源さん、惚れられる (後編)

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(三) 向 か い 蝶





 その年もそろそろ終わりが見え始めているという頃だったろう。この時期の新選組は、
新たに花昌町という場所へ屯所を新築、移転という大事を控えて、担当の者はそれぞれに
忙しい。壬生の郷士屋敷、京都最大級の古寺、そして今度の屯所は今までの間借り(とい
って、家賃を払っているわけではなく、居座りなのであるが)ではなく、正真正銘の自邸、
しかも、そこらの大名屋敷顔負けという豪壮なものになる予定というのだから、これだけ
をみても登り龍なみの出世である。
 余談だが、その資金は現在、庇を貸して母屋をとられる、とまではいかないものの、寺
に似つかわしくない新選組の騒々しさにほとほと手を焼いている西本願寺が資金面での筆
頭出資者となっており、要するにのしをつけても出て行ってほしいというのが正直なとこ
ろなのだが、その他、周辺の各種豪商などからも相応の寄付が集まって、新築工事は行わ
れた。
 池田屋の死闘で名をあげた直後、幕府からは「功を認めて、近藤勇を与力上席に取りた
てとする」、いや、「してやってもよい」という位の扱いしか受けなかったものだが、そ
の不当に低い評価を蹴って独自の活動を続けてきた結果、今では、正式に直参旗本への取
り立てをという話が来ている頃でもある。池田屋事件から二、三年と考えれば、異例の大
出世と世間は見るはずであった。
 もっとも、幕府がそうして腰を低くしてまで、浪士の新選組の戦力と威勢ををわがもの
にしたがる、というのは、逆に考えると権威の失墜が急激に進んでいるということでもあ
り、手放しで喜んでいいかどうかはわからない。
 以上、非常に大雑把な時勢の説明である。が、本編とはまださほど関わりがない。
 この時も、まだ西本願寺にある新選組の屯所では、副長の土方が、監察の山崎烝と諸事
打ち合わせを行っていた。堅い話が一通り済んだところで、土方はいれかえたばかりの熱
い茶をひとくち飲んだあと、そういえば、とふと思い出したように言った。
「井上さんの、お通いどころはどうなったのかね。」
とは、この男にしては珍しく柔らかい表現である。勿論、「通う」というのは単独で使わ
れる場合、それだけで「男が女のもとに」という艶めいた意味合いを持つ。
「はあ。例の、六角通りの煙草屋ですか。」
 山崎は、笑わない。仕事柄、土方副長の冗談にはうかつに乗らない方がいいのである。
常に冗談めかした受け答えが出来るのは、前出の沖田総司くらいなものだろう。
「組頭の身でありながら、泊まらずに帰ってくるあたりがあの人らしい。」
「弟の銀次というのに、遠慮なさっているのでしょう。」
と、答えると土方はちょっと首をひねって、
「姉弟だというのを、信じているのかね。」
「そのようです。」
山崎の答えには、およそ無駄というものがない。土方はふと苦笑して、
「男と二人で住んでいる女の言葉を信じるなんざ、人のいいにもほどがある。」
と言った。確かに自分なら、即座にお袖の言うような関係を疑ってかかるだろう。
「井上先生は、あの二人の素性について何もご存じではありませんから。ただ、時々遊
びに行って、茶飲み話をして帰る、それだけの間柄のようです。」
と、山崎は、まるで調べものの帳面を読んでいるかのように、淡々と話す。この男の、
大小さまざまな事柄に対する記憶力ほど、隊にとって目に見えぬ戦力になっているもの
も少ない。ただ、九割方の隊士は、山崎がどんな男で、どういう役に立っているのかと
いうことすら知らない。それで、後年になっても、山崎に関した談話や挿話などに、目
立った活躍ぶりが残っていなかったりするのだが、実際、土方とはこうした些末な話題
まで的確な相談相手になる。
 茶飲み話、という言葉を聞いて土方は、
「いくらなんでも、まだそこまで老け込むことはないと思うがね。」
「しかし、事実そうとしか言いようがないのですから、仕方ありません。」
「ふむ。」
「まあ、おかしな筋の密偵でないことだけはわかりましたから……それ以上は、私とし
ても井上先生のおつきあいに首をつっこむわけにまいりません。」
「おかしな筋か。」
 土方は、隊務と同じような口調で答えている山崎のきまじめさに、つい声を立てて笑
った。
「新選組とスリの仲間、このほうがよほど、おかしな関わり合いじゃないのかね。」
山崎はちょっと困ったような顔をしたが、
「は。しかし、女のほうも、近頃は稼業をやめているようです。井上先生の誠実なお人
柄にうたれて、まじめにやっているのかもしれません。」
「ふふ。まあ、源さんのことだ。知らぬが仏さ。山崎君、このこと……。」
「は。口外いたしません。」
 春頃、幹部で旧知の大先輩である井上に、正体不明の町の女が親しげに近づいてきた
と知って、土方は当の井上に尋ねただけでは物足りず、監察の山崎には、それとない事
情調査まで依頼していたのである。何につけても状況を知りたがるのはこの男の癖とい
うか、職業病に近いものかもしれないが、反面、個人として井上のことを心配する、と
いった、らしくない一面もある。
 山崎は、土方に似たりよったりの無口で通った人間だが、これも無類の仕事好きな男
だから、多忙な公務の合間を縫って、六角通りの煙草屋に住むお袖とその周辺の内幕ま
で、ちゃんと調べ上げて自分の頭の引き出しにしまってあるし、「あれはどこだっけ」
と聞かれれば、そこから必要なものだけを取り出して提示することができる。確かに、
井上のいうとおり「利口でなくっちゃつとまらねえ」これらの男たちが、新選組独自の
営みを支えてきているのだ。
 その話が終わったと同時に、平同士の一人が、急ぎ足で部屋の外に来た。廊下から、
「お話し中、失礼いたします。今、町役人から知らせがまいりました。」
「うむ。」
「五条橋下に隊士らしき者の死体がある、お調べ願いたいと。」
「何。」
指示するまでもなく、山崎が間を置かずに言った。
「副長。検分にまいります。」
「うむ。」
 二人とも、仕事の顔に戻っている。

 さて、場面変わって噂の煙草屋では、銀次がいくぶん興奮したおももちで、江戸からの
飛脚の文を手に、お袖に告げている。
「姐さん、来ましたで。例の……善平衛お頭の、手切れの金。」
「へえ……。すっかり忘れてた。いくらだい。」
と、お袖には、当初の鼻息の荒さがない。確かに忘れた頃というほどの日にちは経ってい
たのだが。
「なんと、三百両や。」
「ふうん。あの爺ィにしちゃ、はりこんだじゃないか。」
 日数が経ったのには、自分の持ち物のひとつ、と思ってきた女が、思いがけず正面きっ
て噛みついてきたことに対する動揺だの怒りだの、お袖が善平衛にかかせてやろうとした
通りの赤っ恥だの、それを払拭するための金の工面やら、いろいろな事情があるだろう。
自分で仕組んだこととはいえ、お袖は金を送りつけたあとの今となっては、すでに、すっ
かり白けてしまっている。
「よっぽど、姐さんの脅しがきいたんでっしゃろ。」
 銀次は、先行投資が思わぬ収穫に膨らんで、対照的に機嫌よく笑っている。まあ、この
男に任せておけば大金の運用もぬかりはないのだろう。お袖はさめた口ぶりで、
「よしとくれよ。あたしゃもう……本当に、善平衛が女と子供を可愛がって、のんびりと
やっててくれりゃあ、それでいいような気がしてるんだ。」
 銀次は「おや、」と言ったあと、にやにやして、
「……姐さん、やっぱり、仏の源さんに毒気を抜かれましたなあ。」
「馬鹿。」
 ふん、とそっぽを向くと、お袖は二階に上がった。近頃は、暇つぶしがてら人相、手相
の詳しい手引き書を読んだりしている。
(あたしも、いつまで指先ひとつで食えたかわかったもんじゃないんだ。人を見る目だけ
は、おかげさまで自信があるもんね。)
 お袖は近頃、本気で女占い師にでもなろうかと思うことがある。
(嘘から出たまこと……ってやつさ。)
くすくす笑った。その目元に、確かに以前の毒気がない。

 その「誠」の文字を記した提灯を持って、井上は時々、ふらりとやってくる。
 だがその夕刻は、
「なんだか、お疲れのようでんな。」
と、銀次が思わずのぞきこんだほど、井上の表情が暗い。
 まさか副長の土方に、新選組のことを話さないようにする、と約束したせいでもなかろ
うが、何があったのかということについても、いつに増して口が重かった。
 だがお袖と銀次、このしたたか者二人にかかってはまさしく、井上の腹を探るなどとい
うのは赤子の手をひねるというほど容易なことで、いつしか、ため息まじりにこう、告白
した。
「先日……わしの、六番隊の佐野という若い者が、斬られてなあ。」
「おや、まあ。」
お袖が声をあげた。直接の知り合いではないにしろ、井上のよもやま話の合間には、何度
か出てきた若者の名である。それが、斬殺されたのであった。
 井上が直接に関わった血生臭い事件の話を聞いたのは、二人とも久々のことであり、つ
いいつもとは違う深刻な表情になる。井上は、それを案じて言いたがらなかったらしい。
 その事件というのは、土方と山崎が先頃に報告を受けていた、「五条橋下の死体」のこ
とである。暗い川辺のこととあって、発見に手間取ったものらしい。二人連れの町民が、
ふと酔いまぎれに下をのぞきこむことがなかったら、朝まで見つからなかったはずだとい
うことだった。幸いその町民が親切で、こわごわとそばへ寄った時には、わずかに息があ
ったというのだが、町役人の到着を待つまでの間に絶命した。左の首筋からの見事な袈裟
掛けによる一刀が致命傷で、夥しい出血が川の流れにまでつたっていたという。
 その夜は六番隊が非番で、佐野が夕刻に一人で出かけたあとの行動を知る者は隊内にな
く、しかし平同士の外泊は認められていないから、無断での遅刻を井上らが危惧していた
時分になって、知らせが入ったのだ。                     むくろ
 先に検分に行っていたのは監察の山崎で、上長である井上は、戸板の上でむざんな骸と
化した佐野の姿に対面することになって、思わず茫然とした。つい、昼の巡察を終わるま
ではぴんぴんしていた男なのである。
 また、井上は偶然にもその夜の非番に六番隊の部下数人を誘って例の居酒屋に出かけて
いたという。佐野は、所用があるからと断ってすまなそうに微笑していた。それが、生前
言葉を交わした最後になった。もしも井上が強く誘って同行していれば、もちろんこうい
う事態にはなっていなかったはずだ、と、その点が頭にひっかかってしょうがない、とい
うところまで井上は語った。
 ふう、とひと息つくと、井上は、
「下手人がわからんのさ。」
渋い声音で言った。お袖が眉をひそめて、
「手掛かりもないんですか。」
「いや。佐野が息を引き取る前に、『向かい蝶』」と、言ったというんだよ。恐らく、斬
った男の紋所だと思うんだがね。」
「向かい蝶……はて、それだけでは、どこの男や、わかりまへんな。」
 向かい蝶というのは、家紋などに使われる意匠のひとつで、両の羽を広げた蝶が、文字
通り左右から向かい合って、全体としてひとつの円形の中に収まっている。種類がいくつ
かあり、ただ「向かい蝶」というだけならさほど珍しい文様ではない。
「そう。お袖さんに、占ってほしい位さ。」
 井上は、沈んだ笑いを漏らした。
「………。」
 お袖は、わずかに目を伏せた。
「気のいい男だったが……可哀相に、まだ二十五だったよ。毎度のことだが、若い人が先
に死ぬのは、かなわんね。」
とつぶやく井上がいつもより更に老け込んだように見え、お袖は黙っている。

