井上聞多
いのうえ もんた

長州藩士
 
天保6年11月28日 周防国吉敷郡湯田村の長州藩士、井上光亨の次男に
 
生まれる。幼名勇吉または、友次郎。後に、馨。号は世外。井上家は田地
 
一町、畑四ー五反を持つ百石の地侍であり、幼少時代は農耕に従事していた。
 
17歳のとき、藩校明倫館に学ぶ。21歳のとき、二百五十石取りの藩士
 
志道家の養子となる。藩主の参勤交代に従い江戸に上り蘭学を学び、江川太
 
郎左衛門の塾に砲術を学ぶなど、海防に目を向けた。万延元年、藩主毛利敬
 
親の小姓役となり、聞多の名を賜った。以後専ら、藩主毛利敬親や藩世子の
 
定広の側近に侍して、江戸と萩との間を往復した。一方では藩からイギリス
 
海軍の研究を命じられたり、イギリス船の購入にあたったりしながら、他方
 
では藩の尊王攘夷派青年藩士たちの中心人物の一人として活躍した。
 
文久2年、藩論が攘夷に決すると高杉晋作と外国公使襲撃を計画したが失敗。
 
さらに、江戸品川御殿山のイギリス公使館を焼き討ちにした。
 
文久3年、志道家から井上家に復帰する。同年、藩が馬関で攘夷実行を行う
 
さなか、藩命で伊藤博文、井上勝、山尾庸三らと英国船でロンドンに密航し
 
たが、元治元年、四国連合艦隊の下関攻撃計画を知り急遽伊藤と帰国。幕府
 
の第一次征長と連合艦隊攻撃の間にある長州藩のために講和を周旋した。こ
 
の間、元治元年9月25日、藩是を決する会議からの帰途、反対派刺客に
 
襲われ重傷を負うが、奇跡的に一命をとりとめる。
 
慶応元年、高杉が騎兵隊をはじめとする諸隊を率いて、藩政権奪取の反乱を
 
おこしたとき、井上は諸隊の一つ鴻城軍総督となり、以後、長州討幕運動に
 
参画した。
 
明治元年以後の新政府では、参与、外国事務掛、会計官判事、造幣頭、民部
 
大輔などを経て、大蔵大輔となる。若い頃よりその金銭調達には如才なく、
 
明治4年、岩倉具視一行の洋行送別会の席上、当時大蔵省の中枢にいた井上
 
が三井財閥とべったり癒着していることを周知の上で、西郷隆盛が井上のこ
 
とを「三井の番頭さん」と呼んだと言われる。
 
明治6年、各省の政費増加を不可として、渋沢栄一とともに辞職した。また、
 
尾去沢銅山事件などに関与し、先収会社を興し、実業にも手をのばす。明治
 
8年、元老院議官となり、翌9年、特命副全権弁理大使として江華条約を結
 
び、同年渡欧して、明治11年帰国した。以後、参議兼工部卿、法制局長官、
 
外務卿などになり、条約改正に尽力する。
 
明治18年の第一次伊藤博文内閣では、外相として鹿鳴館時代を現出させる
 
などの欧化対策をとり、批判を受けて辞職。その後、農商務、内務、大蔵の
 
各大臣を歴任し、明治34年には、組閣の命を受けたが失敗し、晩年は、
 
元老の一人として政界に臨んだ。
 
大正4年9月1日、病没。享年80歳。
 
■ 御 家 紋 ■
 

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