村田蔵六 
 むらた ぞうろく 

長州藩士
 
  文政7年5月3日、周防国吉敷郡鋳銭司村字大村に、代々の医者村田孝益を父、ムメを母  

  として生まれる。村田家は「田畑三反六畝五歩、高五石七升一合、本百姓四軒半」とある。  

  幼名は惣太郎、後に祖父の通称を継いで良庵、更に「蔵六」(手、足、頭、尾を全て引っ込め  

  た亀の意味)と改めた。慶応元年に長州藩主毛利敬親の命で大村益次郎と改名、この名で知  

  られる事が多い。諱は永敏。  

  蔵六は天保13年19歳の時に三田尻の蘭方医梅田幽斎に洋学を学び、翌年豊後国日田の広瀬  

  淡窓の咸宜園にて儒学を学ぶ。弘化三年、大坂に出て蘭学、医学の大家である緒方洪庵の  

  適塾に入門。途中長崎に遊学するが、再び適塾に戻り約5年在席、嘉永2年適塾塾頭とな  

  った。同門に橋本左内、大鳥圭介、福沢諭吉、長与専斎ら錚々たる秀才がいる。  

  嘉永3年、適塾を辞し郷里に帰って村医者を継ぐが、持ち前の無愛想と徹底した合理主義  

  は村人には受けが悪く医者としてはさっぱり流行らず、翌年4月に村の娘を妻に迎えたが  

  彼女の臓躁(ヒステリー)体質で悩まされ、専ら西洋兵書を読み漁っていたという。しかし  

  嘉永6年のペリー来航で時局が転換、新進の精神を欲する伊予宇和島藩主伊達宗城に、蘭  

  医二宮敬作(シーボルトの娘イネを養育した)が村田蔵六を推挙し、蔵六は一介の村医者  

  から宇和島で100石を給せられ、兵書翻訳や蘭学教授、動物を解剖しての医学指導等にあ  

  たった。安政3年宗城の参勤に伴い江戸へ上り、番町に鳩居堂という塾を開き、長州の久  

  坂玄瑞(義助。吉田松陰門下の筆頭)ら有望な青年が続々入門。蔵六は幕府の講武所教授、  

  蕃書調所の教授手伝に任ぜられる。この頃江戸にあった桂小五郎は、村田蔵六の死体解剖  

  の見事な執刀ぶりを見たというが、地元である防長の頭脳が他に流出している事を惜しみ  

  長州藩に召抱えるよう重臣周布政之助に働きかけ、蔵六は結果的にこの招聘に応じ自塾を  

  麻布の長州藩邸に移し、アメリカ人ヘボンに英語を習う為横浜に通う。  

  文久年間の長州は過激な尊攘論が活発化し、英国公使館焼き討ちや将軍暗殺計画の失敗、  

  関門海峡での米国船砲撃等の事件を起こし、遂に公武合体派の薩摩・会津の連合による政  

  変で京都政界から追い落とされ、元治元年には池田屋事件に続く禁門(蛤御門)の変での  

  武装上洛、皇都炎上という大惨事を招き朝敵として幕府から追討の対象となる。また国元  

  では四国連合艦隊の報復を受け敗北、という動乱の時であった。慶応元年、藩命により長  

  州に帰国した蔵六は高杉晋作の推挙で「手当防御事務用掛」として軍事技師に昇進、5月  

  には譜代(上士)として大村益次郎に改名する。京都では長州人狩りが苛烈となり、長州  

  征伐発令に藩の政権も佐幕(俗論派)か倒幕(正義派)かで二分したが、高杉のクーデタ  

  ーが成功した後は、表向きは恭順し内実は武備増強を急ぐ事となる。密かに薩長同盟が結  

  ばれ、大村益次郎は自らも上海へ武器買い付けに行き、藩軍制改革の総取締に抜擢されて  

  「兵は縦に養うて横に使わなければいかぬ」という持論から有事の増員を唱え民兵制も導  

  入、農町民の志願者を訓練した。倒幕戦略に没頭し、独自の理路整然たる作戦計画は藩の  

  閣僚を納得させ、第二次征長戦(四境戦争)では参謀として石州口、芸州口を守り幕府軍  

  を撃退。自ら弾雨の中に立ち「鉄砲の弾ちゅうものはめったに当たるものではありません。  

  恐れても隠れても運が悪ければ命中する」と言ったという。長州征伐の失敗で幕府の衰勢  

  は明らかとなり、慶応3年末までには大政奉還と王政復古、翌4年正月には鳥羽伏見の戦  

  いで薩長新政府が勝利、「官軍」が東征の途に着く。益次郎は戊辰戦争当初も藩政指導に  

  あたっていたが、同4年正月毛利元徳に従い上洛し、2月、軍防事務局判事加勢として維  

  新政府に出仕。各務歴任し新政府の軍政事務を担当した。また、閏4月江戸に赴き江戸府  

  判事を兼任して江戸の治安回復に尽力する。  

  慶喜の恭順で江戸城は無血開城となったが、町は無政府状態となり天野八郎ら幕臣たち新  

  政府不満分子が上野寛永寺に続々集結、「彰義隊」として立て篭もり官軍に対抗して手が  

  つけられない。この掃討に着任した益次郎は過去の明暦、明和の大火を調査し地図を作り、  

