小栗上野介 
 おぐり こうづけのすけ 

幕臣、勘定奉行
 
  文政10年、江戸駿河台、旗本で禄高2500石取りの名家に生まれる。通称又一、官名を豊後  

  守、後に上野介。諱は忠順(ただまさ)。父は新潟奉行等を勤めた忠高。母国子。小栗家は  

  本姓が松平であったといい、徳川にとっては正に「三河以来」の譜代の家臣であり家康の  

  頃の祖先が数々の戦で「またも一番槍」と感嘆された剛毅な武将であった為「又一」の名  

  を賜り、これを名誉として代々当主が又一を継承した。小栗は7歳で屋敷内の安積艮斎塾  

  に漢学を学び、剣は島田虎之助に、柔術は久保田助太郎、砲術は田付主計に学んだ。少年  

  の頃から鋭敏で大人びており、12歳頃から煙草を燻らせ大人と対等に質疑応答する姿が堂  

  に入ったもので、末恐ろしいと周囲を唖然とさせたという。初登城15歳。17歳から蘭学を  

  学び、開明派幕臣の岩瀬肥後守忠震の翻刻刊行した「地図全誌」を読みその先見的な新日  

  本構想に私淑、自身も早くから開国の必要性に目覚めた。安政2年家督を継ぎ、同6年に  

  目付。次いで大老井伊直弼時代の幕府が、日米修好通商条約の批准書を米大統領へ贈る遣  

  米使節団結成の時、正使・新見豊前守正興、副使・村垣淡路守範正に次ぐ監察目付として  

  第三位の使節に抜擢された。34歳の安政7年(改元後は万延元年)1月18日にアメリカ船  

  ポーハタン号で築地を出航。ハワイに寄航してカメハメハ大王夫妻の歓待を受け、3月9  

  日にサンフランシスコ上陸、護衛役の咸臨丸(勝海舟ら)は帰国したが使節団一行は鉄道、  

  船を乗り継いでワシントン、フィラデルフィア、ニューヨーク等の都市を歴訪、ブキャナ  

  ン大統領に会見を果たし、各地では「サムライ」を一目見ようと市民が星条旗と日章旗を  

  振って沿道を埋め尽くし、数十万ドルの旅費は全てアメリカが提供、日本側の負担は持参  

  した土産品以外は受け取らなかった程の大歓迎を受け、可能な限りの西洋文化を見聞した。  

  この時の一行の中では小栗の評価がずば抜けて高く、特に自ら天秤ばかりを持参して、日  

  米金貨の金銀含有率を正確に測定する実験を行い、それ迄の貨幣価値の格差による不平等  

  貿易是正の約束を迫り、未開と見られていた日本人の知性をしらしめ瞠目された。最初は  

  慌てて実験を断ろうとしたアメリカ側も小栗の熱意に動かされ、実験成功にはブラボーと  

  喝采、その後のパーティー会場では小栗も米国民の誠意に感謝のスピーチを述べたという。  

  その後は大西洋航路でアフリカ喜望峰、インド洋、ジャカルタ、香港等を廻り、9月28日  

  に帰国。しかしこの時日本では既に大老井伊が暗殺され攘夷の嵐が起こっており、10ヶ月  

  の世界一周から帰った使節団には、まるで時代が逆行した感があった。小栗は加増を受け  

  「上野介」の官位を賜るが、人から吉良上野介と同じでは縁起が悪いのでその名は断った  

  らどうか、と言われるとそんな事はどうでも良い、と一蹴したという。世界最新の国家を  

  見て来た小栗にとって平安宮廷の名残である古い官名にこだわる必要はなかったのである。  

  帰国後は外国奉行に就任、書院番頭、歩兵奉行並、御軍制御用取調、陸軍奉行、軍艦奉行、  

  江戸町奉行等、時には兼務も命ぜられ、就任と辞任を繰り返し「またも小栗様のお役替え」  

  と言われた。特に三度も任命された勘定奉行としての功績は大きく、対諸外国の賠償金支  

  払から、各使節団や留学者の海外派遣、洋式軍備の拡大、和宮降嫁、将軍上洛、長州征伐  

  その他、未曾有の莫大な出費を抱えた幕府が、末期数年間の命脈を持ち応えられたのは小  

  栗一人の働きあってこそと後述される。将軍後見職の一橋慶喜に近畿各州から領地を分け  

  て自身の禄を与えよという朝廷の案に、小栗は「命に換えても」とまで大反対を直言、尊  

  攘派公卿三条実美からは小栗を罷免せよと横槍が入った程、有能ぶりを頼られも怖れられ  

  もし、非を真っ向から打ち出しては辞めさせられた。旗本最高位の若年寄に就任しなかっ  

  たのは、この直情さが原因であろうと言われている。小栗は英人ヒュースケン殺害事件、  

  ロシア軍艦の対馬占拠の交渉、薩摩が起こした生麦事件他の賠償問題等外交に苦慮しなが  

  ら、文久2年に「六備艦隊」を提唱、江戸、箱館、能登、大坂、下関、長崎を拠点とし数  

  十の帆走又は蒸気軍艦を擁する東洋一の大海軍構想(後の連合艦隊に通じる)を纏め、勝  

  海舟ら現実派からは「日本が小栗の言う通りにやったら500年かかる」と批判されるが、榎  

  本武揚ら若い才能をオランダ留学に送り出し、南北戦争勃発と終戦で不要の軍艦放出を見  

  越して米国最新鋭軍艦ストーンウォールの購入に要員を送り、幕府に大臣合議制導入を発  

  案したり、外国人の貿易市場操作を防ぎ貿易を掌握する事が必要と、各豪商の民間出資を  

  募る日本初の株式会社「兵庫商社」設立に尽力。小栗の建議書に「外国と取引致し候には、  

