久坂玄瑞 
 くさか げんずい 

長州藩士
 
  天保11年5月、萩藩寺社組本道医の久坂良迪次男として平安古(ひやこ)八軒屋に生まれる。  

  母は中井氏で名は富子(実は長門阿武郡生雲村大谷中左衛門女)。幼名秀三郎、文久3年よ  

  り通称を義助。諱を通武、誠。長兄玄機は、玄瑞より20才も年上で、藩の医師養成機関の  

  好生館の蘭学教授を務め、オランダ兵書の翻訳や自らの著書も多く出していた。秀三郎も  

  幼い頃より実家に近い吉松淳三の塾で学んでいたが、母を亡くした翌年の安政元年15歳の  

  時、兄が藩主の命でペリー再来後の海防献策を執筆中に病死、その初七日に父も急死する  

  という不幸により25石の藩医跡取りとして好生館に入り、名を玄瑞と改める。安政3年、  

  福岡から九州諸国を遊歴し、熊本で肥後藩の宮部鼎蔵と出会い、自藩の吉田松陰の思想を  

  知り、松下村塾への入門を決意した。幽囚中の松陰とは当初激しい書簡の往復が続いた。  

  これは玄瑞の非凡な才能を見抜いた松陰が「力を極めて弁駁致し候」と記したように期待  

  の表れであった。翌4年幽室への出入りが許されてからの玄瑞はその期待に応えたちまち  

  頭角を現しその才は「高からざるに非ず、且つ切直人にせまり度量またせまし、然れども  

  自ら人に愛せらるるは、潔烈の操これを行やるに美才を以ってし、且つ頑質なきが故なり」  

  「防長年少第一」「天下の英才」とまで師の松陰に激賞され、強く望まれて同年12月に松  

  陰の実家杉家の次妹文と結婚、同居した。安政5年正月江戸遊学を許され、桜田藩邸では  

  蘭書会読会に出席、西洋兵学を学び時事問題を語り合い、幕府の蕃書調所、伊東玄朴の象  

  先堂、村田蔵六の鳩居堂などに積極的に出入りし、梁川星巌、梅田雲浜とも交友。翌年2  

  月帰国後まもなく官費生として西洋学所(博習堂)に入学、7月に舎長となっている。  

  師の松陰は過激な思想で捕らわれ、江戸へ護送、刑死する事になるが、その後玄瑞を慕い  

  松陰門下生が集まり始め、再び村塾で定期的な勉強会を開くようになり、文久元年12月、  

  「一燈銭申合」を行い、村塾維持を決意し同志的結合と政治的集中をはかる。  

  翌2年正月土佐の坂本龍馬に託した武市瑞山宛の書簡に、玄瑞は「諸侯たのむに足らず、  

  公卿たのむに足らず。草莽志士糾合の外にはとても策これ無き事と、私共同志中、申合せ  

  居り候事に御座候。失敬ながら、尊藩も弊藩も滅亡しても大義なれば苦しからず。」と書  

  いている。尊攘の大義の為には貴方の藩(土佐)私の藩(長州)が滅ぼうと構わないとい  

  うのである。また2日後薩摩の樺山三円宛書簡には、「第一に現状では藩と藩が合体する  

  事は万々一にも不可能であるから、互いの藩政府を度外視して各藩の有志が相互に連絡し  

  て尊攘を実現すべき。第二に、大名の存続のみ懸念してきたが、大名の家が幾百万年続い  

  ても天朝の叡慮が貫かれなければ何にもならない。一日も早く天朝の叡慮を貫くよう尽力  

  すべき」とも書いている。幕府も大名や公家も当てには出来ない、国事には草莽の志士が  

  結束するしかないという論理は、晩年に松陰が到達した境地でもある。2月、佐世八十郎  

  (前原一誠)、品川弥二郎ら7名と血判。脱藩して尊攘の先鞭をつけようとし、3月には  

  藩の公武合体派であり「航海遠略策」発案者の重臣長井雅楽を「言語道断の振舞」と激烈  

  に批判、五ヶ条の罪状を挙げて、7月には伊藤俊輔(博文)らと共に暗殺を計画。11月に  

  は高杉晋作、志道聞多、品川弥二郎らと横浜外国公使襲撃を計画したがいずれも未遂に終  

  わる。直後に「攘夷血盟」を行い、12月に品川御殿山の英国公使館を焼き討ちした。  

