海援隊隊士 |
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弘化元年7月7日、紀伊和歌山城下に生まれる。幼名小二郎、小助、牛麿、 |
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陽之助。父伊達宗広は八百石取りの重役で、紀州藩の財政立て直しに貢献 |
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した勘定奉行であったが、藩内政争に巻き込まれ失脚し家族は四散。宗光 |
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は恵まれない幼少時代をおくっている。14歳の春、出家し、江戸に出て |
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儒者安井息軒の門人となる。16歳の頃から吉原通いをはじめ息軒に破門 |
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され、将軍侍医の花岡真節邸にころがりこんだといわれる。 |
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義理の兄である伊達宗興が京都粟田口青蓮院にはいり、門主の中川宮に |
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仕えていたのをきっかけに、宗光も勤皇の志士として動き始める。 |
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長州の木戸孝允、伊藤博文、土佐の板垣退助、後藤象二郎、水戸の会沢 |
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正志斎らと交遊。坂本龍馬の推挙を得て、勝海舟の海軍操練所に入るが |
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やがて操練所が閉じられ、龍馬が海援隊を組織するとこれに加わり、副 |
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長格で活躍した。坂本龍馬が慶応3年11月15日、京都近江屋で中岡 |
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慎太郎とともに暗殺されたとき、それまでほとんど剣技に縁のなかった |
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宗光も、慶応3年12月7日、中井庄五郎、土居通夫らと天満屋事件を |
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おこす。宗光は、いろは丸事件の賠償金問題の件、また、新選組や見廻 |
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組との親交ありという点から、紀州用人三浦休太郎を竜馬暗殺指示者と |
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考えたと思われる。海援隊隊士を含む十六名で、三浦と新選組隊士らが |
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酒宴中の天満屋を襲撃したが、失敗に終わる。 |
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維新後、25歳で大阪府権判事に、ついで兵庫県知事、和歌山藩大参 |
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事、神奈川県知事、元老院幹事を歴任。 |
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明治10年西南戦争のとき、西郷隆盛に呼応して立ち上がろうとして政府 |
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転覆の嫌疑を受けて入獄。15年、特赦出獄。再び政府に出仕し、駐米 |
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大使、山県有朋内閣の農商務大臣、元老院議官、伊藤博文内閣の外務大 |
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臣となり、イギリスとの治外法権撤廃の条約改正、清国との講和条約調 |
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印、三国干渉など外交問題を処理し、カミソリ大臣とうたわれる。 |
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明治30年8月24日、東京西ヶ原に没す。享年53歳。大阪天王寺夕陽丘 |
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に葬られる。昭和28年、神奈川県鎌倉市寿福寺に移葬。 |
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■ 御 家 紋 ■ |
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