大鳥圭介
おおとり けいすけ

幕 臣
 
天保4年2月25日、播磨赤穂郡赤松村の医師、小林直輔の子に生まれ、幼い頃から備前閑谷黌
 
で漢学を修め、後に当時隆盛を極めた大坂の緒方洪庵の適塾で蘭学を学ぶ。さらに江戸の坪
 
井忠益の塾に入り、傍ら蘭書の翻訳を行い塾生に講義した。江川太郎左衛門より兵学、中浜
 
万次郎に英語を学ぶ等、洋学全般の深い知識を認められ、安政5年に幕府開成所の教授を
 
拝命、開成所から陸軍に出向き、後に歩兵指図役頭取に任ぜられる。横浜ではフランス式
 
陸軍の伝習を受け、歩兵奉行に就任している。一方、西洋に対する知識を活かして幕政改
 
革の意見を述べ、元治元年には二院制議会の採用を幕府上部に建言している。陸軍伝習所
 
では幕府軍の精鋭を編成。800人もの大部隊伝習隊である。隊員募集は家柄に関係なく実
 
力主義であった。大鳥自身も新採用の幕臣であるが、フランス人ブリュネに教えを受けて
 
おり、後ろ盾に大国フランスを持つ幕府が主導すれば、日本の近代化は成るとの夢を託し
 
ていたのである。
 
慶応4年鳥羽伏見で戊辰戦争が勃発し、大坂から負けて戻った慶喜が恭順の意を示すと小
 
栗上野介らとともに徹底抗戦を主張、強硬論を述べるが受け入れられず、4月11日の江戸
 
城開城に合わせ、大鳥は浅草報思寺に旧幕軍500を集め、部下と共に江戸を脱走した。12日
 
大鳥らは市川に至り、新選組の土方歳三、会津藩出身の秋月登之助、桑名藩の辰見らと合
 
流して2000の兵力の将となり、これを3隊に編成して進撃。部隊は日光を目指し、16日に
 
下野小山へ向かうところで官軍と戦いこれを破る。土方らの別動隊がすでに宇都宮城を陥
 
落していたので小山経由で入城。これが大鳥の率いる部隊の最後の勝利であった。
 
大鳥らは会津西街道を防戦しながら逃亡し、ついに会津若松に入る。農兵を募る事を松平
 
容保に建言したが失敗。7月までそのまま藤原に陣をおいたままであったが、会津城は抗
 
戦の末官軍に落ちた。しかしこの時、幕府海軍の榎本武揚が6隻の軍艦を率いて松島湾に
 
入り、これに合流して共に箱館に向かい、現地は未開の地であろうと思っていたが本州と
 
変わらない民家の様子に驚いたと記している。入れ札(選挙)により蝦夷共和国の陸軍奉
 
行となった大鳥は、軍事理論には精通していたものの、実戦で鍛え上げた土方歳三程の戦
 
上手ではないと言われるが、「また負けたよ」と豪快に笑う様子には「将の器」と兵士た
 
ちを嘆息させたという逸話もある。
 
明治2年に官軍の最襲来が始まり、大鳥は五稜郭に立てこもっていたものの、黒田清隆率
 
いる官軍に箱館総攻撃を受け、敗北は決定的になる。榎本らは協議の末、玉砕しようと結
 
論を出すが、大鳥の「死のうと思えばいつでも死ねる。今度は一番降参としゃれ込んでみ
 
てはどうか。」と言う言葉に覆され、一同は官軍に降ることになったと言われる。
 
降伏の後東京の獄に送られるがこの獄舎はかつて大鳥がつくった大平前歩兵屯所であった。
 
大鳥はここで、牢名主の悪習慣をやめさせ、合議制による運営に改める。明治5年出獄。
 
その後すぐ明治政府に出仕し、開拓使御用掛などに任じられ、学習院院長等も就任。日清
 
戦争に際しては明治22年特命全権清国駐箚公使となり、26年、朝鮮駐箚を兼任。27年、枢
 
密院顧問官に任じられる。戊辰役戦没者を追悼する箱館碧血碑の建立にも尽力した。明治
 
44年6月15日、食道癌で死去、80歳。
 
■ 御 家 紋 ■
 

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