孝明天皇 
 こうめいてんのう 

第百二十一代天皇
 
  天保2年6月14日、仁孝天皇と第4皇子として正親町實徳邸で生まれる。母は権典侍雅子。  

  幼名を熈宮、諱は統仁(おきひと)、雅号を花春、此花。10歳で立太子、16歳で父の崩御を  

  受けて第121代天皇に即位した。この頃幕府では阿部正弘が老中首席にあり、幕府の政治  

  運営は譜代から成る老中合議によるものであったが、封建制度は次第に弱まり、西洋諸国  

  の艦船が日本沿岸に出没し、他の諸大名や朝廷の協力無くしては国政は立ち行かなくなり  

  つつあった。幕府の圧力のもと、累代の貧しい生活を強いられて来た公卿たちは、朝廷へ  

  の注目が高まると共に幕府や諸大名からの金品の贈与を受ける事により懐柔されてゆき、  

  御所内にしか起居した事のない孝明天皇は、周辺からの情報も乏しいまま勅許を出すとい  

  う事により、政治外交に立ち入らざるを得なくなっていった。「天皇は学問や芸術に専念  

  していればよい」という徳川幕府初期の強圧的な体制が自ら変化を遂げていたのである。  

  嘉永6年6月ペリーが浦賀に来航し、幕府はアメリカの強い交易要求を拒みきれず、朝廷  

  へ日米修好通商条約調印の勅許を奏請する。しかし、孝明天皇は長い鎖国後の日本を、外  

  国の侵入は許さない神聖な地、神国であり、「私の代で異人が我が国土へ足を踏み入れる  

  事は皇祖(天皇家代々の祖先)に対して申し訳が立たぬ」とまで考える程に諸外国を忌み  

  強い不快の念をもって幕府の申し出を却下した。朝廷の思わぬ対応に苦慮した幕府では、  

  諸大名合議のもと、という形をとり、大老井伊直弼の強行策により勅許を得ないままの修  

  好条約締結を断行する。孝明天皇はこの事に激怒して、一時は位を退く事も考え、また、  

  14代将軍には紀州の慶福(後の家茂)か水戸生まれの慶喜か、という将軍継嗣問題も含め  

  て、井伊の強権は特に水戸藩を中心とする尊皇攘夷派の強い幕政批判を生み、その弾圧が  

  安政の大獄に発展する。結果、亀裂の深まった朝廷と幕府の融和を図るため、井伊は「公  

  (朝廷)武(幕府)一和」、いわゆる公武合体策を画策し、新将軍となった家茂と、孝明  

  天皇の妹和宮の結婚を奏請する。幕府側の「アメリカとの条約締結は、武備を整えいずれ  

  外国を追い払うまでの一時的な措置」との釈明には、孝明天皇も不満ながら了承したが、  

  皇女の江戸下向は前例のない事であり、既に婚約者のある和宮自身も強い抵抗を示した。  

  万延元年に大老井伊は殺害されたが、さらに婚姻の実現を迫る幕府の執拗なまでの要求に  

  孝明天皇は抗しきれず、岩倉具視の進言を容れて「攘夷を決行するなら」との条件を、再  

  三の交渉で幕府に承諾させるに至るが、嫌がる妹の為に天皇は、退位もやむなしと苦悩す  

  る。これを知った和宮がついに降嫁を承諾、将軍と皇妹の結婚が実現した。この交渉を機  

  に朝廷が幕府の優位にたち、尊皇論が熱を帯び、長州を中心とする攘夷勢力が朝廷を抱き  

  こむ形で過激化してゆく。文久3年、家茂を上洛させた孝明天皇は上下両加茂社と石清水  

  八幡宮へ行幸して攘夷祈願を行う。近距離の行幸でさえ、天皇は宮廷外の風景の広さに驚  

  いたといわれる。朝廷内の尊攘派はこの行幸を機に、「攘夷決行は5月10日」と将軍家茂  

  に期限を決めさせる言質をとり、西国では馬関戦争や薩英戦争が勃発、さらに天皇の攘夷  

  親征の大和行幸までが計画された。しかし、当の孝明天皇は、攘夷は望んでいるものの、  

  それを過激に引用して倒幕にまで至らせようという意思は全くなかった。妹和宮の夫であ  

  る将軍家茂や、荒れる都の治安に尽力する京都守護職会津藩主、松平容保の誠実な忠勤を  

  身近に見て、特に容保へは、真に忠臣として信じている、と苦しい心中を明かす直筆の密  

  書を届けるほど、その「尊皇佐幕」ぶりを信頼したのである。  

  孝明天皇は尊攘倒幕の過激派を排除する事を決意し、ひそかに中川宮朝彦親王を通じて、  

  8月18日、突然に会津、薩摩を宮門の固めにつかせ、長州藩や三条実美ら尊攘過激派公卿  

  の追放と大和行幸の阻止を行わせた。この政変により、公武合体派が再び勢いを取り戻す。  

  しかし、その後兵庫開港を巡って諸外国の圧力が高まり、慶応元年には不本意ながら安政  

  条約の勅許に追い込まれる。国内には次第に倒幕的気運が高まりつつあったが、親幕府的  

  かつ保守的な考えの孝明天皇ある限り、この動きは表面上は抑えられてきたのである。こ  

  うした状況の中、天皇は慶応2年12月に突然天然痘を発病、一時期は回復と思われた24  

  日夜に病状が急変し、25日夜中に崩御した。享年36歳。この時の急死が異常であったため、  

  当初から毒殺、暗殺されたという説が囁かれた。孝明天皇の死を機に再び倒幕派公卿が復  

  権し、次の少年天皇(後の明治天皇)を迎えた朝廷内部は、大きく倒幕へと加担していく  

  事になるのである。慶応2年12月25日崩御  

■ 御 家 紋 ■




The music produced byDR(零式)さん
MIDI ON / OFF


佐幕人名鑑に戻る


このページは幕末維新新選組の著作物です。全てのページにおいて転載転用を禁じます。
Copyright©All Rights Reserved by Bakumatuisin Sinsengumi