 井上が邪魔したね、といつもの挨拶を残して帰ったあと、お袖は真剣な顔をして、銀次
に向かい合っている。
「銀次……いえ、銀さん。あたしの頼み、きいてくれるかい。」
例の、きつい眼をきっと上げている。
「今さら。きけへん、いうてもきかんなりまへんのやろ。何でっか。」
「京、大坂じゅうの仲間に聞き込んで、向かい蝶の男を探すんだよ。」
 銀次は、
「本気でっか。」
と苦笑した。もっとも、つなぎでそう言っただけで、本気らしいのは察している。
 お袖は少し身を乗り出して、
「井上様はああ言ったが、まさか新選組を斬ったほどの奴が今もおたずね者の紋所をはり
つけて歩いてるとは思えない。きっと紋を違えて着ているか、無紋で歩いているはずさ。
それに、そもそもその向かい蝶っていうのが、侍の家紋とは限らないじゃないか。」
「ああ……。」
 確かに、向い蝶は名も絵柄も美しいから、家紋の他にも使われている可能性は大きい。
侍の着物にはりついているだけとは限らない。
「新選組の探索方が探しても見つからない、となれば……あたしらにはあたしらにしか出
来ないような、人探しのしかたがあるはずさ。蛇の道はヘビ、裏道には裏道さ。」
「ふむ。そら、そうでんな。」
またも曖昧なうなずきかたである。
「それに、その亡くなった佐野というお人……刀をあらためたら、血がついていたと言っ
ていた。おそらく、相手の男も多少の傷は負ったはず。そうとなりゃ探しようはある。死
んでいるか、早々と上方を離れてでもいない限り、湯屋にも行けば女も抱くだろう。他人
に、肌を見せる時がきっとある。」
「新しい怪我をしている男、ちゅうことでんな。」
「その中で、向かい蝶と関わりのありそうな男……しかも、剣の腕がたちそうな奴を探す
んだよ。」
「姐さんらしゅうもない……人だすけでっか。」
「源さんに、一つくらいは手柄を立てさせてやりたいじゃないか。組下の人が死んだのを、
まるで自分のせいみたいに思ってるんだよ。」
「………。」
 銀次はやれやれ、という顔をして黙ったあと、いつもより長いため息をついた。
「上方もんは、ただでは動きまへんで。」
「あの三百両の中から、礼金を出せばいいさ。どうせあぶく銭だ。」
今度はほっ、と軽いため息になって、
「なるべく、早いとこ見つかるように手をうちまっさ。」
「恩に着る。」
お袖は、両手をぱっと合わせている。
「なんの。つまらんことに銭使うて目減りするのんが、勿体ないだけですがな。」
 銀次は、明日にでも両替屋に行ってこなくては、とぼやきながら、一番上物の煙草を吸
い始めた。



2 

 しばらく月日が過ぎた。で、当の井上は、非番の日には一人で町のあちこちを歩き、向
かい蝶の紋所の男を探している。途中、町人の格好で探索中の山崎に会うと、手をあげて、
「よ。」
とつい気軽に言った。山崎はぎょっとして井上を近くの路地に連れ込み、
「井上先生。困りますな。私がこういうなりでいる時は、お声をおかけにならぬように、
願います。」
やむなく、小言を言った。
 新選組の探索活動の指揮をしている山崎が、自らその身分を隠して人に会ったりする必
要に迫られた時は、前身の町民に外見を改めなくてはならないことがある。まげを直させ
る髪結いの者まで、わざわざ息のかかった人間を選ぶほどに細心の注意を払っているとい
うのに、そう簡単に公道で素性をばらされては、たまったものではない。
 井上は頭を掻いて、
「そうだった、すまん。しかし佐野君を斬った男は、まだ見つからんのかね。」
「その件も、あわせて探っておりますから。」
なだめるように言った。山崎も、井上のような素直な人のほうが扱いに困るらしい。
「早くやってもらわにゃあ、困る。」
「お言葉ですが……われわれ監察も、万能ではありません。何しろ、手掛かりが少ないの
です。」
「そりゃあそうだが。」
「とにかく……あまり、あせってお動きにならぬように。頼みますよ。」
山崎は、拝むようにして路地を足早に出て行った。
 
 その夜の新選組屯所では、沖田総司が、自室の布団で、薬を飲んでいる。井上が歩き疲
れた顔で入ってくる。
「井上さん。どうでした、向かい蝶の男は。」
 ねぎらうように言った。持病持ちの自分より、この先輩はよほどぐったりした顔をして
いる。ちなみに沖田は、土方歳三よりこの井上のほうがつきあいが古い。姉の夫の親類で
もあり、道場のお兄さん、というよりは、「親戚のおじさん」に似たような、特別な親し
みがある。
「それらしいのは、おらんなあ。」
 その、源三郎おじさんがぼやいている。
「そうですか。もし見つかったら、私も加勢しますから、必ず声をかけて下さいよ。佐野
君のやられたあとを見たが、なかなかの腕だ。」
と、沖田は剣客らしい分析を加えた。
「うむ。その時ゃ、頼むよ。佐野君のかたきをうちにいって、返り討ちにあったんじゃあ、
仕方ねえ。」
「そんなことになったら、近藤、土方両先生が、二度と多摩の郷里へ帰れなくなってしま
うとおっしゃっていましたよ。」
 濃いつながりを持つ多摩の郷党に対して、面目丸つぶれになる、ということだろう。
 井上はさきに、自分のことを隊の重要人物でもない、と謙遜したが、郷党の後輩である
近藤、土方、沖田にとっては、充分に重要な人間なのであった。

 一方のお袖も、井上同様、じりじりしながら毎日を過ごしている。自分でも町を歩いて、
帰って来るなり、やつあたりそのものの剣幕でまくしたてた。
「銀。やい銀の字。まだ、何もつかめないのかい。もたもたしてたら、わからなくなっち
まうよ。」
「頼んだ時は、銀さん言うてたくせに……。」
銀次はそうつぶやいてから、帳場の小引出しを開け、中から手拭いをさし出している。
「なんだい、これ……あっ。」
いかにも女物らしい淡い紅色の地に、向かい蝶の紋が大きくひとつ染め抜いてある。
「こ、これは……。」
「存外近いところから出ましたで。宮川町の芸妓で、帰蝶という女がいてます。」
 銀次はわずかに口のはしで笑った。手拭のはしに、柔らかな崩し字で「きてふ」とある。
「この女が粋な趣味で、ひいきのお客に名入りの手拭いを配ってやるそうやが、ただのお
客には一匹の蝶。その中でも自分から選んで惚れた男にだけは、別誂えの双つ蝶々……。
つまり、その向かい蝶の手拭いを渡すのやそうですわ。なるほど、そう言われれば向かい
蝶の紋は、仲良う手をとりおうた男女の図柄に見えんこともおまへんな。」
「じゃあ、数は限られてるんだね。」
「そう。その帰蝶に金をやって吐かせたところ、近頃向かい蝶の手拭いを渡した男といえ
ば、死んだ佐野はんと、土佐藩邸に出入りしている浪人の、片岡重太郎。剣の使い手は、
その二人だけやそうです。」
「二人とも、帰蝶のいろだったというわけかい。」
「へえ。古いのは片岡のほうで、若い佐野はんは帰蝶の新しい隠し男やったそうですわ。」
 当時の芸妓はたいがいそれなりの旦那(パトロン)を持って商売をしているが、若い女の
場合、こっそりと秘密の恋人を作って日々のなぐさめにする者も珍しくはない。それが、
帰蝶という女には二人もいた、というわけである。
「まあ、恋のさや当て……喧嘩の原因はそんなところでっしゃろ。その片岡……ひと月ほ
ど前に女のところに来たときには、左の二の腕に、晒を巻いていたそうですわ。もっとも、
することはしたそうやさかい、大した怪我ではなかったようやけども。」
 間違いない。お袖は目つきを鋭くして、
「その男……居場所は。」
「姐さん。……おかしな事考えたら、あきまへんで。人斬り同志の争いに首つっこむなん
て……堪忍してや。」
 銀次は、苦い顔をした。





 数日後の夜。場所は祇園にほど近い、出会い茶屋の並ぶ町のはずれである。
 夜目にも、かなり濃い色の京紅を唇に乗せて、小さな水路のそばに立つお袖がいる。
 一人、酔った足取りの男が細い道すじから歩いてくるのをみとめると、いつものように
音もなくすい、と歩み始めた。相手は長身で、やせてはいるが肩や四肢の動きに、剣客独
特の特徴のある浪人者である。
 身なりは、さほど洒落たというものは着ていない。金持ちの客ではない。
 お袖は先回りをして、いくらかゆらゆらした男の歩き方にとまどって、すれ違いざまに
ぶつかりそうになったふりをしながら、ぽんと肩をぶつけている。今日の狙いは財布では
ない。男が懐にしのばせた、向かい蝶の手拭いであった。
「おっと……ごめんなさい。」
「気をつけろ。」
 男はさすがに、怪しんで懐に手を入れたが、財布があるので安心したらしい。そのまま、
芸妓の帰蝶と待ち合わせているはずの出会い茶屋の方へ歩いていった。
 そう、この浪人が片岡重太郎である。
「………。」
 お袖は、近くで待たせていた仲間の安吉のところに戻り、用意していた文の中に手拭を
包んで渡すと、
「いいね。新選組の屯所に走るんだよ。」
「姐さんは。」
ごく小さな声で、安吉が尋ねる。
「手筈通りさ。もし、井上様が着く前にあの男が出てきちまったら、なんとか言いくるめ
て、あの『花むら』という茶屋に連れていく。お前はここに戻って、あたしが立っていな
かったら、新選組の人数を『花むら』の方へお連れするんだ。わかったね、間違えるんじ
ゃないよ。」
「承知。」
 安吉は、夜の闇を駆けだしている。

