は宗美といった。 |
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| 早くから武州高麗郡梅原の比留間半蔵利充に師事して、甲源一刀流を学んだ。 |
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| 左内は、技量卓抜にして研究心も旺盛で、新流を編み出して「開平三知流」と |
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| 名付け、武州御獄山神社に大扁額を奉納した。ところが師の承諾なしに流派を |
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| 興し、奉納額を揚げるとは不届千万〜と比留間道場から文句が出た。 |
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| 御獄山神社の境内で雌雄を決することになったが、天然理心流松崎和多五郎の |
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| 仲裁で事なきを得た。この奉納額に記された宇津木栄之丞を文之丞と変え、机 |
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| 志津摩を竜之助、三田左内の姓の相馬と名の宗美を宗芳として『大菩薩峠』の |
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| モデルになった。明治三十二年九月九日、七十歳で没。開平院実参宗美居士と号す |
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