幕末明治基礎知識
| ビールは苦い |
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輸入ビールは居留地で飲まれていたが、国内産のものは四年に英人
コープランドが横浜で醸造したのが最初。通称「天沼ビヤザケ」で、
これを契機に日本人も刺激され「渋谷ビール」が大阪に生まれ、後
の「旭麦酒」「エビス麦酒」らの祖となった。九年には札幌開拓使
(サッポロ)ビールが出るが、値段の高いこと、苦さが口に合わぬ
こと等で消費量は伸びなかった。ビヤホールは明治三十二年になっ
てでき、日露戦争後ようやく普及期を迎えた。
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| 女学校の設立 |
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明治初年創立のうち、現存するものの名を挙げると、 三年 フェリス女学院、共立女子学園 六年 女子学院 七年 青山学院、お茶の水大 八年 跡見学園、神戸女学院 等となる。跡見が日本の婦人による最初の高等女学院だが、当初の 有り様は「結構宏壮偉麗、女弟子数十名寓ス、読書習字ヨリ、以テ 絵画繍縫算数ニ至ルマデ、請ウ所ニ因テ、之ヲ教授ス」と記されて いる。「紫ノ色メノ袴打着ツツ靴フミナラシ行クハタカ子ソ」 |
| 消防組織の変遷 |
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江戸時代の消防は、主に大名火消と町火消によって行われた。これは
町奉行ー名主ー町役人ー頭取ー纏持・梯子持・平(トビ口)・下人足
(竜吐水)という組織であった。幕府では老中以下の担当がおり、そ
の中火付盗賊改めや町奉行が1づけられる。明治になると大名火消等は
解散になり、町火消が主に当ることとなった。三年、東京府に消防局が
設置され、以後、所轄が転々としながらも三千人ちかい組織が東京に
整備された。しかし、給料等の待遇は悪く、私設消防組に移る者が出た
りで士気が奮わなかった。やっと体制が整い始めたのは、十一年に消防
本部が設置されてからである。
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| 壬申戸籍 |
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戸籍法に基づいて、東京・京都・大阪三府と開港場に関しては直ちに、
その他は五年二月から百日で作成された。現住している戸を単位とし、
戸主を中心に、直系尊族、妻、直系卑族、傍系の順で記す。国家が国
民を直接把握した画期的なもので、徴兵・教育・身分・徴税等の基礎
となった。
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| はじめての鉄道 |
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品川・横浜間の「鉄道開行式」は明治五年五月六日に行われ、三条実
美太政大臣、大隅重信参議、伊藤博文工部大輔らが臨席した。当時の
乗車賃は四歳まで無料、十二歳まで半額とし、片道で上等一円五十銭、
中等一円、下等五十銭であった。なお、新橋・横浜間が全通して天皇
臨幸の下に開業したのは、同年九月十二日であった。当時の時刻表は
上り横浜発、午前8字から品川着8字35分で最終午後4字。日に6便。
下り品川発、午前9字から横浜着9字35分で最終午後5字。日に6便。
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| 明治初年のベストセラー |
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明治初年のベストセラー作家は福沢諭吉である。彼の回想によれば「西
洋事情」は正版と海賊版を合わせて二〇〜二五万部売れたという。これ
は当時の人口の百四十分の一であり、文盲率を七割、本の回し読みを考
えると、字を読める者の大部分が読んだことになる。「学問のすすめ」は
正版のみで初版二〇万、全編では三四〇万部になるという。他の本では、
中村正直の「西国立志篇」は一冊で百万部は売れたという大ベストセラー
であった。また地理の翻訳書である「輿地誌略」を加え、福沢の「文明論
之概略」を入れれば、明治初年のベスト4となる。
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| 徴兵制度 |
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明治六年の徴兵令は官吏、洋行者、二七〇円以上払える金持は除かれていた。
庶民の側では六年から七年にかけて各地で徴兵反対の動きがあった。「徴兵
告論」中に「凡ソ天地ノ間一事一物トシテ税アラサルハナシ以テ国用ニ充ツ、
然ラバ則チ人タルモノ固ヨリ心力ヲ尽シ国ニ報セサルヘカラス、西人之ヲ称
シテ血税ト云フ、其生血ヲ以テ国ニ報スルノ謂ナリ」とある点が殊に感情を
刺激したといわれる。しかし現実に実施された時、徴兵できた壮丁は全体の
二割だったという。それでもこの軍隊は西南戦争で力を実証する。しかし政
府は、一方で「家に関する項目」が、一家の主人、嗣子、独子、父兄に代っ