 その新選組、屯所。井上は早くに寝ていたが、門番をしていた若い隊士が起こしに来た。
「井上先生。」
「うむ……何かね。」
「はい。今、若い男が……これを投げ込んでいきました。」
 と、隊士が差し出した文には、表に「火急の知らせ、必ず必ず、井上源三郎さまへ」と
書いてある。
「なんだろう……はて。」
 開けてみると、淡紅色の手拭いが滑り落ちた。

 井上は、すぐ近くの沖田総司の部屋をたずねている。
「『向かい蝶の男、見つかり候。』と書いてある。誰だかしらんが……そこへ行ってみよ
うと思うがね。」
「………。わかりました。」
 沖田はにこっと笑って、刀を手にとっている。
「あいにく、勇先生も歳さんも、留守だ。にせの投げ文で隊士を動かしたとあっちゃ、後
で叱られるかもしれねえ。どうする?」
「いいですよ、私ひとりで。そういう場所なら、小人数のほうが動きやすい。もしも嘘だ
ったら、こっそり帰ってきましょうよ。」
「ああ。何、総司さえいりゃあ、百人力だ。」
「おだてるなあ。」
沖田は、部屋の明かりで目釘を確かめながら、日頃と変わらない笑顔を見せた。

 一方、路上に待つお袖。
 片岡は思ったより早く、出会い茶屋から出て、歩いてきた。むっとした顔をしている。
だが安吉はまだ戻らない。
 お袖は、何気なく歩を進めて近づくと、しどけない声を出した。
「旦那。ふられたようですねえ。」
「何。」
 男がふりかえった。芸妓の間夫になるくらいだから、そんなに悪い目鼻立ちではない。
しかし、削げたような頬のあたり、どこかに油断ならない翳を持っている。
「そういうお顔さ。あたしゃ、男の顔色を見るのが得意なんだ。」
 むろん、嫌がる帰蝶をくどいて、片岡重太郎呼び出しの文を書かせたのはお袖である。
女は災厄を恐れて、来るはずがないのはわかっている。
「おまえ、何者だ。」
「あたしも、待ち人がこなかったのさ。ねえ……。」
 お袖はツ、と片岡によりそった。
「せっかくそのつもりで出てきたんだ。淋しい者どうし、仲良くしましょうよ。」
「新手の客引きかね。」
「いやだよ、馬鹿馬鹿しい。こう見えて、金には困っていないんだ。なぐさめてくれるの
なら、お代はあたしが持ってやるよ。」
いつもの、男を金で買うような口ぶりが出た。確かに、浪人ふぜいを客に取るような懐で
はない。
 片岡という男はちょっと考えてから、案外素直に、
「……よかろう。」
とうなずいた。待ち合わせたはずの芸妓にふられて、色欲は置き去りにされたままだった
のである。ここでゆきずりの女の誘いに乗って、その目的を果たすのも一興だ、と思った
のだろう。その点、やはり武士としては少し、良識が崩れている。
「そこの、『花むら』っていうのがあたしの定宿です。いいでしょ?」
「いや。今出てきた『泉屋』がいい。俺は、あそこにしか入らぬ。」
「………。」
 お袖は、つとめて相手の機嫌を損なわぬよう注意をしながら、
「だって、一度出てきた店じゃ決まりが悪いんじゃありませんか。」
女にすっぽかされて、すごすごと出て来た後だから、という意味である。だが片岡は、そ
ちらの手には引っかからなかった。
「素性も知れぬ女と、初めての店に入るほど馬鹿じゃないぜ。」
「おや、疑り深いんですね。」
 片岡はにや、と笑って、お袖の腰のあたりを抱き寄せ、そのまま、元来た「泉屋」の入
口に向かって歩き始めた。お袖は内心、ひやりとしている。
(困った……。)
 しかたなく歩くと、暗がりから、手拭でさりげなく顔を隠した町人の男が、すれ違おう
としている。
 ふいに、声をかけられた。
「おや、姐さん……お楽しみでんな。」
とは、さっき家を出るまで見てきた顔である。
(銀次。)
 お袖は驚いている。が、平気なふりで、
「そっちこそ。」
と、言って行き過ぎた。
 深入りを反対する銀次には内緒で、お袖は今夜のことを画策したのである。つなぎに使
った安吉にも口止めをしておいたはずなのに、どこで嗅ぎつけたものだろう。
「知り合いか。」
腰に手を回したままの片岡が、低い声で尋ねると、
「同じ茶屋で、よく行き合わせる顔ですよ。ふん、見ぬふりをすりゃあいいものを。」
と、この町並みに似合う嘘をついた。
「好き者らしいな。」
片岡は笑った。男女の密会用に作られたこのあたりの茶屋で、顔馴染までいるとすれば、
それほど使う頻度が多いということになる。
 お袖と片岡は、「泉屋」の門をくぐっていった。
 銀次はようやく振り返り、
「ほんまに、無茶しよるで。」
と、月明かりの下でぼやいている。

 少し後、茶屋「泉屋」。
 お袖は、初めて揚がる店にも関わらず、一番上等の奥まった部屋を頼み、多めの酒をあ
わせて注文した。払いは泊まりで構わないよ、とも言ってある。こういった場所でのふる
まいには慣れている。
 芸妓の帰蝶が、人目を盗んで男たちを呼び出すような種類の店だから、相応に中はきれ
いで、静かでもある。
 案内されたのは角部屋で、廊下から障子を開けて入ると、こじんまりした床の間つきの
ごく普通の落ち着いた一室があり、ごくあっさりとした色合いの山水の軸や、紅、白梅の
枝が花器に生けられている。鏡台や違い棚、衣類を入れるための乱れ籠などにも、都らし
い細かな装飾がほどこされていて美しい。懐紙や手拭が、いくらか多めに、几帳面に畳ん
で置かれているのは、ほかの宿屋にない気遣いである。この部屋だけなら、一般の料亭と
さして変わらない休息が出来そうなものだが、襖を隔てた奥の間には、情緒たっぷりな花
柄の絹布団が、すでにゆったりと敷かれて客を待っている。
 この部屋は初めてだ、という意味のことを男が言った。それはそうで、毎回こんな贅沢
な空間を使っていたら、ちょんの間の逢瀬には割りが合わない。どうせ、支払いはいつも
芸妓の(それも旦那からもらった小遣いのうちから)ほうにもたせているのだろう。格好は
武士を気取っているが、お袖の遊び相手になる男たちと、性根は似ている。女に情事の時
間を買われることが平気だという点で。
 畳の間のほうに、塗りの酒器が運ばれてから少し経っても、お袖は、はやる片岡をのら
りくらりとかわして、時を引き延ばそうと苦心している。
「まあ……初顔なんだ。一杯飲んで、じんわりといきましょうよ。」
銚子の首をつまんで、艶笑を浮かべて見せた。
「なんだ。その気充分で入ってきたくせに。」
襖を開けて、奥の間を珍しげに見ていた片岡が振り返った。
「そりゃあ、そうだけどさ。若い娘と違って、あたしゃ火付きが遅くてね。」
「そうは見えんな。」
「そのかわり火がついたら、おっかないですよ。朝まで帰れやしませんよ。」
「ふ……。かなわんな。」
仕方なく座った片岡は、お袖の膝に手をのばして、弧を描くようにさすっている。
「………。」
 わずかに、膝頭のあたりを緊張させている自分に気づいた時、お袖は、ふとおかしくな
った。
(まいった……男から身を守ろうなんて考えたのは、何年ぶりだろう。ここんところ、来
るもの拒まずだったからねえ。)
 お袖はひょいと男の手をとって、杯をにぎらせている。酌をした。
「さあ、どうぞ。あたしはね。飲めない男は男じゃないと思ってるんだ。」
片岡はすかされて、杯をぐいっとあおりながら、
「ふん。小娘でもあるまいし、じらしおって。」
「じらしゃじらすほど……あとのお楽しみがよくなりますのさ。」
「何をたくらんでいるか知らんが、俺は酔いつぶれたりはせんよ。」
「そりゃ、頼もしいね。」
二杯目の酒が注がれた。
「女。……何の目的で、俺に近づく。」
「いい男だからさ。」
「嘘をつけ。さっき、俺の懐に手を入れたくせに。」
「え?」
「財布が目当てかと思ったら、違うようだな。手拭いがなくなっておる。」
「………。」
 お袖は、背筋がぞくりとした。塗り膳の上にことり、と銚子を置いてひと呼吸すると、
「しようがない。正体をばらしますよ。あたしゃ、江戸から来た女スリさ。」
「やはりそうか。」
「しつこいお頭をふりほどいて、上方へ逃げたはいいが、時々は商売もしなくちゃ食べて
いけない。それでさっきはあんたを狙ったんだが、腕が立ちそうなんで、考えを変えたの
さ。しけた財布なんか盗むより、あたしの男にして、追手を斬ってもらったほうがよっぽ
ど得策だとね。まあ……見た目も気に入ったのはほんとだけど。」
「なるほど……。」
「それでとっさに、手拭いをとったのさ。後で……旦那、お持ち物が落ちてましたよ、と
でも言えばいい口実になると思って。」
「それで、手拭いはどうした。」
「川に捨てましたよ。見たらあんないやらしい色で、女の名前なんか入ってるじゃないか。
馬鹿らしくって。」
「ふふ。」
 片岡は、早くも悋気の入ったお袖の口ぶりがまんざらでもなさそうに、女の体を引き寄
せ、唇を奪っている。
「う……。」
お袖は顔をしかめたが、
(まあ……このくらいは、しょうがないか。)
と、そのままになってやっている。
(この男とどうなったって、こわいこともないが……源さんが踏み込んできた時に見られ
でもしたら……。)
 体ぐらいは減るものではない、というふてぶてしいお袖も、さすがにその現場まで人に
見せられるほど厚かましくない。 
 お袖はつい、と片岡から離れ、髪をほどきはじめた。
「おい。」
 またか、という感じで、片岡の声の調子が荒くなった。
「しょうがない人だねえ。ちょっとお待ちよ、まげを気にしないでもいいようにするから。」
ゆっくりと、櫛やかんざしを抜いて鏡台の上にのせている。
(源さん……まだかい。)
 お袖はこの時ほど、井上の姿を心待ちにしたことはない。
(やせても枯れても新選組だろ。のんびりしててもらっちゃ困りますよ。)
「女。」
 片岡は、背後からお袖の帯をつかんだ。
「もう、待てぬ。話はあとだ。」
いやいや、をするようにその手を上から抑えて、
「待って。こっちも、遊んだだけで逃げられちゃ困るんだよ。わざわざあんたに目をつけて
追っかけてきたんだ。する事をする前に、約束してもらうよ。」
「何を、約束するのだ。」
「あたしが、江戸の盗っ人仲間に狙われても、きっとその刀でやっつけてくれるってこと。
あんたは……人を斬るのが得意なんだろ。」
「………。」
 男は、にやっと笑って、お袖の衣服をはぎとりにかかっている。お袖はその下敷きになり
ながら、
「だってあんたは……五条橋のたもとで新選組を斬ったほどの男じゃないか。」
「何っ。」
男の眼が、ぎらっと見開いた。
「知っているさ。あの晩斬られた、若い侍……確か佐野という、新選組の隊士だろ。」
 片岡は、思わず体を浮かせ、素早く大刀を握った。低く殺した声で、
「なぜ、知っている。」
「見たからこそ、あんたに近づいたんじゃないか。」
 お袖は襦袢姿に剥かれた身を起こして、ようやく、優位に立とうとしている。ふてぶてし
く言った。
「味方についてくれるなら、お上に届けたりはしないさ。でもね、この場であたしを斬ろう
なんて浅知恵は、よしたほうが身のためですよ。仲間が、あんたの素性を壬生浪の巣に知ら
せにいくよ。」
「………。」
 片岡は、どかっとあぐらをかいた。
「だから、ね。その物騒なものはあっちへやっといて……言った通り、ゆっくりと仲良くや
りましょうよ。」
 いくらか猫なで声が入っている。男は鼻で、ふん、とひとつ息をついたあと、
「わかった。」
 片岡は刀を押しやり、再び、お袖の方へ腕をのばしている。お袖は甘えてしなだれかかり、
「あたしが、してあげるよ。」
と、くすっと笑って、逆に男の衣服を脱がせにかかっている。向かい合って座ったまま、袴
の足を抜かせ、次は両腕で抱きつく格好で、帯の結び目を手探りでほどこうとした。不自然
なしぐさも、こうした興趣の時はそれで面白い。
「じれったいな。」
と、子供のようにされるがままだった片岡が笑いかけた時、障子がパン、と開いて、
「片岡重太郎っ。新選組六番隊長、井上源三郎である。神妙にいたせっ!」
大音声と共に、井上と沖田の二人が飛び込んで来た。
「源さん!!」
「うわっ。」
 片岡は、はね起きた。とっさに大刀につかみかかったところを、沖田が風を切るようにし
て畳を飛び越え、男の右肩を切り裂いた。
「ぐっ。」
がくん、と膝をつく。
「井上さん!」
 沖田が振り返ると同時に、井上は渾身の気合をあげて、すいかでもたたき割るかのごとく、
深々と面を斬り下げた。