  同年7月より長州藩は長井らの穏健な公武合体策を捨て、「尊攘」を藩是とし天皇、朝廷  

  への大義の為には幕府に背く事もあるという「破約攘夷」「即今攘夷」に突き進んでいた。  

  文久3年正月から3月にかけては藩の機構を改革整備し、幕府が朝廷に「攘夷期限」を約  

  束した5月10日の決行を間近に控えており、玄瑞ら在京尊攘派は4月、その報を受けて下  

  関の攘夷戦に加わるため帰国。馬関の戦端を開く先鋒を藩に願い出たが、藩はすでに派遣  

  した毛利能登の総奉行としての指揮権を玄瑞ら軽輩出身者が侵す事への怖れから敵情視察  

  を名目として別途に派遣。藩正規軍に対立して「有志組」と呼ばれる彼等は、光明寺に本  

  営を置き、公卿中山忠光を党首とする「光明寺党」を結成。玄瑞が指導者となり、党の中  

  心メンバーは「一燈銭申合」・「攘夷血盟」に参加した者らであり、これが間もなく高杉  

  晋作の手で誕生する「奇兵隊」の母体となる。しかし、長州藩独自の攘夷決行である米国  

  船砲撃は、後に外国船からの手痛い報復を受ける事となり結果的には失敗。京都では尊攘  

  派の過激を嫌った孝明天皇の叡慮を後ろ盾に、薩摩・会津の公武合体派が連合して「八月  

  十八日の政変」が起き、この時都から追われる「七卿落ち」に玄瑞も随行して、公卿らの  

  不遇をなぐさめる為即興で自作の歌を朗詠しそれが有名になったというが、京都奔走中に  

  深い仲となった島原廓内桔梗屋の抱え芸妓辰路(お辰)にもこの時に手紙を書き「軒端の  

  月の露とすむ さむき夕べは手枕に いのねられねば 橘の 匂へる妹の恋しけれ」との  

  歌も添えている。また佐々木ひろという女性には翌年の元治元年9月に島原で遺児秀次郎  

  が生まれており、この秀次郎をモデルに品川弥二郎らが助言し描かせたのが、鉢巻姿の現  

  在の肖像画である。古歌を踏まえたセンチメンタルな詩歌を詠み、国事に情熱的に奔走す  

  る玄瑞には、国元で待つ妻の文だけでなく深間になる女たちがいたという事であろう。  

  その元治元年、京都での失地回復の為、藩軍進発上洛を議論していた長州藩に、池田屋で  

  吉田稔麿、宮部鼎蔵ら大物志士が会津藩預りの浪士新選組によって一網打尽に斬殺される  

  という変報が届く。激昂した長州藩尊攘派はついに大挙率兵上洛し、玄瑞を始め、真木和  

  泉や入江九一らもこれに従った。意気軒昂な長州藩は伏見、嵯峨、山崎に続々と集結し、  

  武力入京は時期尚早として反対であった玄瑞も、7月19日の開戦(禁門の変)には参戦す  

  る事になる。蛤御門の変とも言われるが、尊皇を掲げて来た長州が、天皇の御所を激しい  

  銃砲戦におびやかし、公卿邸宅数十、市中焼失家屋2万8千とも言われる3日間の大火災  

  の災禍に巻き込み、敗北を喫し「朝敵」として追われる立場に及んだのである。戦火の最  

  中、平野国臣ら六角獄舎の反幕政治犯らも一度に処刑され、ここに伝統的・古典的な尊皇  

  攘夷派は壊滅する事となる。玄瑞自身は、戦闘中に流弾を膝に受けて負傷、寺島忠三郎と  

  鷹司邸に立てこもった。最期には「もうよかろう」と言って腹を裂き、自らの首を掻きき  

  って壮烈な自刃を遂げる。不可能と予見した雄藩連合による討幕と王政復古をその目で見  

  る事はなく、明治維新後に「久坂さんが生きていたら私は参議等と大きな顔はしていられ  

  ない」と薩摩の西郷をして言わしめた、という伝説的な高名が残る。早熟な天才の早すぎ  

  る死であった。享年25歳。  

  墓は京都東山霊山にあり、遺髪が萩の護国山墓地内の杉家墓所に埋葬され墓碑が建った。  

  法名は江月斎義天忠誠居士。  

■ 御 家 紋 ■




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