て家を治める者、養子等の兵役免除を規定していたのを改め、徴兵人員を増
やそうとする。他方は十一年の「軍人訓誡」十五年の「軍人勅論」により、
精神的に天皇・上官に対する服従へと導こうとした。その結果、十八年には
壮丁のほぼ半数が徴兵された。しかし、政府はそれで満足せずに二十二年に
徴兵令の大改正を行い「家に関する項目」を削り、また憲法二十条に「兵役
の義務」を揚げて国民皆兵の実質化を図った。
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| こよみ |
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明治までは、日本独自の暦としては渋川春海の貞享暦以来二百年足らずの歴史
しかなく、それ以前は宣明暦にもとづく中国暦が使用された。また、農事暦の
ような地域差のある生活暦が一般的であった。五年十一月に改暦の詔書が出さ
れたが、突然のことで、当時の暦分布業者が作っていた明治六年の暦三八〇万
部が売れ残ったという。この改暦により、政府は五年十二月分と六年にあるは
ずの閏月の分の二ヶ月の官吏の俸給が節約できた。当時政府は財政難におちい
っていたため、大隅重信等を中心とした財政関係者が急いで実施させたといわ
れる。
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| 祝祭日 (明治六年十月十四日) |
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1月 3日 元始祭 1月 5日 新年宴会 1月30日 孝明天皇祭 2月11日 紀元節 4月 3日 神武天皇祭 10月17日 神嘗祭 11月 3日 天長祭 11月23日 新嘗祭 |
| 仇討の禁止 |
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仇討は江戸時代においては、むしろ賞賛され、明治に入ってもなお「筋違外敵打」
のように評判になるものがあった。この三年に神田で起った事件は、水戸藩の兄弟
が父の仇を討ち、弾正台へ自首したものである。この件に関し、兄弟を助けたとし
て、京都の芸妓伊勢屋くまが京都府より表彰され、四十両程度の帯地一巻を受けた
という。しかし六年に、公的な罰則を私に行うものとして厳禁された。
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| 警察制度の変化 |
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徳川時代においては、幕府を支えた政治警察体制(目付等)は強力であった。それと
並んで一般警察として、裁判と警察が未分化な奉行所(与力・同心・岡引)の系列が
あり、また自身番・木戸番等の町人の自衛警察組織があった。維新の戦乱中は無警察
状態であったが、元年四月に尾・紀・薩・長等十二藩兵により江戸市中を巡邏させた。
二年十一月には府兵・県兵による取締に変えたが実効少なく、四年十月川路利良を中
心とし、取締組の組織を作った。五年にこれを邏卒と改称し、司法省に移し警保寮が
設置された。七年に警視庁が独立し、邏卒は巡査となった。
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| ランプ・ガス燈・電燈 |
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初めはランプ(洋燈)であった。それが明治四年に横浜でガス燈がともされ、東京でも
六年にガス製作所を起工し、七年に京橋から芝の金杉橋にかけて八十五基のガス燈を点
燈した。更に二十年には電燈会社が設立され、一般に電燈がつけられた。
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| 明治七年ごろの俗謡 |
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一に、異人館築地鉄砲州 ニには、日本橋往来三つ(車馬用の車道に上りと下りの人道) 三に、桜田(門外)調練場 四には、芝口岡蒸気(汽車) 五つ、御山内(増上寺)大教院 六つ、向ひは目がね橋(神田筋違の万世橋) 七つ、名におう三井のほてるかん(洋館) 八つ、山の手招魂社(九段、のちの靖国神社) 九つ、金ぴらさんは虎の門 十で、通りの煉瓦石(銀座)美事な婦人ぢゃみやしゃんせ |
| 郵便貯金のはじめ |
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元来、庶民金融の機関として「講」や「無尽」があった。明治になってこれに代わる貯金は、
まず郵便貯金が八年に東京・横浜で実施された。準備としては駅逓寮の職員に試行し、一定
の額を強制的に預けさせ、その安全性、利子等について実地に体験させている。預入の金額
は一人一年十銭以上百円、利率年三分、一円以下六ヶ月以内は利子がつかず不評であった。
また手続きも戸主の承諾が必要等煩雑である。しかし、局を増設し、宣伝文書を配り、利率
を上げ、九年に二千人の預金者が十二年には一万四千人になった。銀行が正式に貯金を扱う
のは十一年の第十国立、十三年の第一国立銀行以後である。
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| 幕末明治の国境 |