 やがて。
 ごろん、と重い音がして、片岡重太郎の死骸がころがるまで、お袖は、呼吸を忘れてがく
がくと震えていた。ほんのさっき、三寸ほどの目の前でだらしない笑みを浮べていた男の顔
はまっぷたつになって、まだ真紅のものをどくどく、と流している。
「………。」
「お袖さん。」
 返り血をあびた井上の顔が、ぬっとのぞきこんだ。お袖ははっと顔を上げて、「あ。」と、
声にならない声を取り戻した。
「怪我は、ないか。」
「………。」
 お袖は無言でうなずき、何か言いかけた時いきなり、ぴしゃりと井上の平手が頬を打った。
「無茶をしては、いかんっ!」
怒っている。お袖は、井上の怒った顔を初めて見た。
「はい。」
 お袖は童女のようにうなずき、急いで、はだけた襦袢の胸を両手でかきあわせると、ぽろ
りと涙をこぼした。

 さて、廊下では、沖田が刀の血をぬぐいながら、そばに呆然と立っている銀次に声をかけ
いる。
「銀次さん。もうお姉さんをお連れになっても、いいですよ。あとは検分が来たりして、ご
たごたしますから。」
「へ、へえ……。」
「しかし……やったなあ。うん、よくやった。」
 沖田は、くすくす笑っている。井上のことだか、お袖一味のことだか、わからない。銀次
は、いま見たことのすべてが信じられないという顔つきで、唖然としている。
 やがて、井上がお袖を抱きかかえるようにして、血の海と化した部屋から連れ出してきた。
お袖は銀次と、中庭の石のかげでぶるぶる震えている安吉を見つけると、途端に正気にかえ
って、
「遅いんだよ、もう。何をしてやがったんだいっ。」
と、文句を言った。
「馬鹿を言っちゃいかん。銀さんたちが走り回って、わしらを案内してくれなかったら、お
前さんもどうなっていたかわからんよ。」
 お袖は叱られてしゅんと肩をすぼめ、はい、と言った。





 その夜のうちに、お袖たち三人は、煙草屋の店に帰っている。
「安吉は。」
 とっくに深夜で、風呂屋はしまっている。ありったけの湯を沸かして、丹念に体をぬぐっ
てきたお袖は、濡れて細い筋になった襟足の後れ毛を撫でつけながら、きいた。
「大酒くろうて、寝てますわ。」
几帳面な銀次も、さすがに今夜は、台所へ追いやった徳利や茶碗を片付ける気が起きないら
しい。
「そう……。さっきはあんなこと言って、悪かったよ。」
「安吉の奴、やはり新選組の屯所がおそろしゅうて、投げ文だけしてずらかろうと思うたそ
うやが……逆に、姐さんほったらかすほうがよっぽどこわいと考え直して、井上はんが出て
きはるのを待ち構えたそうですわ。」

 回想。
 新選組屯所に近い路上に身をひそめ、二人してこっそりと出てきた武士をみつけた安吉は
思いきって近寄っていき、声をかけた。
「あ、あの。井上源三郎さまでっか。」
 たまに煙草屋の裏口から出入りしていて、物陰からこの侍の姿を見かけたことぐらいはあ
る。しかしスリの身分で守護職配下の新選組の前に、しゃあしゃあと挨拶に出られるほどの
度胸はありもせず、井上のほうは、この小男の存在すら知らない。
「おう。あんたは。」
「わ、わしは……銀次の友達で……安、いいます。さっきの文、お袖姐さんがよこさはった
もんだす。」
「何。お袖さんが。」
井上は驚いている。
「へえ。早う、早う来とくなはれ。片岡重太郎いう男、ひきとめとくいうて姐さんが……。」
「そりゃあ、いかん。」
「井上さん、急ぎましょう。」
二人の武士がうなずきあっていると、安吉はあぜんとして、
「あ、あのう……たったの、お二人でっか。しかも、そんな坊ンぼん……。」
泣きそうな顔をした。
 井上は、ん?という顔をしてから隣の若者を指差した。
「あのな、この男は、沖田総司だよ。」
「ひえっ。」
 安吉は飛び上がった。京洛で、人斬り鬼かと噂された沖田総司である。

 ……と、ここで煙草屋の茶の間に戻る。
「それから、わしがあの角に立ってて、泉屋へお連れしたいうわけですがな。いやあもう、
気イが揉めて、じりじりしましたで。」
「こっちはなおさらさ。あやうくやられちまうところだったよ。」
やられる、というのは、殺されるという意味とは少し違う。
「はあ、間に合うて何より。しかし、あの井上様……」
「………。」
 二人は、同時に黙った。井上が剣をふるった時の、すさまじい光景を思い出している。
「やっぱり、新選組は新選組だねえ……。人が違ったようだった。」
「そやけど、あの沖田いう人も、『あんな井上さんは初めて見た』、言うてましたで。片岡
を斬ったときもそうやけど、女の人をぶつとは思わなんだ、て。あんな修羅場で、にこにこ
笑うてけつかる。」
 銀次は、あきれたような声を出した。
「………。」
「底の知れん連中や。源さんはともかく、沖田はんのほうは、どうやらわしらのことも知っ
てまっせ。」
「え。」
「源さんが、わしのことお袖さんの弟やて言うたら、ぷっ、と吹き出しよった。どうやら、
新選組も源さんのこと心配して、この家のことは調べてますな。そう思うてたほうがよろし
い。」
 お袖はほうっ、と嘆息して、それきり黙っている。

 昼間の新選組屯所。その沖田が、やはりにこにこして、近藤、土方の説教を受けている。
「総司。」
 局長の近藤勇が、普段の倍もいかつい顔をしてにらんでいる。小言用のお面に切り換えて
おかないと、このにこにこ顔には手もなくやられてしまうことが多いからである。
「はい。」
 沖田はさすがに笑顔はしまって返事をしたが、何が楽しいのか目だけは変わらず、いたず
らっ子のようにくるんと光っている。
「おめえがついていながら、源さんを危ねえ目にあわせるとは、いかんな。」
「だって……井上さんがどうしても、わしに斬らせてくれと言うんですよ。」
 あの時、さすがに隊には外出を告げて行ったのだが、理由は「井上先生のお酒の供」と伝
えてくれ、としておいたのである。休息所を持たない井上と沖田だが、幹部の身で外泊でも
許される、ということは先に述べた。留守にしていた局長、副長が、茶屋「泉屋」に検分に
出た監察方から報告を受けて、ようやく現場をのぞきに行った時には、事はすっかり片付い
ており、そのあとでこのお説教である。
「うまくいったからいいようなものの……知らぬ相手にたった二人でかかるとは、無謀だ。」
「二人じゃありませんよ。井上さんには、強い味方がついておいでです。ああいう毛色の変
わった友達は、いかにお顔の広い近藤先生でも、ちょっといないでしょう。」
 沖田は、くっくっと笑っている。
「しかも、下手すると新選組副長づきの監察よりも、優秀だ。」
 土方がこわい顔をした。
「総司。」
「いや、失礼……しかし、悪い人たちじゃない。まあ佐野君殺しの下手人も討ち取ったこと
だし、私もこれで、井上さんのお目付けはお役御免ですね。」
 ちゃっかりした若者である。井上にも内緒で、助太刀の許可はちゃんととってあったのだ。
井上が仇討ちに躍起になっていることを知っていて、沖田に監視と助力を命じたのは当の土
方であるが、病がちの沖田のためにも、いざその時で、自分たち上長が不在の場合は、監察
や隊士の何人かに指示をしろと言っておいたのが、見事にはぐらかされた。
 しかし、土方にとっては別の収穫もある。
「うむ。……片岡重太郎という男、他にも何人か、天誅と称して、幕府方の者を斬って歩い
ていたらしい。井上さんも、思わぬお手柄というわけだな。」
 私怨だけでなく、新選組としての勤めを果たしたことになる。まあその点は拾い物だが。
「井上さんは、欲がないからなあ。運が味方したんですよ。」
 沖田がうんうん、と一人でうなずいている時、近藤がふと、別のことを尋ねた。
「総司。あの、面の傷……ほんとうに源さんが、やったのか。」
「ええ。私はちょっと、手伝っただけです。」
 いち早く肩を切って相手の動きを封じたからこそあの成果なのだが、沖田は自慢しない。
 近藤は続けて、
「源さんがあれほどに斬れるとは、思っても見なかった。何の技を使った。」
「え?」
「天然理心流の、どの型を使ったかと聞いておる。」
 流派の宗家らしい疑問である。
 沖田はちょっと考えて、
「……マキ割り。」
「む?」
急に笑い出した。
「秘剣、薪割りですよ。あの動きは、試衛館の裏庭で薪を割っていた時とそっくりだ。あっ
はっはっは……。」
 近藤と土方、顔を見合わせている。



