鯖江藩五代藩主 |
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文化元年2月19日、鯖江藩五代藩主、詮熙の第七子(三男)として |
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生まれる。母は、永田氏。幼名鉞之進、初め詮良と称した。 |
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兄詮允の死により、文化11年9月、11歳で家督を相続し、鯖江藩 |
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五万石の七代藩主となり、叔父の牧野貞喜(常陸笠間藩守)、山名良蕃、 |
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仙台久徳、酒井忠固らが後見人となりこれを補佐した。 |
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文化14年4月、将軍家斉に御目見えをすませ、翌年2月に元服、 |
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実名を詮勝と改めた。そして12月には、従五位、下総守に任ぜられ |
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藩においては倹約をすすめ、財政の立て直しに着手した。 |
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天保7年、大阪城代、同9年京都所司代をつとめる。京都所司代在職中、 |
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天皇御手許の増額や公卿の増給を建議したり、京の辻々に町名を書い |
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た札を立てるなどの便宜を図った。 |
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天保11年、西ノ丸老中に昇進したが、同14年9月、病気を理由に |
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老中職を解任された。これは天保の改革の推進者である老中首座水野 |
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忠邦との意見が合わなかったためといわれる。 |
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解任後の詮勝は、琴や碁、書画に親しみ、仏典の研究や写経をし、又 |
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藩政の充実を図り、藩財政の改革をし、海防策を整え、学業奨励など |
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に努めた。 |
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安政5年6月23日、罷免された堀田正睦に代わって、再び老中に |
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登用された。同7月6日、大老井伊直弼は無断条約の釈明を求める朝廷 |
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の沙汰書を受け取り、事情説明に間部を上京させると約束する。朝廷は |
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井伊の不遜な態度に怒り、京の攘夷熱はますます高まり、慶喜擁立に |
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失敗した一橋派も井伊排斥の運動をしていたこともあいまって、8月8日、 |
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幕府と水戸藩に戊午の密勅が降下した。また同時に井伊派の関白 |
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九条尚忠や、井伊直弼の腹心長野主膳に対する攻撃も表面化し、尚忠は |
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辞職に追い込まれた。そこで井伊は京都の粛清を決断し、条約調印の |
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説明と称し、京都所司代酒井忠義、次いで老中間部詮勝を上京させた。 |
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京ではすでに梅田雲浜が9月7日に逮捕され、弾圧は始まっていたが、 |
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間部の入京により、京での大獄は本格派することになる。 |
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安政5年9月17日、詮勝は「天下分目のご奉公」という決死の覚悟で |
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入京したという。寺町二条の妙満寺を宿所とするが、詮勝は病気を理由 |
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に参内せず、朝廷に対して無言の圧力を加え始める。長野主膳と協力し |
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在京の幕政批判勢力に対して弾圧の方策を進めた。京と江戸での弾圧 |
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同時進行の中、詮勝は関白九条尚忠を復活させ、10月には徳川家茂の |
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将軍宣下の勅許を得たことにより、入京より三十七日目にして参内し、 |
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九条関白に条約の無断締結を弁疏した。 |
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その後、京都所司代酒井忠義を督励して、尊皇攘夷派の公家や諸藩の |
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志士の逮捕の手を広げ反幕派の公卿や大名を隠退させ、幕吏を罷免し |
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志士の検挙など弾圧を進めた。 |
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安政5年12月に、孝明天皇にはじめて拝謁し、幕府が条約を締結した |
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事情を了承する旨の勅書を受けることができた。しかし、詮勝はなおも |
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滞京し、四卿の罪状摘発などの動きを見せる。 |
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安政6年2月、京都を発って帰府した。 |
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同年7月、米国公使ハリスと金銀貨幣の品目、量目問題について協議。 |
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安政6年12月、詮勝は井伊大老との間に大獄の朝廷処分問題などで |
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食い違いを生じ、老中を辞任した。 |
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安政7年3月3日、桜田門外の変で井伊大老が横死したことにより |
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安政の大獄の決着をみるが、文久2年には、大獄に加担した関係者の |
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処分が行われ、詮勝については領地一万石を召し上げられ隠居謹慎、 |
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家督は八代藩主間部詮実に相続された。 |
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その後の詮勝は政界から隠退し、松堂と号して、絵画や書、茶道、彫刻 |
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などを手がけ、文芸の遺品を多く残している。 |
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慶応元年5月、謹慎は解かれ、鯖江に帰国を命じられる。 |
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明治3年3月、東京向島の小梅村(墨田区)の間部邸に移り、明治17年 |
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11月28日に同所で亡くなった。享年81歳。 |
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法号、顕妙院殿本寿詮量日勝大居士 |
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墓は、千葉県市川市下総中山町、法華経寺。 |
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■ 御 家 紋 ■ |
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