龍源寺
JR三鷹駅より車返団地行きバス 龍源寺下車
(東京都三鷹市大沢六丁目三ノ十一)

写真左から近藤勇についての石碑、近藤勇の胸像これと同じ物が壬生寺、小島記念館にもある。
龍源寺、近藤勇の墓


徳川家光の時代に開基された曹洞宗の寺。近藤勇の生家・宮川家(調布市)からは二百
メートルの至近にあり、菩提寺である。境内は幼少の頃の勇にとって格好の遊び場であ
ったらしい。慶応四年四月二十五日に勇が板橋で処刑された三日後、そこに埋められた
首のない遺体を近藤の甥(後に娘のタマの婿となり天然理心流五代目となる)勇五郎や
長兄宮川音五郎及び分家の人たちの手で掘り出し、約二十キロの道のりをはこんでこの
龍源寺に埋葬したと伝わる。同寺は昭和五十九年に改装されたが、勇とツネ夫人の写真
や心身の鍛練に使った特大の木刀、勇の羽織袴、新選組の金銀出入帳などの遺品が残さ
れ、勇の胸像と、本堂裏には勇、勇五郎、タマなどの墓がある。

近藤勇生家跡

JR三鷹駅より車返団地行きバス 野川公園下車(龍源寺の次の停留所)
(東京都調布市野水一−六)
近藤勇の生家、宮川家は初代弥五左衛門が享保年間の武蔵野新田開発により移住したも
ので、人見街道と小金井道の岐路に位置した。屋敷は七千平方メートル(約二百十二坪)
母屋の二、三階は蚕室であった。他に蔵座敷、文庫蔵などの建物、庭内南側中門をくぐ
ると築山、西側裏門を出ると竹林であった。屋敷の周囲には欅や樫の大樹が植えられ、
夏は往来の人々が木陰に涼を求めたという。昭和十八年、調布飛行場建設のため、軍部
の命で屋敷は解体、樹木は伐採された。この時撮影された近藤勇生家古写真が流布して
いる。現在は勇が産湯に使ったという井戸が残っている。昭和五十二年、近藤勇生家跡
として調布市史跡に指定、縮尺三十分の一の生家復元模型が調布市郷土博物館(調布市
小島町三−二十六−二)に常時展示されている。
 


近藤神社

JR三鷹駅より車返団地行きバス 野川公園下車(龍源寺の次の停留所)
大きな社ではないが近藤 勇を祀った神社が生家跡の
敷地内にある。「近藤 勇の様に強くなれる様に神社へお参りして来た」とは
多摩の剣道を志す少年たちの合い言葉である。
   


撥雲館(近藤道場)

JR三鷹駅より車返団地行きバス 野川公園下車(龍源寺の次の停留所)
勇五郎は実父から分け与えられた屋敷内の納屋を明治9年から道場としていた。
この道場が撥雲館である。その名の由来はある時ここを訪れた、山岡鉄舟が
命名し看板に揮毫したと伝えられている。撥という字は取り除くという意味
を持っているが撥雲という館名は暗雲を取り除くと言う意味で当時の世相から
うなずけるものがある。撥雲館はその後手狭になった為、門下生の協力で
昭和7年北側空き地に改築し、盛大な道場開きが行われた。しかし勇五郎は翌年、
83才で亡くなった。勇五郎は勇の弟子となり天然理心流五代目を襲名した。
その後も道場は門人達の手で維持され、稽古は続けられてきた。太平洋戦争が
始まり調布飛行場の建設に伴う、勇五郎宅取り壊しの際にも、門人達の熱意に
よって、道場は勇五郎の娘の嫁ぎ先である東隣の峯岸家の土地に移築された。
更に戦後になって人見街道の拡幅の為、再移転する時再び近藤家敷地内の
現在地に移築され今日に至っている。


   



新選組 故郷編へ



新選組屯所へ戻る



このページは幕末維新新選組の著作物です。全てのページにおいて転載転用を禁じます。
Copyright©All Rights Reserved by Bakumatuisin Sinsengumi