<2008/4/4(金) 23:15 千太夫>

  ぶっしょう
(四) 仏 性






 この年、慶応三年(一八六七)というのは、教科書的にいうと、「江戸時代の最後の年」
にあたるのだが、六角通りの煙草屋は、相変わらず表面は手堅い商売を続けている。
 ところが、その年の春も終わったあたり、そろそろ花は菖蒲から紫陽花へと変わる季節
になって、「江戸」から珍客が来た。
「おじさんが?」
と、その名を聞いて外出から戻ったお袖が声を弾ませたのは、井上源三郎のことではない。
江戸は神田のお頭、雲居の善平衛のところにいた時に、頭の弟分として、裏表にわたって
番頭のような役目をしてきた与吉という盗人仲間が、銀次の店を訪ねてきた、というので
ある。
「へえ。大坂へ用があって来たついでに、お袖はんの顔が見とうなった、言うて」
銀次の説明を聞きながら、お袖はぽん、と自分の財布を投げ出し、
「銀次、これで灘のでも伏見のでも、上等のを買ってきとくれよ。一升やそこらじゃあ、
与吉のとっつぁんには間に合やしないよ。」
と、草履を脱ぐのももどかしく二階へ上がった。
「おじさん。」
「おう、袖ちゃんか。相変わらずいい女っぷりだねえ」
久々に聞く本物の江戸弁である。お袖はひざをついて、無沙汰の挨拶のために頭を下げた。
 与吉は五十のなかばを越しているだろう。男の手下連中からは「叔父貴」、と呼ばれる
だけあって、お頭とは兄弟のような間柄である。仲間のとりまとめなどの手腕に関しては、
善平衛より上ではないかと評された男で、お袖も神田に連れてこられた時から、叔父と姪
のようなつきあいをして馴染んでいるし、少女の自分をなぐさんだ「旦那」の善平衛より、
いっそこっちが自分の親がわりだったらどんなにいいだろう、と思ったことまである。
「ちょっと見ねえまに、けえって若返ったんじゃねえか。むさい爺イどもから離れたのが
よかったかな。」
「いやだ。」
お袖はけろりと笑って、江戸の様子はどう、と聞いた。
「さっぱりだねえ。何しろ、天下の公方様がこうも上方に尻をすえちまったきりじゃあ、
シ(火)が消えちまったみてえでいけねえよ。」
江戸の景気は悪いらしい。あちこちで打ちこわしなどの騒動が起きて世情が不安だという。
京坂(阪)に比べると、まだゆったりと時の流れていた江戸も、そろそろ時勢の煮詰まりが
表に現れてきているようだった。
 ひとしきり町の様子などを語ったあとで、与吉はふと苦笑した。
「しかし、きかねえな。」
「何を?」
「意地っぱりも相変わらずだな。切れた男の暮らしなんざ、聞きたくもねえってかい」
「ああ……」
善平衛のその後のことである。確かに、お袖はしいて尋ねたいとも思わなかったし、だい
ぶん忘れかけてもいたのだったが。
「お頭は隠居したよ」
と、与吉が言っても、さほどに驚きもしなかった。へえ、と相槌を打っただけである。
「お頭も年だからな。赤ん坊の顔を見ながら、気楽な余生ってのを送りたいとさ。」
「だろうね。」
「すっかり、妾のおもんが女房気取りになってさ。近頃じゃ若えカカアに襖のあけたてま
であれこれ指図をされて、それでも嫌な顔もしねえで、やにさがってやがら」
「……へえ、あのおもんが。」
 かつて善平衛とおもんとの情事がわかった時は、嫉妬というよりも、つまらない小娘が
自分をコケにしやがって、という怒りが噴出して、髪をひっつかんで切ってやったことが
ある。がたがたと震えながら、詫びの言葉を泣き叫んでいたあの女も、安心しきってたく
ましいおっかさんになりつつあるらしい。そう思うと、いっそおかしみがわいてきた。
 お袖はくすっと笑い、
「女は化けるからね。」
与吉は苦労人らしくうなずいて、善平衛の跡目には、数人いる実子のうち、最も切れ者だ
といわれた三男の卯三郎がついた、ということであった。
「うさちゃんが後継ぎじゃ、皆も大変だろ」
若いだけに、稼ぎの取り集めなどにも容赦がなさそうである。
 まあな、と与吉はひといきついて、
「袖ちゃんよ、そんなわけで、もうあらかた、事はおさまってるんだ。どうだい、江戸へ
けえってきちゃあ……」
と、言った。
「え?」
お袖は、意外なことを言われて口をあけた。
「お頭のわがままに、あんたよく辛抱したじゃねえか。帰りてえ気があるんなら、俺が連
れてって、卯三郎のやつに話を通してやったっていいぜ。やっこさんもあんたの腕は欲し
がっている。」
「………。」
ああそういうことか、とお袖は納得した。確かに卯三郎は幼馴染でもあり、帰るとすれば
現場を退いた父親に文句は言わせないだけの迎え方をしてくれるかもしれない。
「仕事はまだ、やってるんだろう?」
と、与吉は二本の指をすい、と引く仕草を見せた。お袖は小首をかしげて、
「おじさん、うさちゃんに頼まれて来たの?」
「いや。ものはついで、さ。よけえな気なんか回さなくたって、お互いよく知った仲じゃ
ねえか。お頭の隠居はいいシオだ。戻ってきねえな。」
お袖はふと、与吉の言葉に郷愁を誘われたが、
「あぶく銭をたんまりもらっちまったから、気持ちが油断してね。ここいく月も、指先の
仕事はしちゃいませんよ。」
「へえ。」
「こっちは、今の江戸と違って油断もスキもない侍どもがうようよしてるんだ。へたに動
いて、ばっさりやられちまったんじゃつまらないしね。銀次にまかしておいたら、あの金
は減るどころか、ちっとは増えているらしいですよ。食べるのにゃ困らない。」
「あいつはスリも出来たほうだが、まともな商売人にしときゃそこそこのところまではい
ったろう、ってところがあるからなあ。」
「まあね」
「しかし、退屈しちゃいねえのかい。」
「うふ」
お袖はつい、思い出し笑いをした。
「何だね」
「京の都ってのも面白いところさ。近頃、ちょいと手なぐさみをしますんでね……退屈
はしちゃいないの」
「手なぐさみ?」
ええ、とお袖はうなずいて、ツボを振る手真似をした。
「博打か」
「そのお酒だって、今日のあがりでとってきたもんですよ」
と、よもやま話のあいまに運ばれて来た一升斗徳利を指差すと、与吉は驚いて、ふうんと
うなった。
「あれは、勝っているうちゃ面白いかもしれねえが、熱くなっちゃいけねえよ。稼業の金
まで注ぎ込み出したら、まずはろくでもねえ目に会うのがオチだと思ったほうがいい。」
 与吉は、まるで堅気のような口ぶりで、この姪っ子のようなお袖に忠告した。
「ええ。いい腕を持ちながら、そっちのほうが気になっちまって、潰れていったやつが何
人もいる、俺たちの仕事は地道にやるのが一番だ、っておじさんがよく言ってたっけね」
ここだけ聞いていると、お袖まで堅気の女のようではあるが、
「ちゃんと、遊び金でやってますよ。ところが、おかしなことに……血眼でやっている男
連中より、あたしは儲け続きなの。もちろん、損をする時もあるけどさ。銀次が帳面なん
かつけていやがって、それを見たらちゃんと浮いてるほうが大きいんだ。」
「へえ。そんな話ゃ聞いたことがねえや。あんなもん胴元が儲かるように出来てんだぜ。」
「うん。もっとも、あたしがいい女だから、他のお客がちょいちょいつられて賭場に来る
ように、下でサイの目でもいじって勝たしてるのかもしれない。」
「ちぇっ、しょってやがら」
与吉は苦笑した。
「勝つコツってもんがあるんですよ。」
「ふむ。まじないでも唱えるのかい」
人に説教はしていても、与吉も若い頃はさんざん、賭け事に血道をあげたことがある男だ
というのは、お袖も知っている。くすくす、と悪戯っぽく笑いながら、
「サイの目なんてのは、丁半どっちか、二つに一つしか出ないのはおんなじだもの。サイ
コロにまじないを唱えたって、きいてくれやしませんよ。それよりもっと確かなもの……
それも、おじさんやお頭に教えてもらったことが、不思議と生きていますのさ。」
「俺たちの?」
与吉ははて、という顔で首をひねった。博打に勝つコツなど、お袖に教えた覚えはない。
「そう……」
お袖はお流れの酒をくい、と干して、
「サイに賭けるんじゃない。人に賭けるんですよ。」
「人って?」
「その日、金まわりのよさそうな……そうだね、何となく懐具合がよくなりそうな顔つき
をした客、たんまり持って帰れそうな、金の匂いがするようなやつ……その男と同じ目に
賭けるんです。これがねえ、不思議とそのカンがはずれないんだ。」
ほう、と声をあげて、与吉は機嫌よく笑い出した。
「なるほど、年季を積んだ修行が生きたねえ。」
「でしょう?」
お袖も笑った。金は天下のまわりもの、とはよく言うが、その金は公平にまわるものでは
決してない。金が金を呼ぶ、持っているやつ、運のいいやつのところへ集まるのが金だ。
だから懐のあったかい客を選んで盗むようにしろ、一度や二度、財布をとられたくらいで
金運のついているやつはたいがい、困ったことにはなりゃしない、というのが、善平衛と
与吉がお袖に仕込んできた教訓だった。四つ五つの幼女の頃から、その視点で何千、何万
の人の顔を見てきたかわからない。貧乏そうな小市民が、やっと明日の糊をしのぐための
銭は狙ったことがない。それが雲居の一家のひそかな誇りで、それゆえに人様の金をかす
めとる稼業でありながら、「善」の字を通り名にすることが許されたのだ。盗っ人にも三
分の理、という通りの信条である。
 考えてみれば、お袖が去年の春、思わぬ大金を井上源三郎から奪い取って、ついその後
の顛末が気にかかったのも、この永年の薫陶が、肌身に染みこんでいたからこそ、なのか
もしれない。
 与吉は数日煙草屋に逗留して、武士の世界で起きている切迫した時勢とは一見無縁な、
情緒ある営みを続けている京都らしい名物や名所めぐりを存分に堪能し、最後の夜には珍
しく島原遊郭に花魁、芸妓をあげた泊まりがけの遊びまで経験したあと(さすがにこの日
ばかりはお袖の同行はなかった)、よく晴れた日を選んで、江戸への出立の道に出た。
 ついでに言うと、お袖たちが案じることもなく、物見遊山の合間には、ちゃんと帰りの
路銀を自分で稼いでおいたうえでの旅立ちであるから、いかにもその道の老練らしい。
 その日、明るい光の下でしみじみ見ると、与吉のおじさんもやっぱり白いものが増えた
な、と、送りに来た街道の入口でお袖がぼんやりと思っていると、与吉はふいにその顔を
見つめて、
「袖ちゃん。」
と、いくらかかすれた声で言った。
「なあに、おじさん」
つい、お袖も小さい頃のような可愛らしい返事をした。
「相手は銀次じゃなさそうだが、お前さん、好いた男が出来たろう。」
え?とお袖は目を開いた。
「なんでさ、急に。」
今の今まで、そんなことは言わなかったのに、という意味をつけてお袖は苦笑した。
「そういう顔だよ。人相を見ることにかけちゃ、俺アあんたに負けてやしねえぜ」
「………。」
少しの間があって、与吉はふっと笑うと、手甲をはめた右手で、これもお袖の右手を急に
握った。握手、の格好である。しかし、この頃に親しい人どうしが手を握り合うという、
挨拶の習慣はない。お袖はちょっと驚いて、握られた手を見た。
 与吉は黙って、お袖の指先を丹念に確かめるようにさすっている。この柔らかい手こそ
自分が作り上げた一種の作品である、といとおしむかのようでもある。
「袖ちゃんよ。」
 与吉はまた、わずかな笑みを浮かべてその指を離すと、
「サイコロの目といっしょでな、丁半のどっちに転がるかは、その時どきの運ってもんだ。
しかしよ、丁が駄目なら半、と……またいくらでも賭けなおしがきくってもんさ。自分で
選んだ、そん時の目を悔いたりしちゃいけねえよ。また次がある、と思って気楽にやって
いくこった。そうすりゃ、いい運もそのうちに寄ってくる。」
「……おじさん」
 与吉の声音にいつもと違うものを感じて、お袖はつい、目を上げた。
「達者でやっていな」
 老いたスリは、そう言って都をあとにした。