  江戸を大火にせず上野だけを叩き潰す完全無欠の布陣と作戦を立てる。正面黒門口に薩摩、  

  因州、肥後、背後の団子坂(文京区)に長州、大村、佐土原、本郷台加賀藩邸に肥前、越  

  後、尾張、備前、津と、アームストロング砲と四斤山砲の射程距離内に各藩砲兵を置く。  

  一橋水道橋に阿波、尾張。蔵前から吾妻橋に紀州、千住大橋から三ノ輪に因州、戸田川筋  

  に備前を後詰の兵とし東側の根岸、日暮里、三河島、町屋方面にはあえて兵を置かず、敵  

  の逃走路を残した。四面楚歌に追い込まれると死兵と化して抵抗が激しくなる事まで見極  

  めた周到なものである。この布陣図を見て西郷が黒門口担当の薩摩兵を「皆殺しにするお  

  つもりか」と問うと、益次郎は無愛想に「さようでござる」と答えて西郷を唖然とさせた。  

  最大激戦地に最強の薩摩を当てる事は合理的に考えれば当たり前の事だ、という意味であ  

  ろう。また夜襲を提案する者たちには、官軍の討伐として白昼堂々攻撃すべきであるとし  

  て退けた。5月15日、朝7時半総攻撃開始。上空から絶えずアームストロング砲の砲撃を  

  加え、各地で銃撃と白兵戦が展開。装備に劣る彰義隊は陣地からの斬り込みで迎撃したが、  

  繰り返される砲撃に正午を過ぎると戦力が落ち、官軍が上野山内になだれこみ熾烈な戦闘  

  となる。益次郎は江戸城富士見櫓で戦況を見ており、夕刻近くになって人々が昼間のうち  

  に片付かないではないかと詰問すると柱に寄り掛かって懐中時計を見つめ、「この具合な  

  ら夕方に必ず戦の始末がつきましょう。もう少しお待ちなさい」と答え、その言葉通り、  

  間もなく上野が炎上して官軍勝利の伝令が着いた。まずは遠距離からの砲撃で叩いた後で  

  敵陣に乗り込むというのは、数十年後の太平洋戦争で米軍がとった作戦と同じであり、益  

  次郎は既に近代戦での勝利の常道を知っていたのであり、その後も東北戦争の軍事指導に  

  あたって、数々の勝利は軍神信仰に近い程の信頼を集めた。  

  この後、奥羽、北越の戦争が平定して諸隊が引き揚げ、軍費の精算が行われた時、益次郎  

  は一銭の間違いもなく報告した北越方面と数千円もの不明を出した野州から奥州方面の収  

  支報告を見て、誤差を出した役人を全て重用し、誤差のない役人を解雇した。勝敗の予想  

  がつかない戦争では混乱による不明金が出て当たり前、一銭の狂いもなく帳尻が合うのは  

  捏造したに違いないから信用が置けないという合理的な発想であった。明治2年、益次郎  

  は戦功により永代1500石を下賜され、献策して6月29日には東京九段坂上に招魂社(後の  

  靖国神社)を建立、鳥羽伏見から箱館の戦死者3588柱の霊を祀った。自身は軍の全てを掌  

  握する兵部大輔に任ぜられ、陸軍はフランス式、海軍はイギリス式を導入、武士の佩刀を  

  禁じ、志願兵制とし、兵器火薬の自給自足を提唱、士官養成機関の設置、政府直属軍の創  

  立など多方面の軍政改革に着手、新国家に相応しい近代兵制、四民徴兵制を積極的に推進  

  した。しかしこれは、維新の革命に多くの戦力を費やして新時代を迎えた「武士」の存在  

  を新しい社会から否定したのと同義で、益次郎一人が栄達を得たかのような恨みを買う事  

  にもなった。8月、益次郎は兵学寮と火薬庫の敷地選定の為京都に向い、9月4日、軍務  

  局出頭の後、三条木屋町の旅館に戻って門人の安達幸之助(加賀藩士)、静間彦太郎(長  

  州藩士)と酒肴をとっていた所へ、神代直人、団伸二郎、太田光太郎(長州出身)、伊藤  

  源助(白河)、五十嵐伊織(越後)、金輪五郎(秋田)、宮和田進(三河)、関島金一郎  

  (信濃)の八名の藩士、郷士らで成る刺客団に襲われ、頭と大腿部に重傷を負い、大坂の  

  病院に運ばれ蘭医ボードウィンらの治療を受けたが、11月5日に敗血症を起こし死亡した。  

  その特異な相貌から「火吹き達磨」と言われ、軍事の天才として幕末から戊辰の戦争を一  

  気に片付けて漸く新国家の軍事に手をつけた半ばでの早い死であり、徴兵制は彼の死から  

  四年後に実現した。墓は郷里の山口県鋳銭司田中山にあり、銅像が東京の靖国神社にある。  

  享年46歳。  

■ 御 家 紋 ■




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