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樺太・千島は蝦夷と一括され松前氏の領地だったが、樺太は一八〇七年に幕府が直轄、一八
〇九年に間宮林蔵が島であることを発見(間宮海峡)。しかし、五一年にロシアは併合を宣
言、五四年の和親条約、六七年の樺太島仮条約は境界を分たず雑居地にしている。七五年、
千島樺太交換条約で確定させるが、日露戦争後に北緯五〇度以南を領有、第二次大戦後、サ
ンフランシスコ条約で放棄した。千島もほぼ同じだが、和親条約で得撫(ウルツブ)・択捉
(エトロフ)を境界に定めたこと、サンフランシスコ条約で放棄した地域に関して未解決で
あることが異なる。琉球は元来王国であり、江戸時代初期に島津氏が統治下に置くが、中国
への朝貢は止めず「日支両属」といわれる。維新後、廃藩置県により一応、鹿児島県に属す
が、翌七二年改めて琉球藩となり、七四年清朝への朝貢を禁じ明治の年号を強制する。藩庁
は「両属」を求めたが、七九年(明治十二年)に王城を武力占拠し、沖縄県として編入した。
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| 地方官会議・三新法 |
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明治の新政府は廃藩置県により、地方組織の基礎を固めたが、なお安定した地方制度の形成
には至らなかった。特に七年の自由民権の声に対しては、地方長官を議員とする立法議会の
開会を決めた。これが地方官会議で、第一回(八年)では地方民会議員の選出方法、第二回
(十一年)では府県会規則、地方税規則、郡区町村編制法のいわゆる三新法の制定を論じた。
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| 讒謗律・新聞紙条例 |
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共に言論の規則を目的としたものである。明治七年の民選議員設立建白以後の自由民権運動
は次第に政府批判を強め、新聞・雑誌でその主張を宣伝した。讒謗律は著作等で人を讒毀・
誹謗することを罪と定め、天皇や政府への批判を封じる役割を果たした(明治十三年刑法制
定により廃止)。新聞紙条例は、発行者の住所氏名を明記、教唆・政府変壊・国家顛覆・騒
乱扇動等に対して体刑を科すことを定めたもの。末広鉄腸らの果敢な反対にあうと、更に改
正し、発禁・停止条項を加え、その後も言論弾圧を強化した。(明治四十二年新聞紙法制定
により廃止)。
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| 幕末明治の新聞 |
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官板バタビア新聞(文久二年) 幕府の蕃書調所が翻訳を担当した本邦初の新聞。 中外新聞(慶応四年) 柳川春三が発行した時事新聞。同年六月に禁止になり明治二年三月に復刊した。柳川は、初 の雑誌である「西洋雑誌」も出版した。 横浜新聞(明治三年) 新聞会社発行の本邦初の日刊紙。 東京日日新聞(明治五年) 福地源一郎らの日刊紙。民権運動に批判的な立場である。現在の毎日新聞の前身。 郵便報知新聞(明治五年) 翌年から日刊になった改進党の新聞。のち報知新聞と改称し、やがて読売新聞と合併した。 朝野新聞(明治七年) 成島柳北・末広鉄腸らの論客を集めた時事新聞。日刊で明治二十六年に廃刊。 読売新聞(明治七年) 横浜新聞の子安峻を社長に民権派の論陣を張る。 東京絵入新聞(明治八年) 前身は平仮名絵入新聞で、独特の大衆性と民権派的な論調をもつ。 ほかに明治八年刊では「東京曙新聞」(民権派)、明治十一年に植木枝盛ら立志者の「土陽 新聞」、十二年に津田貞・村山竜平の「朝日新聞」、十五年に福沢諭吉・中上川彦次郎の「 時事新聞」、十九年に「やまと新聞」等がある。 |
| 野菜と果物 |
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在来から種類はあったにせよ、明治初年に勧業寮等が移入したのちに普及した。 エンドウ・トマト 五年ごろアメリカから良種が入る。 タマネギ・キャベツ 四年にアメリカから輸入。明治後半に消費が増えた。 ハクサイ 八年に中国から輸入。 リンゴ 五年にアメリカから。生産は大正以降に増加。 モモ・洋ナシ・サクランボ 七・八年の輸入。 |
| 役所の休日 |
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元来、五節句を祝祭日とし、その他に朔日(一日)を休日とすることが行われていたが、日本
全国の統一した休日というものは長い間存在せず、地域毎に別箇の休日があったものと見られ
る。休日を日曜にしたのは欧米に倣ったもので、まず外国人と交渉のある所から始まり、九年
に定められた。土曜を半ドンというのは、オランダ語の日曜がなまってドンタクになり、半日
休なので半ドンになったという。明治初年の官庁は「一六休暇」であり、漸次年末年始、盆、
暑休が加わったが、九年に統一された。
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