 それから少し経って、六角通りの煙草屋に与吉が病で死んだ、という江戸からの知らせ
が届いた時、お袖は驚いたあとで、一方で心にひっかかっていたことがすとん、と腑に落
ちたような感覚を覚えた。ひとことで言うと、ああやっぱり、という感じである。
 与吉がおのれの寿命を知っていたか知らぬかは別として、やはり、上方の旅はお袖の顔
見たさというのがあったのだろう。
「帰って、墓参りでもしはりますか。」
と、銀次が気を遣ってくれたが、お袖はううん、と首を振って、
「帰っておじさんに会えるわけじゃなし……墓石なんか見に行ったってしょうがないさ。」
いくらかぼんやりした声を出した。



2 

 煙草屋の一家の特筆事項といえばそんなものだが、歴史に残るほうのサムライの世界は
なかなか忙しい。むろん、新選組もそのただなかに身を置いている。
 この頃、京雀たちを驚かせたことのひとつというと、その新選組から一度に十数名もの
離隊者が、それも公然と袂を分かって出て行き、同じ洛中に居を構えたことである。
 参謀の伊東甲子太郎を長とし、錚々たる幹部らを含めた一派が、新選組とは違う名前で
高台寺月真院に屯所を置き、ある隊名を名乗った。
「ごりょう、えじ?」
御陵衛士、と書く。その耳慣れぬ言葉を聞いて、お袖も首をかしげた。
「なんや知らん、先の天子様の墓守やちゅうことだそうですな。」
「新選組にいた侍が、なんでそんな暇仕事をしなきゃならないのさ。」
 銀次は耳ざとく集めてきた情報を、お袖に解説している。
「まあ、墓の番人いうのは、名前だけのことですやろ。肝心なのは、幕府の下については
った新選組の中から、おおっぴらに天朝はん方に寝返ったもんが大勢出た、いうことでん
な。しかも、その後ろ盾が薩摩やとか。」
 お袖は賢いほうだが、政治むきのことはよくわからない。
「新選組は、足抜きが出来ないってのが決まりじゃなかったのかい。」
足抜き、とはまた下世話な言葉だが、ある組織の中から離脱することが許されない、とい
うのを彼ら庶民風に言うとそうなる。
───ひとつ、局を脱するを許さず。
 新選組局中法度の大きな特徴のひとつであり、現に、脱走を試みては、追いかけられて
殺された隊士の無残な話もいくつか知っている。
「表向きは、別の組を作るために話しおうて分かれた、いう理屈やそうやけど……まあ、
そんなんは眉唾でんな。せっかくの直参になる話よりも、帝の墓守、薩摩の手下のほうが
ええ、ちゅうことでっしゃろ。それだけ、ご公儀(徳川幕府)の力も見くびられるようにな
ってきた、いうことかもしれまへん。」
「ただの暖簾分けじゃないってのかい。」
「あの新選組が、ただで暖簾分けなんかしますかいな。」
銀次は苦笑した。
「今はまだせえへん、いうだけで……よそへ寝返り打った連中と、いずれは大喧嘩でもす
るのと違いますか。」
「大喧嘩って……」
と、お袖は眉根を寄せた。
「死人が出るような?」
「まあ、囲碁や将棋で決着はつけまへんやろなあ」
銀次はそんなふうに言った。
 彼らは知らないが、分離した伊東派へ追加の参入を申し出て許可されなかった新選組隊
士十名のうち、四名が会津の藩邸で落命したのはその後まもなくである。時勢をめぐる大
喧嘩、はすでに不気味な音をたてて始まっていたのだ。

 その年の盆がやってきた。お袖は思いたって、洛外は壬生村の、光縁寺という小さな寺
の墓地を訪れた。手に、桔梗の花と線香の束を持っている。
 光縁寺は、壬生屯所時代の縁で、京都における新選組の菩提寺をひきうけてしまった格
好で、多くの死者がこの地に葬られている。平隊士のほとんどは合葬墓に名を刻まれるだ
けのことだが、それらしい一角を見つけて手を合わせていると、背後で墓地に似合わない
素っ頓狂な声がした。
「やっ、誰かと思えば……」
 お袖が振り返った。声の主は井上源三郎である。
「まあ、井上様。どうして……」
「どうしてって、わしは壬生寺で、大砲の調練の下見だよ。」
 井上は水桶とたわしを持って、ひょいひょいと歩いてきた。
「あんたが、墓参りかね。」
 井上は驚きながらも、嬉しそうな声になっている。お袖はちょっと気恥ずかしそうな顔
をしてから、
「ええ、まあ……親しくしてた人が新盆でしてね」
「ほう。この寺に?」
「いえ。その人は江戸の人でね、蔭ながら東の方に向かって拝んだだけですよ」
半分は嘘で、新お頭の卯三郎に与吉あての香典は送っている。
「じゃあ、誰の墓参りかね。ここはわしら、新選組のホトケさんの場所だが」
「………。佐野さん、って人を」
お袖から意外な名前を聞いて、井上はきょとんとした。
「佐野君?」
「新盆ってことで、ついでに思い出したんですよ。」
お袖は自分の思いつきに、つい言い訳がましくなっている。
「そうか……佐野君の新盆も今年だったなあ。」
井上は、すでに遠いことのような声音で言っている。
「ええ。だって、亡くなった佐野さんという人は、井上様の組下だったんでしょう。なん
だか……まんざら関わりがないわけでもない仏さんのような気がして、一度拝んでおこう
かと思ったんですよ。」
「うん。あんたらのお陰で、佐野君も仇をとってもらったと、礼を言っているだろうさ。」
「そうですかねえ。」
あの頃の騒動を思い出して、お袖はふと、小さく笑った。それから、墓前だったことに気
づいて急いでその笑みをしまった。井上はそうとも、ありがとう、とうなずきながら、
「しかし、気の毒なことには変わりがねえ。」
死んでから仇をとってもらっても、若い命は戻ってこない、ということを言いたいのだろ
う。その井上は腕をまくって、桶の水でその付近の墓を、たわしで洗い始めた。
「井上様が、そんなことまでなさるんですか。」
お袖はぽかんとして井上の作業を見ている。
「ああ。歳さんなどは、死人のことをいつまでも、くよくよと考えてちゃいけねえ、忘れ
ることだ。と、言うんだがね。あんたと同じ、たまにゃあ思い出してやる者がいたって、
いいだろう。」
「………。」
 井上の武骨な手が動くたびに、埃で汚れた数年前の墓石も、まだ名前が入っただけの新
しい卒塔婆も、みるみるきれいになってゆく。冷たい水で清められたそれらの死者たちが
お袖が供えた香華の煙の中で、ひょっとしたら口ぐちに礼を言っているように思えた。
「わしなんざ、彼らのおかげで、生き延びているようなもんだからなあ。何、こうやって
やると、少しはこっちの気が軽くなるのさ。」
「井上様……。」
「源さんでいいよ。」
「え。」
「あの出会い茶屋で、源さんと呼んだろう。」
 井上は笑って、と同時に作業を終えてお袖のほうへ振り返った。
「すいません、ついとっさに……。」
お袖たちはあれから井上と会っても、本人の前でその呼び名を使ったことはない。
「いいよいいよ。わしゃ、嬉しかった。」
「え?」
「京都に来て以来、わしのことを源さん、と呼んでくれる人は、少なくなったからなあ。」
「………。」
「わしゃあもともと、百姓のせがれだ。畑仕事の合間に、武州の村々を回って、同じ百姓
の若いもんやら、子供たちにヤットウ(剣術)の手ほどきをしてやるような仕事のほうが、
似合っていたのさ。多摩にいた頃は皆、源さん源さんと呼んでくれたものだ。井上先生、
などと呼ばれると、尻がこそばゆくていけねえ。」
「ふふ。」
「そう。近藤局長は勇さん。もっと小さい頃は勝っちゃんと呼んでいた。土方副長は歳さ
ん、沖田組長は、誰もが呼び捨てだ。ははは。総司はね、入門したての頃は、幼名の惣次
郎とさえ呼ばれず、『チビ、チビ』と言われていたもんだよ。」
「まあ。」
 お袖は、今度は声をたてて笑った。お袖の見た沖田はひょろりと丈の高い若者だったが、
確かにそんな頃があったのだろう。
「この話をすると、総司はいやがるがね。『井上さん。昔話をしたがるのは、年寄りの証
拠ですよ。』だと。昔から口のへらねえガキだった。」
お袖はくすくす笑っている。
「しかし、今は公の場じゃ皆、窮屈な呼び名でかしこまっている。まあ、人間、肩書きば
かり偉くなるのも考えものだよ。」
「何せ新選組も……直参旗本にお取り立ての、殿様ですもんね。」
「おお、肩がこる。」
「それに、あの新しい花昌町の屯所。まるで大名屋敷じゃありませんか。あんなお屋敷に
お住まいだから、もう馬鹿らしくってあたしんちになんか来られないんでしょう。」
 お袖が軽い皮肉をこめて言った二つの事柄は、前述したように、新選組が近藤勇が御目
見得以上の見廻組頭格、を筆頭に、それぞれ役職に応じて徳川直参の堂々たる禄位を授か
り、同時に、あたりに威風をはらう広大な新屯所への移転をすませたことを示している。
この壬生村で、隊士らがぼろをまとって馬鹿にされていた浪士組の面影は今はすでにない。
 しかし井上はお袖に言われてあわてたように、
「違う違う。これでも、近頃は何かと忙しいんだよ。ああ、この冬には、わしの甥っ子が
こっちへ来るかもしれない。その面倒も見なくっちゃあ。」
「甥っ子……例の、お守りの?」
空の財布の中にあった日野八坂神社のお守りを贈ってくれた、という甥の泰助である。
「うむ。近藤先生の、お小姓になるんだとさ。しかし……あの子がもうそんな年になった
かねえ。」
井上はまた、実際よりもいくつか老けてみえるような表情になった。

