中岡慎太郎
なかおか しんたろう

土佐脱藩
 
天保9年4月13日、土佐国安芸郡北川郷柏木において大庄屋中岡小伝次の長男に生まれる。
 
初名は光次、諱は道正、号は迂山。石川清之助、大山彦太郎、横山勘蔵などの変名がある。
 
3歳で父、4歳で村の松林寺禅定和尚に初学を受け、7歳では片道90分をかけて隣の野友
 
村の漢方医島村岱作の塾に通い、四書を習い14歳で塾の代講をつとめる。14、5歳の頃から
 
安田浦の岡本寧甫塾、高松順蔵(坂本龍馬の長姉千鶴の夫)塾に通い、経書、歴史、和歌、
 
絵、書道、居合術を学び、安政元年に藩校田野学館が新設されると入学。藩命で出張して
 
いた武市半平太(瑞山)に剣術を習い、その武術と人格に敬服し、武市が高知に帰ると慎太
 
郎も高知に出て新町田渕の道場に入門。一方で間崎哲馬に南学、土佐藩砲術指南吉村賢次
 
郎にも師事している。
 
安政4年、20歳の時、病父に代わり北川郷の大庄屋見習となり、野友村庄屋利岡彦次郎の
 
長女かねと結婚。翌5年土佐の大地震と安政コロリという疫病の流行で人々の困窮はひど
 
く、慎太郎は自家の土地を担保に富豪から米麦を借り入れ施したが足りず、近村の庄屋に
 
図って藩に800両の金を借りて戻り人々を驚嘆させ、また、ある時は飢饉の為に自ら集め
 
た薩摩芋500貫を救済に当てたが足りず、高知城下へ出向き国家老・桐間蔵人の役宅前で
 
一夜座り込み、家老へ直接の陳情に成功して貯蔵米の官倉を開き村民救済の許可をとりつ
 
けた。慎太郎自宅に奉公した古老は「中岡先生はひとときも無駄のない人で、夕方所用か
 
ら帰ってくる道すがら、村の者が稲の刈入れに追われていると自宅から天秤棒を持って、
 
そのまま手伝いにいった」という逸話を残している。
 
文久元年、武市が土佐勤皇党を結成するとただちに参加。翌2年10月には藩の許可を得ず
 
脱走五十人組の伍長として江戸に出て尊攘運動の為の国事に奔走。信州松代に謹慎中の学
 
者佐久間象山を訪問。土佐藩主山内容堂も慎太郎を抜擢し、帰国後の文久3年2月に徒目
 
付に登用、他藩との対応にあたらせた。その後も武市とともに勤皇路線を進むが、京都に
 
おける佐幕派巻き返しのクーデター「八月十八日の政変」で事態は一変し、土佐藩内でも
 
勤皇党弾圧が強化されたため、慎太郎は9月5日郷里を脱藩し、三条実美ら尊攘派首脳の集
 
結する長州三田尻の招賢閣に身を置く。翌元治元年7月の禁門の変の際には長州軍に参加
 
して上洛し、鷹司邸で負傷。敗れて長州に逃れ、下関の四ケ国連合艦隊攻撃のときも防戦
 
軍に加わり、忠勇隊隊長となり三条実美ら公卿に近侍、五卿の大宰府移転について待遇条
 
件を西郷隆盛と交渉。これをきっかけに薩摩・長州両藩の和解と同盟を目指し、慶応元年
 
5月以降、郷党の坂本龍馬と共に行動を開始する。
 
慶応元年11月26日、慎太郎は自著「時勢論」の中で何の為の攘夷、何の為の討幕かを説き、
 
今後の日本が薩長主導になる事は明らかだと予言している。それまでの確執から曲折を経
 
た2藩ではあるが、薩長同盟は慶応2年1月に成立。同年中の書簡の中で、将来日本を
 
脅かす国としてロシアとの開戦を予見し、中国、英、仏、米とも国際的危機の恐れがある
 
と書き、国内的には徳川を助けるには自ら政権を返還し臣下として勤める事であり、無理
 
に権威を維持しようとすれば必ず滅ぶとした。また、来たる討幕戦を想定して土佐藩政の
 
改革も知己に意見し、特に洋銃隊の組織と精兵主義を力説している。「村も家財も投げ捨
 
て、勇ある者、智謀ある者、技芸ある者、愚なる者も自ら尽くし公明正大、おのおの一死
 
を以て至誠を尽くしてのちに政教たつべく武備充実、国威を張るべく」というすさまじい
 
主張であった。慶応3年、慎太郎は土佐の乾(のち板垣)退助を西郷に会談させ、薩土討幕
 
の密約を結び山内容堂の決意を促し、板垣が土佐に帰って同志を集め諸兵の訓練に就くが、
 
一方の坂本龍馬は後藤象二郎を通じて戦争回避の妙案「船中八策」を建策する。慎太郎は
 
「議論周旋も結構だが、近日必ず薩長による開戦に至るのだから、武器をとって闘う覚悟
 
がなければ空論に終わる」としこの点が龍馬との大きな相違点であった。上京した慎太郎
 
はかねて計画の浪士団「陸援隊」を結成、京都白川村にある土佐藩邸を屯所として借用、
 
7月27日に移った。規約に「隊長一人。脱藩ノ者、陸上斡旋ニ志アル者、皆是ノ隊ニ入ル。」
 
とあり、隊長中岡慎太郎の下、田中顕助、木村弁之進、大橋慎三(以上土佐)、香川敬三
 
(水戸)を幹部に薩摩の兵学家鈴木武五郎が調練を行い、脱藩者や十津川郷士隊も加わり、
 
土佐藩からの支給は僅かな為、隊長の慎太郎自ら金策し討幕派公卿からの援助も集めたと
 
いうが隊士は間近に迫る決戦の風雲を望んで意気軒昂であった。
 
しかし同年11月15日、慎太郎は盟友坂本龍馬の潜伏する近江屋を訪ね同席中、共に刺客に
 
襲撃される。龍馬は即死したが、慎太郎は重傷で犯人は「こなくそ」という四国弁を発し
 
たという証言を残し、2日後に絶命。志なかばの惜しまれる死であった。享年30歳。墓は
 
京都東山霊山にある。
 
■ 御 家 紋 ■
 

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