  いずれも外国交易の商社・西名コンペニー(カンパニーの事)の法に基き申さず候ては、  

  とても盛大の貿易と御国の利益に相成り申す間敷と存じ奉り候」とある。これは坂本龍馬  

  の海援隊より先んじた構想で、龍馬は小栗の発案に脅威を感じ経緯を記録している。   

  また、小栗は元治元年、総工費240万ドル、完成予定が慶応4年1月の「横須賀製鉄所起立  

  原案」を纏めた。製鉄、造機、造船を含め、米、仏に匹敵する近代大規模工場で、まずは  

  中規模の横浜製鉄所(後の石川島播磨重工業の前身の一つとなる)を作る構えであった。  

  当時は外国公使や諸大名、幕府海軍内部にまで実現不可能、資金難を唱えた反対の声が上  

  がり、親友栗本鋤雲が心配した時、経済とは大目的を立てて金を使うのが大事で、つまら  

  ない事に消える金の節減に繋がると説明、「旗号に熨斗を染め出すも尚土蔵付き売家の栄  

  誉を残すべし」と原文の記録にある。幕府が倒れ、身代に熨斗をつけて新国家に渡す時が  

  来ても造船所という固定の財産価値が残ると言ったのであり、実際にこの時作られた横須  

  賀ドックは現存し、1865年製のスチールハンマーは1990年代の米空母修理にまで稼動して  

  いる。小栗は幕府の衰退を実感しつつ、日頃から「父母が大病で回復の望みがなくても、  

  もしや治るかと最期まで医薬の手当をやめないのが子の心情だ」と例えていたといい、決  

  して不可能を口にしない人物だったと幕臣福地桜痴が著書に伝えている。自ら大柄のアラ  

  ブ馬に乗って登城、蹄の音で小栗様とわかると言われ、額が優れ色が黒く眼光鋭い小栗の  

  容貌をを怖がって3歳の幼児が泣き出すと、「子供ながら人を見分けるとは大したものだ」  

  と笑った。  

  小栗上野介は、造船所、火薬製造所、反射炉、大砲製作所の建設、六備連合艦隊構想、洋  

  式軍制、外国馬の導入、鉱山開発、商社や諸色会議所(後の商工会議所)、外国語や造船  

  の学校設立、新聞発行、電信事業、横浜江戸間の鉄道、ガス燈、郵便局、株式簿記、休日・  

  昇進・昇給等を定めた近代雇用体制、酒類等への課税制度まで、薩長藩閥政府が手をつけ  

  た多くの先進事業を既に立案、或いは着手していたが、その傑出した才幹故に意図的に歴  

  史から抹殺、忘却される。  

  慶応4年1月、鳥羽伏見の敗戦で自ら軍艦に乗って江戸へ逃げ戻って来た将軍慶喜を前に  

  幕臣たちは連日評定を行い、小栗は次の作戦を慶喜に提示する。  

  一、開陽を旗艦とする幕府海軍艦隊が駿河湾で遮蔽物のない沿道を進軍する新政府の東征  

  軍を砲撃して退路を断つ。  

  一、フランス式調練を受けた幕府陸軍の歩・騎・砲兵の精鋭に充分な武器を持たせ、東征  

  軍を箱根以東に誘い迎撃、袋の鼠にする。  

  一、幕府海軍を近畿に送り大坂を制圧して、九州の反薩長分子を決起させる。  

  小栗は軍資金は自分の責任で調達する、と言い、退出しようとした慶喜の袖を掴んで決断  

  を迫るが、慶喜は小栗の罷免を命じ、勝に全権を委任して恭順を決定する。小栗は服し、  

  豪商三井の中枢三野村利左衛門(後の三井銀行頭取)がこれまでの恩義から渡米して身を  

  隠す事も勧めたが一笑に付して、自らの領地である上州権田村へ家族と共に引き揚げた。  

  ここで地元の青年たちを農兵という名目で募り、かつて米国のハリスから聞いた私学校と  

  同様、隠居後は教育に従事したいと願ったが、元勘定奉行小栗上野介が徳川の隠し金を運  

  び込んで密かに再起を図ると疑われ、官軍への謀反を名目に東山道総督軍に自衛の為の武  

  器を押収され、養子又一を連行(後斬首)される。閏4月6日、小栗自身も烏川の河原に  

  引き出されて、正当な取調べもなく斬首に処された。最後は官軍兵に向い「お静かに」と  

  言ったと伝わる。享年41歳。忠臣小栗処刑には創設間もない新聞も批判の声を掲げた。  

  官軍が戊辰戦役中の混乱に乗じて、高位の幕臣を見せしめともいうべき不当な斬首に処し、  

  やり過ぎだと非難されたのは、小栗上野介と新選組局長近藤勇である。敵の目から見れば、  

  生かしておく限り何をするか判らないという恐怖の念が残酷な処分を急がせたのであろう。  

  明治の後年、小栗の首を斬った原保太郎は貴族院議員となったが、彼が作った横須賀ドッ  

  クを見学して驚愕し、上野彰義隊を壊滅させた長州の大村益次郎は小栗の官軍迎撃作戦の  

  内容を知り、実行されれば負けたと青ざめたという。薩摩出身で連合艦隊の長官であった  

  東郷平八郎が、小栗の遺族に会い、横須賀造船所創設の御蔭で日本は日清、日露戦争にも  

  勝てたと謝辞を述べた。小栗上野介は、三河武士の忠烈な意地を幕末まで貫きながら、本  

  来は誰より先に「明治の元勲」と呼ばれるべき、先駆の幕臣であった。  

■ 御 家 紋 ■




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