 光縁寺の墓地を出て市中へ戻る道筋である。お袖は、壬生村ののどかな田畑の中を、井
上と歩いている。収穫時をまぢかにした稲穂が、日に照り返して美しい。
「日野のあたりも、こんな景色ですか。」
「ちょっと、違うな。京は、田舎までなんとなくやさしげだが、武州は違う。」
 井上は、小首をかしげている。どこがどう違う、と描写できないのがこの男らしいのだ
が、その脳裏に浮かんでいるだろう関東の田畑の風景がふと、見えるような気がした。
(このお人と……ふたりで日野の畑でもやりながら暮らしてみたい。)
 お袖はふと思って、勝手に、照れた。
(馬鹿な。そんな日が来るわきゃないよ。)
突拍子もない想像につい、自分でもうろたえていると、やや前を歩く井上が、
「お袖さん。」
「は、はい。」
あわてて顔をあげた。井上はそこで足を止め、横の田んぼをながめたまま、
「悪い遊びは、やめたほうがいいよ。」
「え?」
「いつだったかなあ……わしゃあ、ああいう……佐野君の仇討ちにいったようなたぐいの
茶屋に、あんたが酔っぱらって遊び人ふうの男と入っていくのを見かけたことがある。」
「………。」
「そん時ゃあ他人の空似だと思ったもんだが、いま着ている着物の柄とおんなじだった。」
「………。」
 お袖は、思わず赤面した。
「わしの母親が、『よく生きても悪く生きても一生だ』と言っていた。悪いことに慣れる
と、よいほうに戻ってくるのは難しい。しかし、つまらねえことを言うようだが、もっと
自分のことを大事にせにゃあ。あんた、根はいい人だ。」
「いいひと……。」
 お袖は、言葉につまっている。
「うむ。」
 井上がうなずいてから、お袖が同じ方を見て、さっぱりした声で答えるまでには、少し
の時間が必要だった。壬生の秋風が二人の顔をなでている。
「やめますよ、悪いことは……。源さん。今からでも、惚れた男にだけ肌を見せるような、
まともな女になろうと思います。」
「うむ。そうしなさい。」
この時は、井上がお袖のほうを向いて白い歯をみせた。





 その秋から冬にかけて、新選組にも変化がおこっている。激変であった。徳川慶喜の大
政奉還によって、幕府が消滅したのである。
「徳川様が……将軍を、やめたって。」
お膝元で育ったお袖は、茫然とした。
「ああ。こら、新選組もおおごとや。何しろ雇い主がつぶれたのやさかい。」
 今度ばかりは銀次も思わぬ大ごとに苦い顔をしている。約三百年ぶりの政変だから、京
に限らず情報を知った人間たちは、日本中で次々と同じような顔の連鎖をするに違いない。
「なんてこった。……何十万という家来は、どうなるんだよ。」
「わずか、太閤秀吉一代の豊臣家が潰れる時にでさえ、関ヶ原、大坂の冬、夏の陣と……
国を二つに分ける騒ぎになったんでっせ。まして、徳川はんは、三百年続いた老舗の大店
や。そのあるじみずから、きょうで商売やめた、いうて放り出したのやさかいに……こら、
ただで済むとは思えまへんな。奉公人……つまり旗本御家人で血の気の多いものは、『は
いそうですか、ほなさいなら』と引っ込むわけにいきまへんやろ。直参になりたてほやほ
やの新選組などは、その筆頭や。」
「いくさになるのかい。」
「へえ。天朝はんかついだ薩摩、長州、土佐、この連中かて、『さよか、ほなあんたは将
軍さんだけやめて、今まで通りのんびりしてはったらよろしい、おおきに』言うておさま
りまっか。徳川はんそのものを叩きつぶさなんだら、安心して後釜によう座りまへんやろ。
天朝はん食べさしていかんならんのやし……将軍やめたら、その分の身代もよこせ、いう
て難癖つけてくるのが当たり前ですがな。」
「………。」
「こら、源さんも今までのようにのんびりしてはいられまへんな。」

 新選組ではこの時期、副長の土方歳三が、新規隊士募集のため江戸に下っていた。大政
奉還の報とほぽ同時に、急ぎ、その新人一党を引き連れて京へ戻っている。
 その中で、井上源三郎の甥の井上泰助少年は、隊士見習い、近藤の小姓として京へ来て
いる。都の屯所に着いてまもなく、叔父の口からこのことを教えられた。
「泰助。おめえもよりによって間の悪いときに、来ちまったもんだなあ。公方様が、日本
のまつりごとをするのは、おやめになっちまったとよ。」
 泰助は、まだ前髪があったほうが似合うという年頃だが、それだけに物の本質をまっす
ぐにとらえてこう言った。
「でも、新選組はまだ徳川家の直参であることに、違いはないんでしょう。」
「うむ。」
確かに、幕府の総帥たる征夷大将軍の座を降りたからといって、徳川家そのものは依然、
大身代の一家として残っており、主君と家臣の関係には変わりがない。しかし、だからこ
そ徳川の臣となっている新選組にとってこれからが大変だ、ということを話す前に、泰助
はツ、と背筋をのばして、
「だから、私は、近藤先生や叔父さんたちがお家のために働く手伝いをします。それでい
いんでしょう?」
「なるほど。こりゃあ、子供に教えられたわ。」
井上は、からりと笑った。

 季節が寒さをつのらせてゆくと共に、時勢は、幕軍(旧幕府だが)にとってますます傾
いてゆく。煙草屋にその噂が届いたのは、厳寒ただなかの師走であった。
「とうとう、幕府がたは都落ちらしいでっせ。」
「都落ちだって。」
「へえ。会津中将様の京都守護職も、廃止や。幕府の役人は皆、大坂まで陣地をさがるら
しい。」
「新選組もかい。」
「そら……養い親が役目を解かれたんやさかい、当然そういうことになりまっしゃろな。
新選組も、京都じゅうをふるえあがらせるほど威勢がよかったもんやが……短い天下で
したな。」
 前将軍徳川慶喜の退京にともなって、幕府が朝廷方(薩摩藩を中心とする諸藩)に都を
明け渡す形の後退を余儀なくされた、という話が洛中に飛び交っている。形からみれば
まさに都落ちである。
「馬鹿。縁起でもないことを言うんじゃないよ。薩長とひといくさやって、勝てば……
また、徳川様が大手をふって、世の中に返り咲くかもしれないじゃないか。」
「………。」
 銀次は、黙っている。だが江戸生まれのお袖のように、将軍への信仰があるわけではな
い。
(そら、無理や。……腐っても鯛、と言うが、腐った鯛が生き返ったちゅう話は聞いたこ
とがない。時の流れいうもんは、さかさまには流れんもんや。)
 幕府方は総力から言えば、歩き始めたばかりの新政権に数倍する軍事力を持っているは
ずで、戦の勝敗については実際にやってみなければわからないのだが、銀次はすでに、そ
れこそ、スリが客の懐具合や気の張り方を吟味するような感覚で、総大将の前将軍にやる
気のなさそうな旧幕府が、大勝利のすえ元の威勢に戻るとは信じていない。
「何してるんだろうねえ、源さんは。」
 お袖は立ち上がって、店先の方を眺めている。
「やはりもう、来られないのかもしれまへんな。」
 井上が遊びに来なくなって、しばらく経つ。お袖は何度か、花昌町の広壮な新屯所に文
をやったが、さすがに忙しいらしい。
「もう、非番も当番もおまへんのやろ。幕軍が落ち目と見て、ぽつぼつと逃げ出す隊士も
おるらしい。」
「そんなのは、男じゃないよ。」
お袖が怒ってはき捨てると、銀次はかすかに笑って、
「男やのうても、それが人ですがな。」
「………。今夜ならおいでになれそうだと、安吉がきいてきたんだよ。あの源さんが嘘を
つくもんか。」
 時節柄、新選組幹部の多忙は百も承知だが、それだけにゆっくりと酒肴でももてなして
やりたい気持ちが募って、お袖は安吉に、どうでもじかに都合を聞いてこいと使いに出し
てやっと今夜の約束をとりつけたのである。いつもなら夕刻には来て、そんなに遅くなら
ないように、と気をつかって帰るのが通例だったのだが、冬の日が暮れるのは早い。安吉
が暮れ六つには来られるそうだ、と聞いてきたはずの鐘がそちこちで鳴っている。
 それから一刻も過ぎて、店の表戸はとうに閉まってから、ようやく井上が来た。
「いやあ、すまんすまん。やっとこさ、左之助に代わってもらってな。」
「何を代わらはったんです。」
いつも通り店の側からやってきた井上を迎え入れ、表のしんばり棒を直しながら、銀次が
たずねると、
「脱走の見張り番さ。」
「………。」
「大人のほうが、目はしのきく分、腰のすわらんもんだねえ。わしの甥っ子の泰助みたい
な年端もいかない連中のほうが、気をはって働いとるよ。」
 この日はことさらに寒く、井上は鼻の頭を赤くして、手と手をこすりあわせながら、そ
う語った。気の毒に、本当にやっとこさ仕事を抜け出してきたのだろう。
「源さん、どうぞ、あがって下さいな。」
 お袖は待ちかねていて、炬燵も火鉢もじゅうぶんに暖めてある。あとは顔を見てから、
熱燗徳利を湯にひたすのと、この日のために捌かせておいた地鶏の水炊きの鍋を火にかけ
ればいいだけの支度になっている。こんな寒い日に、出前の料理では冷めてしまって気の
毒だろう、という銀次の気配りが効を奏した。もっとも、鍋物くらいならいくらお袖でも
客に出すことくらいは出来る。
「うん。」
 井上が奥の部屋に上がり、鍋物の湯気がその空気をほどよく湿らせ始めた頃になると、
店の帳場では、銀次が羽織を手に立ち上がっていた。銚子を替えに来たお袖をちょい、と
手招きすると、小声で、
「姐さん。わしは、ちょっと出掛けてきまっさ。」
お袖は意外な顔をして、
「銀次。何言ってんのさ、せっかく来て下すったっていうのに……。どこへ行く気だい。」
来客を置いていく失礼を責めた。銀次は自分の財布をのぞいて金の有り高を確かめながら、
「島原に泊まりますわ。わしにも、来い、来いいうてうるさいのがいてたん、思い出した
んや。」
「馬鹿。」
 銀次はくすっと含み笑いをして、羽織の紐を結んでいる。
         どん
「誰かさんに似て、鈍になりましたな。」
と、独り言のように小さく言った。
「え?」
「姐さん、今夜が、おいとま乞いになるかもしれまへんで。悔いのないように、源さんと
ゆっくり、語り明かしなはれ。」
「………。」
 銀次が寒気の闇の中へ出て行ったあと、お袖は新しい酒を持って、井上のいる部屋へ戻
ってきた。井上は、いくぶん背中を丸めて、火鉢にあたっている。
「銀さんは?」
店の帳面をつけ終わって、一緒に来ると思ったのだろう。
「ちょっと……商いの寄り合いで出掛けるそうですよ。」
「そうか、残念だな。」
 お袖はそのことを謝って、井上に酌をしながら、
「あの……源さん。」
「ん?」
「新選組が、京都からいなくなるって、本当ですか。」
「なんだ、もう知っているのか。」
「やっぱり、いくさに備えて?」
「うん。おそらく、伏見あたりに陣取ることになると思うよ。」
「じゃあ、もう……ここへは……。」
「当分は無理だろうなあ。戦争がおっぱじまったら先のことはわからんもの。」
「………。」
井上はちょっと思い出し笑いをしながら、
「今度は、本当の肌付き金を縫い付けていかなきゃならんよ。あんなところに隠しておい
たんじゃ、死体のかたづけをする人にわからんだろう。」
初対面の日、袴に縫い付けておいた「金つき金」の小袋を解いたことを言っている。しか
し今回は出陣なのだ。いにしえの作法通りの始末料を、人がそれとわかるところに身につ
けていくつもりなのだろう。負けて帰るつもりで戦に臨むことはないが、万一の戦死は覚
悟して当然なのである。
「馬鹿言わないで下さいよ。」
「いやあ。ともかく、今は直参の武士だもの。その位の覚悟で行かなくちゃ、お役には立
てないさ。今夜はね、実はわしも……お袖さんたちにさよならを言うつもりで来たのさ。」
「いやですよ。縁起でもない。」
「ふふ。」
 井上は、ほろ酔いの笑いとともに、お袖に杯を差し出した。
「お袖さん、あんたも飲みなさい。」
「………。」
 お袖はそのまま、井上の酌を受けている。井上はしみじみと、
「あんたたちには、世話になったなあ。」
「何、おっしゃってんですよ。」
「わしゃあ、京に来てとうとう、決まった女も家も持たなかったが……このうちが、わし
にとっての休息所だったよ。この町の人たちは皆、新選組というと、こわがったり、内心
では蔑んだりして悪者扱いにしていたもんだが、……あんたらは違ったものな。」
「悪者だなんて……。」
「まして佐野君の仇討ちの時は、危険を侵して、わしらの手助けをしてくれた。あの時は
無茶だと叱ってしまったが、本当は嬉しかったよ。」
「………。」
「この先どこへ行っても、忘れないよ。達者でがんばっておくれ。」
達者で、という言葉が胸に突き刺さった。与吉おじさんに続き源三郎おじさんも、という
連想がお袖の脳裏をかすめたかどうか、わからない。そこまでのゆとりは吹っ飛んでしま
っている。
「源さん……。」
 お袖はそこで絶句して、うつむいたきり、ぽた、ぽたと涙を落とした。
「どうした。」
 井上は驚いて、女の泣き顔をのぞきこんでいる。だが、それ以上のことはしない。
「源さん。」
 お袖は膝を浮かせて、井上に抱きついた。その拍子に、陶器の杯はカチン、と音を立て
てどこかへ転がった。
「お、おい。」
「こうしてて下さい。じっとして、お願いだから……。」
「お袖さん。」
 お袖はぐっと指先に力をこめて、男の着物を離さない。
「いやですよ。これっきり最後みたいなことばっかり言って……死んじゃだめです。いく
さに行ったって……死んだりしたら、あたしゃ承知しませんよ。」
「そう言われても……。」
 次の瞬間。
「あたしは……。源さんが好きです。」
「えっ。」
「いいえ、惚れてます。自分でもやっと、気がついたんだ。こんな、あばずれで馬鹿な女
だけど……あたしゃ源さんに惚れてるんですよ。ええ、惚れちまったとも。こんなに惚れ
させといて、いまさらしのごのと、文句は言わせないよ。好きで好きで、しょうがなくな
っちまったんだから。」
 お袖の顔は井上の肩にふせられ、涙でくしゃくしゃになっている。
「………。」
「死んだらいやだ。源さんみたいないい人は、死んだらいけないよ。あんたみたいな人は、
かみさんを作って、子供をたくさん作って……あたしにしてくれたみたいに、あったかく、
叱ってやったり、ほめてくれたり……そうやって育ててくれた方がいいんだ。刀を持って
うろうろといくさなんかに行くより、そのほうがよっぽど、お国のため、世の中のために
なるんだ。ほんとは、……ほんとはあたしが、源さんの子供が欲しいくらいさ。ああ、抱
いてもらいたいさ。」
「………。」
 井上は、同じ姿勢のままで目を見開いている。
「好き、好き、好き。百ぺんだって言ってやるさ。あたしは源さんが……、井上源三郎っ
て男が、大好きなんだ。………。」
 お袖は井上の胸に顔をつっぷして、おんおんと泣きはじめた。井上は困ったような顔を
して、女の背中を撫でている。しんしんと寒い夜で、外には小雪がちらつき始めている。





 数日たって、新選組が、京の屯所を引き払う当日が来た。見物の人並みから少しはずれ
た所に、銀次が立っている。よそながら、井上の見送りをするつもりだった。
(ふふ……どうやら、お袖姐さんもわしも、あの御方にすっかり、性根のどこかをおかし
くされてしもたらしい。)
 屯所の内外は、荷駄を手配する男たちの声で騒がしい。門の奥で馬のいななきが聞こえ
ている。
(明神下のお袖も、とうとうただの女子になってしもた。あれではもう、盗っ人としては
使いもんにならへんやろ。)
 銀次は複雑な思いで、くすっと笑っている。
(さて、なんぞええ商売でも考えな……。)
 その時、ようやく隊伍が整ったらしく、新選組隊士の面々が路上に現れた。井上の顔も
見えている。そばで話をしている幼な顔の少年兵は、噂に聞いた甥の泰助だろう。人のい
い井上が、なぜ自分の甥っ子を一度もお袖と銀次の家には連れてこなかったのか、旧友の
沖田を始めとする仲間たちを連れてこなかったのか、この頃の銀次には、なんとなくわか
るような気がする。今日はその井上を真似て、こうしてこっそりと来ている。
 「新選組、出発。」
 白馬の上で、局長の近藤勇が手を振った。それを合図に、都の乾いた土を蹴って、新選
組の隊列が粛然たる歩みを始めた。
 銀次は列の遠くから、ひとり深々と頭を下げている。

 明けて慶応四年正月、鳥羽伏見の戦い、開戦。三日目の激戦中、新選組六番隊長・井上
源三郎は、淀千両松付近において味方を救援するために大砲の側部にとりつき、その場で
敵銃弾を浴びて倒れた。
「叔父さん、叔父さーんっ!!」
 甥の泰助はけなげにも、息絶えた源三郎の首を落として運ぼうとしたが、何しろ少年の
力では重くて身動きがならない。その時、腰にさげた源三郎の首が、ふと布包みの中から
ささやいたような気がした。
───いいよいいよ。重い荷物なんざ、置いていきな。
「叔父さん。」
 泰助は泣く泣く、見知らぬ地に首を埋めて敗走したという。余談だが、あれほどに絆の
固かった郷党の近藤勇、土方歳三、沖田総司の誰も、井上の落命の場に居合わせることは
なかった。この日、一月五日。
 井上源三郎は、こうして戦地の中にかき消えてしまった。甥の泰助少年は無事に郷里に
帰り、源三郎の戦死を語り伝えた。後に親族の手により、遺体のないまま日野の宝泉寺に
墓が建てられた。
「誠願元忠居士」
 という。戒名まで近藤・土方らに比べると控えめで、その人柄をしのばせる素朴なもの
になった。

 
 京都六角通りの煙草屋は店を閉め、お袖と銀次がどこへ行ったのか、知るすべはない。

                                   (了)





 
<2008/4/4(金) 23:16 千太夫>

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